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差異共振シナジー・宇宙(コスモス)について:人類史の終焉と超宇宙神時代
現代の自然科学・工学技術は、唯物主義に基づいている。すなわち、現象は、物質であると考えているのである。そして、精神や生命等を、物質から説明しようとしている。たとえば、遺伝子は、DNAに集合体であるゲノムに存すると考えているし、また、精神現象を、脳の物質現象として、捉えようとしている。《ヌース理論は、精神を、量子現象として、捉えようとしている。量子は、霊と等価になるだろう。なぜなら、霊とは、精神を、連続・同一形式によって捉えたものだからであり、量子とは、イデア・シナジー(差異共振シナジー)=精神を連続・同一性形式で捉えたものと考えられるから、霊=量子となるのである。中沢新一の霊的唯物論と一致すると言えよう。》
 しかし、唯物論的自然科学・工学技術とは、カント哲学が明らかにしたように、超越論的形式=主観性に規定されているのであり、いわゆる、物自体、言い換えられば、自然自体を把捉していない、主観形式に限定された世界観である。近代主義的自然観である。
 これに対して、プラトニック・シナジー理論は、不連続的差異論をベースにした、新たなイデア論であり、イデア論的科学(イデア・シナジー・サイエンス)、イデア論的技術(イデア・シナジー・テクノロジー)、その他を目指していると言えよう。これによれば、現象は、イデア・シナジーの発現ないし仮象である。すなわち、差異イデア共振シナジー現象である。つまり、現象は、イデア共振シナジーが本体であるということであり、物質とは、イデア共振シナジー現象の同一性化であると言えるのである。換言すると、物質主義的自然科学は、イデア共振シナジー現象の同一性的表面のみを捉えているのであり、差異的本体を捉えていないということができるのである。すなわち、イデア的真実在を捉えていないということである。正に、表層・皮相科学である。
 これは、端的に言うと、どういうことであろうか。それは、差異共振シナジーという事象事実を取り逃がしているということである。より明快に言えば、差異共振という事象事実を看過しているということである。より平明に言えば、差異調和という事象によって、全宇宙が成り立っているという事実を見逃しているということである。差異のハーモニーによって、全宇宙は成立しているという事象事実の見落としである。これが、全宇宙の真実・真相・真理である。(華厳経は正しいのである。また、欧州の古代・中世の知の伝統における、コズミック・ハーモニーの思想(宇宙的調和観)は、正しいのである。)
 これは何を意味しているのか。差異共振調和を否定する現代の人類の社会は、宇宙の根本的法則を踏みにじっている、違反している、否定しているということである。そう、今や、地球世界は全宇宙のガン細胞となっていると言えよう。全宇宙・コスモスの調和を乱す地球・人類の存在は、全宇宙にとり、ゆゆしきものであろう。宇宙・コスモスの真理に違反して、宇宙・コスモスを阻害していると言えよう。
 もう少し、詳しく見ると、差異共振エネルギーが本体としてあり、それが現象しているのであるから、現象の本体・真実在は、差異共振エネルギーないし差異共振シナジー・エネルギーである。しかし、今日・現代の地球・人類の意識・生活様態は、差異共振シナジー・エネルギーを否定・排除・排出・隠蔽するものである。すなわち、自然破壊のような外的な破壊以外に、内的な破壊が行われているのである。内的エネルギーの枯渇が、人類に起こっているのである。当然、精神・肉体の病気になるだろうし、また、創造も枯渇するのであるし、戦争が、常態となるだろう。つまり、人類壊死である。古木に栄養が行き渡らなくなるような事態になっているのである。栄養源に対して自閉しているのである。そう、地球人類衰退・滅亡の過程になっていると言えるのである。そして、差異共振シナジー・エネルギーを新たに導入するポスト人類・超人類が、出現しつつあると思えるのである。
 そして、経済的には、ポスト資本主義として、差異共振シナジー経済が生まれるだろう。差異共振シナジー宇宙・コスモスに接続するスーパー・エポックとなったと言えよう。人類史の終焉・終末である。
新アポカリプスである。新コスモスの超時代である。スピノザ/カント/ヘルダーリン/フッサール/D. H. ロレンスの時代である。ポスト・キリスト教/大乗仏教&コスモス・ルネサンスである。差異共振シナジー・コスモスのエネルギーが参入する超時代である。大宇宙・超宇宙ルネサンスである。差異共振シナジー宇宙が、今や、顕現するのである。
超宇宙神の時代である。
| sophiology | 20:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
お金と指導層:コナトゥス(自己保存力)とシナジー強度:シナジー共生体エコノミーへ向けて
日銀の福井総裁は、村上ファンドへの投資で、元本の2倍以上に値上がったこと等の事実の判明に対して、元本等を慈善団体に寄付すること、報酬を自主的に減額することを、償いとして発表したが、これは、自分の責任回避の、悪賢い、没倫理的な、行為であり、このような人物を日本経済のキーポイントに置くことは、許されるべきことではない。
 貨幣至上主義という悪魔・悪霊の精神がここにはあるのである。日本の中枢に巣くっている、悪霊どもである。これを、浄化しないといけない。貨幣というマモン・悪霊に憑依された者どもである。
 明らかに、お金は、現象界自我と結びついてる。自我所有欲と結びついている。そう、誰でも、自我所有欲はある。ホッブズ/スピノザの言う自己保存力(コナトゥス)とは、人間個体存在の基盤にあると言えよう。しかし、ホッブズのように、それがすべてであるとは言えないと私は考える。(参考:
http://www.mars.dti.ne.jp/~kells/Essay/spp2.html
http://www.ne.jp/asahi/village/good/hobbes.html )
 整理して言おう。コナトゥスがすべてであると言っていいのである。しかし、コナトゥス(自己保存力)は、単に、ホッブズの言うように、利己主義ではないのである。コナトゥスには、自我所有欲が一つの中枢として存するが、その他の中枢があるのである。
 より整合化して言えば、個体の基盤にあるコナトゥス(自己保存力)とは、根源の差異が同一性的に現象化して、発生しているものだろう。(おそらく、唯識論の阿頼耶識とは、差異と同一性の境界意識を指しているのではないだろうか。)
 思うに、一般の動物・植物の場合は、差異が類型化していて、差異と同一性の相違がそれほどないのではないだろうか。しかるに、人間の場合は、差異と同一性の相違が大きいのである。思うに、人間の場合、差異が剥き出しであり、プラトン・シナジー(イデア・シナジー)理論(New Platonic Synergy Theory)の説く「メディア界」(これも名称を変えた方がいいだろう。シナジー界ではどうだろうか。)が、剥き出しであり、生成変容する多次元多様体であり、それに対応する同一性自我が強化されると考えられるのである。即ち、多次元多様体としての差異とそれに対応する同一性自我の境界において、コナトゥスが発生すると思えるのである。正確に言えば、境界の現象面にコナトゥスが発生すると言えよう。図化すると、

シナジー界(メディア界)/境界/《コナトゥス》→同一性自我現象界

である。コナトゥスは、ホッブズ/スピノザの言うように否定することはできない。それが、人間を現象界(いわゆる現実や経済)を動かしているのである。そして、近代以降、このコナトゥスが中心的になったのである。しかしながら、人間は、境界を介して、シナジー界への「心感性」をもっているのである。そして、指導層となる人間には、この「心感性」の意識知性が要求されるものである。しかしながら、日銀福井総裁は、憎らしくも、これを裏切ったのである。(もっとも、今日、日本の指導層は、「鬼畜」であるが。)「心」があるなら、当然、「自己責任」で、辞職すべきである
 理論的検討を続けると、境界人間(シナジー/同一性境界的人間)は、シナジー界と同一性自我現象界の両面を帯びているのである。ただし、ここで、弁証法構造を考えてはいけない。弁証法構造とは、確かに、境界の事象の一つであるが、優先点(プライオリティ)は、同一性である。つまり、シナジー/同一性境界の同一性面にあるのである。つまり、ここで言いたい境界人間とは、対極性構造の「力学」をもった人間である。つまり、シナジー界的人間、シナジー強度をもった人間と換言できるだろう。このシナジー強度は、コナトゥスに対する「倫理」の強度であると言えよう。そう、コナトゥスは否定できない、これは認めよう。しかし、プラトン・シナジー(イデア・シナジー)理論では、コナトゥス以外の力として、シナジー強度を肯定するのである。そして、指導層には、このシナジー強度を内包した人間が必要なのである。しかるに、現日本は、コナトゥスのみの、没シナジー強度・倫理の悪霊人間が中枢を占めているのである。福井総裁が正にそうである。これは、明らかに亡国路線である。
 では、コナトゥスとシナジー強度の関係を考えると、少なくとも、相補的関係になるのが整合的であろう。自己保存力が、シナジー強度・倫理強度と結合することは、必要ないし必然なことのように思えるのである。(私が、オカルティズムや宗教に対する疑念はここに存すると言える。霊主体従に批判的である。だから、D.H.ロレンスを評価するのである。彼の『死んだ男』のオシリス・イエスが、貪欲と贈与の二元論でなく、そのバランス・エコノミーを説いていたが、正に、コナトゥス/シナジー相補経済である。)なぜなら、もし、シナジー強度中心にすると、コナトゥスが否定的になる。しかし、コナトゥスは否定しようがないから、反動化して、さらに悪霊化するのである。(おそらく、新興宗教関係が悪魔・悪霊化しているのは、ここにあるだろう。コナトゥスではなくて、シナジー強度を中心に説くから、個体に強く存在しているコナトゥスが影に隠れて反動的に拡大するのである。ここで、親鸞哲学の意味を考えた方がいい。また、愛国心教育も同様である。それは、悪魔・悪霊の教育である。)
 両者の相補的バランスを目指すべきである。今日のグローバル資本主義と社会民主主義の問題も、ここに帰着するのだろう。即ち、コナトゥス/シナジー・コンプルメンタリティ(相補性)政治経済文化社会を目指すべきなのである。思うに、共産主義/社会主義の失敗は、コナトゥスを否定して、コナトゥスの悪魔的反動を招いた点であろう。そして、新自由主義の問題は、シナジー強度を否定して、コナトゥス一辺倒である点にあるだろう。この二元論的発想を捨てなくてはならない。西洋的二元論を廃棄して、東洋的対極論を身につける必要がある。(しかし、これは、単純な東洋的対極理論ではなくて、コナトゥスとシナジー強度の「シナジー」の対極理論である。)
 しかしながら、具体的には、コナトゥス/シナジー・《ポリティカル・エコノミー》(ポリティカル・エコノミーとは、共生体経済と訳せるのではないだろうか。差異共生体経済、シナジー共生経済でもある。)とはどのようなものなのだろうか。小沢一郎氏の共生主義とは、一見、コナトゥスを否定したシナジー主義のように見える。しかし、推察では、私見では、小沢共生主義とは、コナトゥスをもったシナジー政治経済である。そう、小沢氏の共生主義は、私がここで述べているコナトゥス/シナジー共生体経済に類似的なような思えるのである。精神と物質とのシナジー経済とも言えるだろう。精神・物質シナジー共生体経済、これが、グローバル資本主義と社会民主主義の二元論を超克する新しい政治経済ではないだろうか。簡単に、シナジー共生体エコノミーと言おうか。もっとも、正確には、コナトゥス/シナジー・コンプルメンタリティ(相補性)共生体エコノミーであるが。

p.s. コナトゥス/シナジー界的《シナジー》とは、混乱させる表現である。しかし、現代・未来の問題は、もはや、当然、かつての東洋文化にもどることではあり得ない。伝統的な東洋文化とは、対極性文化である。しかしながら、それは、シナジー界と同一性界が未分化の文化だと思うのである。不連続的差異論から言えば、メディア界/現象界の境界の両義性の文化である。
 しかしながら、不連続的差異の発見・創出によって、未分化状態が破られたのである。即ち、純粋なメディア界=シナジー界が出現することになったのである。これは、換言すると、対極性と同一性の未分化的闘争(二項対立)ではなくて、対極性と同一性との調和を意味しないだろうか。未分化状態は、弁証法構造へと転化するだろう。これは、闘争・戦争状態である。父権主義の様態である。しかし、メディア界=シナジー界の純化が生起すると、もはや、闘争・戦争は志向されないだろう。なぜなら、差異共振強度こそ、能動知・力であるからである。つまり、差異共振強度=シナジー強度が、境界において、同一性に作用するとき、同一性は変容すると考えられる。一種、融合である。対極性と同一性の融合である。即ち、ここにおいて、同一性はもはや、否定・反動的に作用するのではなく、対極性・シナジー強度へとひかれている。弁証法構造では、共振差異→同一性の方向性であったが、この対極性構造においては、同一性→共振差異となるのである。ただし、同一性がなくなるわけではあり得ない。自我同一性現象界=近代主義=物質界は、一つの史的所産であり、意味のあるものと考えられるのである。もはや、「科学技術」のない世界は考え得られないだろう。同一性は構造なのである。言語構造(ラカンの象徴界)なのである。(ラカン「意識哲学」は、正鵠を射ている。ただし、何度も繰り返すが、脱オイディプス化しないといけない。)
 結局、「ポスト・モダン」・脱構造主義とは、この同一性=言語構造から、「メディア界」=シナジー界への「回帰」ヘの志向であったのである。デリダ哲学は、それを、脱構築という方法で、暗示した。しかし、その問題点は、同一性を絶対的に否定的に見ていることである。問題は、同一性からの差異化にあったはずである。言うならば、同一性が、現代における出発点であり、ここからの差異への志向が問題であったのである。この点で、デリダ哲学は、倒錯しているのである。だから、やはり、ドゥルーズ(&ガタリ)哲学の方が、はるかに明敏なのである。
 とまれ、近代主義は、同一性を完成させたのである。西欧・西洋文明・文化は、この点で偉大であったと言えよう。他のどの文明・文化はこれを生むことはできなかったのである。もっとも、これは、実は、悪魔性だったのであるが(参照:シュタイナーの悪魔論)。そして、この近代同一性に対して、共振差異強度が、シナジー強度が到来するのである。これは、クリステヴァ哲学のように、記号作用(セミオティック)のような逆弁証法となる時もあっただろう。また、バタイユのような、やはり、逆弁証法的なエロティシズムもあっただろう。しかし、それは、一時的な事象である。問題は、同一性と差異との融合である。
 不連続的差異の発見によって、純粋な差異共立が可能となったのである。それは、新たなデュナミス(可能態)であろう。このデュナミスにおいて、差異と同一性の融合・調和が可能になると思われるのである。この新たなデュナミスにおいて、融合・調和の可能性を志向できるのである。そして、これが、資本主義と社会民主主義の融合調和となるように思えるのである。即ち、シナジー共生体エコノミーである。これは、新しいデュナミス、新しいシナジー可能性を原点にして、差異と同一性の調和・融合を企図するものであると言えるだろう。だから、デュナミス・シナジー共生体エコノミーと言えるだろう。そう、この新しいデュナミスの発生によって、同一性と差異との調和・融合が可能となるだろう。そして、この新しいデュナミスとは、不連続的差異の創造によって、発生するものと考えられる。ヌース理論の半田広宣氏の言葉を借りれば、顕在的イデアによる創造である。
 ということで、境界における対極性と同一性との調和・融合とは、不連続的差異による差異共立性=新たなデュナミスを契機・メディアにして可能になるということであり、簡潔に言えば、デュナミス的シナジーと言えよう。これが、本当の「ポスト・モダン」、「ポスト構造主義」である。とまれ、この意味で、上述したシナジー共生体エコノミーが「現実」化(エネルゲイア/エンテレケイア化)すると考えられるのである。また、小沢一郎氏の共生主義も、このように捉えることで、より未来創造的になると考えられる。そう、小沢一郎氏の共生主義は、シナジー共生体エコノミー理論ならびにプラトン・シナジー理論と平行である。おそらく、現代日本において、超変革の《潮》強度が満ち始めているのである。
| sophiology | 14:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
差異の共立とは何か:東西統一と新コスモス超文明の誕生
次のODAウォッチャーズ氏の論考は、とても意味深長であるので、この問題に関して検討したい。

「人間の存在認識の多様性と(不連続的差異論上の)メデイア界について」『海舌』http://blog.kaisetsu.org/?eid=363490

結局、Aという命題と非Aという命題が、同時成立する事象をどう見るのかということである。イデア界においては、不連続な差異が共立しているので、まったく問題はない。問題は、メディア界においてである。即ち、心身=メディア界を問題とするとき、差異の相互の関係はどうなるのかということである。差異の共立が成立するならば、どういうものであろうか。
 以下では、西洋文化における視覚優位性が問題となっていたのであるが、それに対して、ODA ウォッチャーズ氏は、メディア界における諸感覚の共立について、述べていたのである。一種共感覚に通じる考察である。とまれ、各差異でありつつ、同時に、各差異ではないという矛盾同一が指摘されているのである。この共立事象は、メディア界を考えると、とりわけ、イデア/メディア境界を考えると、わかりやすいのである。不連続性と連続性が共立しているのである。狭義的には、イデア/メディア境界の事象であるが、広義においては、メディア界の事象と言って間違いないのである。なぜなら、メディア界とは、上端にイデア/現象境界ともち、下端にメディア/現象境界をもっているからである。
 では、なぜ、西洋文化は、視覚優位なのかと、単純に考えると、これは、やはり、西洋文化の根本的二元論によるのではないだろうか。霊肉二元論でもいいし、善悪二元論でもいいし、主客二元論でもいい、心身二元論でもいい。これは、これまでの私の検討から見ると、同一性構造によるのである。つまり、西洋文化・文明において、同一性構造が、他の文化・文明よりも徹底的に作用して、二元論化したと思えるのである。同一性構造とは、差異を徹底して否定して、無化して、同一性で感覚・知覚・認識を満たす構造のことである。これは、弁証法構造とも言える。図式化すると、差異1・同一性・差異2・同一性・差異3・・・・・差異nであり、差異1=差異2=差異3・・・・=差異nとなるのである。これは、自我同一性構造とも呼べるだろう。丁寧に言えば、自我同一性弁証法構造(自同律)と言えるだろう。これは、ユダヤ・キリスト教的構造である。(私見では、古代ギリシアは、基本的には、差異に関わっていた。もっとも、パルメニデスのように不動の一者に関わっていた哲学者もいた。)この自我同一性とは、メディア/現象境界に必然的に発生するものである。1/4回転によって、差異の境界がゼロ化し、さらに、垂直に捩れて、ゼロ度が、ゼロ化されて、無となる。つまり、差異が完全に一体化するのである。このゼロのゼロ=無=差異の否定が同一性構造である。これは、確かに悪魔的である。シュタイナーはこれを、アーリマンと呼んだと考えられるのである。これは、暴力である。二項対立暴力である。西洋文明が本質的にもっている暴力である。アメリカ合衆国国家に如実にある暴力である。覇権暴力である。父権暴力である。戦争の原動力である。 
 視覚優位性と同一性構造の関係であるが、差異の否定性=無=同一性構造が、差異を否定するのであるが、このとき、同一性と差異の間に《距離》が生じるのである。この透き間が消去しようとするのが、視覚なのではないだろうか。では、なぜ、視覚であって、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、等々の諸感覚ではないのか。これは、視覚のもっている特殊性を考えるとわかりやすいだろう。視覚は、主体と対象(客体)との距離を発生させて、主客二元論化するのである。つまり、個体の同一性を確固のものとするのである。他の諸感覚では、同一性ではなくて、他の差異との関係が発生して、同一性が形成されないのである。例えば、触覚を考えればいい。自分の両手を合わせてみれば、どちらが、主体か客体がわからなくなるだろう。同一性構造にとって、視覚が重要なのである。
 では、同一性と視覚との直接的結びつきはないのだろうか。思うに、これは、光と関係しているだろう。メディア界は、光子の領域である。そして、これが、現象化するのであるが、メディア界における光とは、差異のある光である。差異的光子である。これが、現象化すると、差異が同一性によって無化されて、いわば、同一性の光となるのではないだろうか。この同一性の光が、主客二元論の視覚を形成するのではないだろうか。つまり、差異の光ではなくて、同一性の光が、西洋文化・文明における視覚優位性を発生させると考えられるのである。
 もし、そのように考えられるならば、少なくとも二種類の光があることになる。アインシュタインの光とはどちらなのか。思うに、同一性の光を観測しているのではないだろうか。これが、光速度一定となるのではないだろうか。差異の光は、量子力学が扱っているのではないだろうか。確かにそうだろう。2つの光。ここで、飛躍的に言うと、イデア界が黒い光ならば、現象界が白い光ならば、メディア界の光、差異の光とはどう形容できるのか。一面は白い光だが、他の一面は黒い光だろう。白と黒が合わさっている光である。両面的光、ヤヌス的光である。(D.H.ロレンスの、太陽は背を向けているという言葉を想起する。)これは実に不思議な光、二重光であろう。陰影のある光。光と思えば闇であり、闇と思えば光である。少し、真夏の太陽を想起する。つまり、光に闇が透けているし、闇から見ると、底に光が輝いているのである。《ここで、シュタイナーが、青空の青は、闇が光の領域に入った時の色で、夕焼けの赤は、光が闇に入る時のいろであるということを言っていた(?)ことを想起する。》
 とまれ、メディア界の光は、対極的であり、グラデーションのある光ではないだろうか。虹色かもしれないし、さらに、微妙かもしれない。もっとも、陰影多彩である。幻想的な感覚性をもつのではないだろうか。また、ここで、電磁波のスペクトルを想起するのである。黒は紫外線を、白は、赤外線を想起する。この事柄は後で検討しよう。
 二重光の問題に戻ると、量子力学の対象とする差異の光とは、二重光であり、黒い光と白い光である。あるいは、陰陽光と呼んでもいいだろう。直観では、これは、無限速度であり、同時に、光速であろう。先に、非局所性について言及したが、これは、黒い光を考えると、正しいのではないだろうか。否、精緻に考察しよう。イデア界に黒い光、現象界に白い光があるならば、メディア界には、二種類ではなくて、三種類の光があるのではないだろうか。即ち、不連続的差異の光(黒い光)、共振的差異の光(陰陽の光)、同一性の光(白い光)の三種類である。そして、量子力学は、この陰陽の光を対象としているだろう。確かに、一面では、同一性の光を帯びるから、光速度一定であろう。しかし、同時に、差異共立的に、超光速度を帯びるだろう。メディア界は不可分時空間である。ここでは、時空間が揺らいでいるのだろう。光が無限速度になったり、通常の光速度になったり、あるいは、その中間速度になったりするのではないだろうか。ベルの定理、非局所性とは、本当は、メディア界のこの事象を指しているのではないだろうか。
 本件のテーマからずいぶん離れてしまったが、ここで、テーマに即すと、西洋文化・文明において視覚優位性があるのは、同一性の光が支配的だからであるということを、ひとまず、述べておく。そうすると、量子力学を含めてポスト・モダン理論やパラ・モダン理論は、明らかに、脱西洋文化・文明、ポスト西洋文化・文明を説くことになる。それは、「東洋文化・文明」的である。しかし、さらに、超東洋文化・文明も説くだろう。これまでのポスト・モダン理論は、イデア界とメディア界を混同していたのであり、そのため、行き詰まってしまったと考えられるのである。しかし、新ポスト・モダン理論=パラ・モダン理論である不連続的差異論の出現によって、混同・混乱が解消されて、ポスト・モダンの問題が明晰・明確になったのである。つまり、これまでの東洋文化・文明も、古ポスト・モダン理論と同様であったと思われるのである。つまり、差異の連続性までは達したが、不連続性までは、明瞭に達していたなかったと考えられるのである。だから、新ポスト・モダン理論=パラ・モダン(トランス・モダン)理論は、単に東洋文化・文明への回帰ではなくて、それを超えた新東洋文化・文明を説くことになるのである。そして、それは、プラトン主義の創造的発展となるのである。ここで、東洋と西洋とが、創造的に、新たに、合体し、統一するのである。東西統一文化・文明の誕生がここに出現したと言えよう。新地球世界宇宙文化・文明、即ち、新コスモス超文明の誕生である。
| sophiology | 19:47 | comments(0) | trackbacks(0) |

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