Page: 1/1   
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| スポンサードリンク | | - | - |
「第14章 石の声」(『ターシャム・オルガヌム』)は至高の章である
「第14章 石の声」(『ターシャム・オルガヌム』)は至高の章である

テーマ:P.D.ウスペンスキー

毎夏、おそらく、十年以上は、至福・至上の歓喜とともに、新たな視野・地平・視点・思考・認識・知をもたらしてくれた書物に出会っている。今夏は、ウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』にとどめを刺す。まだ、半分弱しか読んでいないが、今読んだ「第14章 石の声」は、至高の思想をもっている。不連続的差異論的内容も含んでいる。少し引用しよう。

《船乗り、死刑執行人、聖者を、異なった「働き」という観点から調べてみれば、影だけ見れば同じに見えるにしても、実際には彼らはまったく違った人間であり、お互いに何の共通点もないことが分かる。彼らは異なった存在であり、異なったカテゴリーに属し、お互いに何のつながりもない世界に生きている。・・・》  p.185

《詩人は船のマスト、絞首台、十字架が「違った木」でできていることを知っている。彼は教会の壁の石と刑務所の壁の石との違いを理解している。彼は「石の声」を聞き、古い壁の言葉や、葬式の塑像、廃墟、森、川、平原の言葉を聞く。彼は「沈黙の声」を聞き、沈黙の心理的な違いを聞き分けることができ、異なった沈黙があることを知っている。》 p.188 (尚、訳書の傍点の箇所はイタリックにした。以下、同様)

《虚偽であることが明らかにされねばならない概念の一つは、人間の「同一性」と「平等性」という概念である。実際には、「死刑執行人」と「船乗り」と「聖者」の間の違いは、・・・、橋渡し不可能な深淵によって隔てられているのである。それは、「殺人」、「労働」、「祈り」のような行為がまったく異なった世界に属するのと同じである。
  ・・・
 実際に、すべての芸術の役割は、このつかみどころのない違いを理解し、表現することにある。画家にとっての色、音楽家にとっての音のように、芸術家にとって物質世界は単なる素材でしかない。それは本質世界を理解し、それを表現するための手段に過ぎないのである。・・・生命の神秘は、「ヌーメノン(本質)」、すなわち物の隠れた意味と働きが「フェノメノン(現象)」の中に反映されているという事実にある。「現象」は我々の領域における「本質」の反映なのである。一言で言えば、「フェノメノン(現象)はヌーメノン(本質)のイメージである。」 ・・・ 「現象」の中に反映した「本質」は「芸術家の魂」と呼ばれる精妙な器官によってのみ感じられ、理解されうるからである。》 
p.189〜p.190


参照:
http://ameblo.jp/renshi/entry-10016163589.html
『ターシャム・オルガヌム』(P.D.ウスペンスキー著)を、強く推薦する
テーマ:P.D.ウスペンスキー 400ページ以上もある本書を、100ページ足らずしか読んでいないが、これは、天才的著書である。是非、読書されることを、お奨めしたい。
 内容は高度な高次元理論であるが、叙述は、平易明快なものなので、一般の方でも十分読解することができるものであると確信する。
 引用したい箇所が多くあるが、余裕がないので、割愛する。

ターシャム・オルガヌム


リンク:『ターシャム・オルガヌム』
http://homepage1.nifty.com/pdo/TERTIUMORGANUM.htm
http://www7.ocn.ne.jp/~aeon-ms/booksalon/bs_17.htm
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4795223793/250-8960880-5103431?v=glance&n=465392
http://search.yahoo.co.jp/bin/search?p=%A5%BF%A1%BC%A5%B7%A5%E3%A5%E0%A1%A6%A5%AA%A5%EB%A5%AC%A5%CC%A5%E0&fr=moz2&rls=org.mozilla:ja-JP:official
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%8C%E3%83%A0&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official

『P.D.ウスペンスキーの世界』
http://homepage1.nifty.com/pdo/

その他
http://www.amazon.co.jp/gp/richpub/listmania/fullview/R38YX9LQP61Q67
http://en.wikipedia.org/wiki/P._D._Ouspensky
| sophiology | 23:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
「第14章 石の声」(『ターシャム・オルガヌム』)は至高の章である
「第14章 石の声」(『ターシャム・オルガヌム』)は至高の章である

テーマ:P.D.ウスペンスキー

毎夏、おそらく、十年以上は、至福・至上の歓喜とともに、新たな視野・地平・視点・思考・認識・知をもたらしてくれた書物に出会っている。今夏は、ウスペンスキーの『ターシャム・オルガヌム』にとどめを刺す。まだ、半分弱しか読んでいないが、今読んだ「第14章 石の声」は、至高の思想をもっている。不連続的差異論的内容も含んでいる。少し引用しよう。

《船乗り、死刑執行人、聖者を、異なった「働き」という観点から調べてみれば、影だけ見れば同じに見えるにしても、実際には彼らはまったく違った人間であり、お互いに何の共通点もないことが分かる。彼らは異なった存在であり、異なったカテゴリーに属し、お互いに何のつながりもない世界に生きている。・・・》  p.185

《詩人は船のマスト、絞首台、十字架が「違った木」でできていることを知っている。彼は教会の壁の石と刑務所の壁の石との違いを理解している。彼は「石の声」を聞き、古い壁の言葉や、葬式の塑像、廃墟、森、川、平原の言葉を聞く。彼は「沈黙の声」を聞き、沈黙の心理的な違いを聞き分けることができ、異なった沈黙があることを知っている。》 p.188 (尚、訳書の傍点の箇所はイタリックにした。以下、同様)

《虚偽であることが明らかにされねばならない概念の一つは、人間の「同一性」と「平等性」という概念である。実際には、「死刑執行人」と「船乗り」と「聖者」の間の違いは、・・・、橋渡し不可能な深淵によって隔てられているのである。それは、「殺人」、「労働」、「祈り」のような行為がまったく異なった世界に属するのと同じである。
  ・・・
 実際に、すべての芸術の役割は、このつかみどころのない違いを理解し、表現することにある。画家にとっての色、音楽家にとっての音のように、芸術家にとって物質世界は単なる素材でしかない。それは本質世界を理解し、それを表現するための手段に過ぎないのである。・・・生命の神秘は、「ヌーメノン(本質)」、すなわち物の隠れた意味と働きが「フェノメノン(現象)」の中に反映されているという事実にある。「現象」は我々の領域における「本質」の反映なのである。一言で言えば、「フェノメノン(現象)はヌーメノン(本質)のイメージである。」 ・・・ 「現象」の中に反映した「本質」は「芸術家の魂」と呼ばれる精妙な器官によってのみ感じられ、理解されうるからである。》 
p.189〜p.190


参照:
http://ameblo.jp/renshi/entry-10016163589.html
『ターシャム・オルガヌム』(P.D.ウスペンスキー著)を、強く推薦する
テーマ:P.D.ウスペンスキー 400ページ以上もある本書を、100ページ足らずしか読んでいないが、これは、天才的著書である。是非、読書されることを、お奨めしたい。
 内容は高度な高次元理論であるが、叙述は、平易明快なものなので、一般の方でも十分読解することができるものであると確信する。
 引用したい箇所が多くあるが、余裕がないので、割愛する。

ターシャム・オルガヌム


リンク:『ターシャム・オルガヌム』
http://homepage1.nifty.com/pdo/TERTIUMORGANUM.htm
http://www7.ocn.ne.jp/~aeon-ms/booksalon/bs_17.htm
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4795223793/250-8960880-5103431?v=glance&n=465392
http://search.yahoo.co.jp/bin/search?p=%A5%BF%A1%BC%A5%B7%A5%E3%A5%E0%A1%A6%A5%AA%A5%EB%A5%AC%A5%CC%A5%E0&fr=moz2&rls=org.mozilla:ja-JP:official
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%8C%E3%83%A0&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official

『P.D.ウスペンスキーの世界』
http://homepage1.nifty.com/pdo/

その他
http://www.amazon.co.jp/gp/richpub/listmania/fullview/R38YX9LQP61Q67
http://en.wikipedia.org/wiki/P._D._Ouspensky
| sophiology | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
新しい境界へ向けて:差異共振精神界と連続・同一性現象界
新しい境界へ向けて:差異共振精神界と連続・同一性現象界
テーマ:PLATONIC SYNERGY
差異共振コスモスが現象界の根源としてあるし、それは、人間や自然の内在超越次元として潜在していると考えられる。「心」とか、「倫理」、「道徳」は、ここから発して、意識合理化されたものだろう。そう、自然道徳とはあるだろうか。これは微妙である。原道徳・原倫理は、自然発生的であろうが、自然だけでは、道徳・倫理とはならないだろう。そこには、個の意志・意識・認識・知の介入が必要だろう。そう、理念化が必要だろう。精神化である。精神の起源は、自然にあるが、それを、理念化するには、知性が必要である。これが、「人間」の基本であろう。
 思うに、差異共振性だけで、倫理・道徳・精神が生まれるだろうか。否、こう言ってもいい。差異共振性は、倫理・道徳・精神である。しかし、人類の自然過程から、連続・同一性=「無明」・「マーヤー」化が発生して、自我が誕生する。これは、連続・同一性の意識であるから、潜在・内在超越する差異共振性は、連続・同一性化=反動化されるのである。だから、自然発生的には、道徳・倫理はありえないのである。脱連続・同一性=脱自我化したときに、差異共振性=倫理・道徳が生起すると言えよう。経験・教養・知性から、道徳・倫理が生まれるのである。(少女・少年には、道徳・倫理はないのである。現代日本人の大半は、少女・少年並みだろう。参考:『蝿の王』W.ゴールディング作)
 とまれ、私が言いたいのは、以上のことではなくて、差異共振コスモス性と連続・同一性現象性との関係のことである。結局、善とは前者であり、悪とは後者である。(この点で、グノーシス主義は正鵠を射ているだろう。ただし、その二元論は、間違っているとと考えられる。後で、検討したい。)
 問題は、欲望である。差異共振性とは欲望であるのか。あるいは、精神は欲望であるのか。そう、精神も欲望になりうる。上述したように、自我と結びつくと、欲望になる。例えば、「摂理」のように。現象界において、精神は、自我欲望化されているのである。(だから、ほとんどの宗教が胡散臭いのである。カルト化は後一歩であろう。)
 純粋な差異共振性=精神は、欲望ではない。しかし、現象界に生きる生物・生命体として、人間は、欲望に駆動されて生きているのである。他の生物を殺して、生きるのである。あるいは、他の人間の生命・生活・富を奪って生きるのである。餓鬼である。釈迦牟尼は、二千数百年前にこれを直観洞察した。大変に深い、畏るべき直観洞察力である。
 とまれ、生きる上で、差異共振性と欲望を調和させることが「正義」であろう。(ここから、新自由主義批判が出る。)思うに、古代人は、前者を神として、後者をこの世として、捉えて、両者に境界を置いたのではなかっただろうか。結界という発想がそうだろうし、あの世とこの世という二元論もそうだろう。(参考:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E7%95%8C

近代主義世界観は、この「正義」の実現に失敗した。確かに、民主主義的理念があり、自由主義・個人主義・資本主義理念がある。しかし、両者、精神と欲望は、調和せずに、後者が前者を蹂躙しているのが現状・実情である。だから、私は、新たな境界が必要ではないのか思ったのである。両者の境界が確定していないために、後者が前者を蹂躙すると考えられるのである。
 では、新しい境界とはどういうことなのだろうか。ここで、もう少し、連続・同一性現象=欲望の構造について考えよう。これは、五感の欲望構造から発しているだろう。つまり、同一性の欲望である。五感で知覚したものを欲望するメカニズムが、現象界にはあるだろう。おいしい食べ物がある。それを見て食欲が湧く。それを欲しいと思う。そのたえには、買うか、盗むかである。そして、後者は、犯罪であるから、止めて、前者を選ぶとすると、その反復のために、貯蓄が必要である。これは、同一性の蓄積である。おそらく、貯蓄には、同一性の理念がある。つまり、同一性の構造である。これは、カントの超越論的形式と等価であろう。つまり、欲望構造形式である。おそらく、ここにゲシュタルトが存している。原型である。例えば、花を見て、美しいと感じるが、その花のゲシュタルトが、ここにあるだろう。性欲のゲシュタルトもここにあるだろう。
 不連続的差異論から言うと、メディア/現象境界の現象面にこの欲望構造=ゲシュタルトがあることになる。つまり、連続・同一性現象欲望原型構造である。(思うに、唯識論の阿頼耶識とは、ここに存するのではないだろうか。また、精神分析の無意識もここのことを言っているのではないだろうか。精神分析の無意識は浅いのである。)有り体に言えば、色欲・無明・自我・無知・戦争の構造である。(プラトン哲学や仏教、等は、ここから脱却するための叡知を説いてきた。)自然過程では、ここに陥るのである。
 結局、精神と現象とのバランスをどうとるのかである。現代は近代唯物論のために、精神が物質の派生物のように思われている。結局、近代主義は、二元論であるが、唯物論的二元論で、帰結的に、物質一元論である。そのために、本当の二元論が喪失されていると言えよう。精神と現象との二元論の喪失なのである。この二元論があれば、新たな境界が可能となるだろう。そして、このためには、新プラトン・ルネサンス=新イデア論が必要であると考えられるのである。正確に言うと、イデア論は、イデア一元論である。しかし、これは、精神と現象との二元論を発生させると言えよう。しかし、精神/現象の二元論とは、実は、内在超越論のことである。だから、二元論というのは、一種議論の都合のことである。
 結局、新イデア論(プラトニック・シナジー理論・PS理論)によって、精神と現象との二元論が発生して、新たな境界が生まれるだろう。差異共振性という精神と連続・同一性である現象との境界である。
 そうすると、どういうことになるだろう。それは、前者と後者との別々の構築が必要であるということになるだろう。差異共振世界の構築であり、連続・同一性世界の構築である。そして、前者が主となり、後者が従となるだろう。精神主現象従である。この主従の二元論が必要なのである。
 では、具体的にはどうなるのだろうか。それは、差異共振生活と現象生活との共立であろう。現代は、後者中心で、前者が損なわれているのである。というか、否定・排除・隠蔽されているのである。生涯教育というのは、前者になるのである。しかし、資本主義生活は、後者中心で、前者が欠落しているのである。思うに、資本主義の富を前者のために活用する必要があるのである。つまり、精神社会のために富を消費するのである。能動的消費である。このためには、知のコペルニクス的転回・パラダイム転換が必要である。新プラトン・ルネサンスである。新イデア論の顕現である。
| sophiology | 02:41 | comments(1) | trackbacks(0) |
差異共振界と現象界の関係構造に関する一試論
差異共振界と現象界の関係構造に関する一試論
テーマ:新イデア・共振シナジー理論
差異共振シナジー界が現象化するのであり、この現象界において、多様な物体が運動したり、生成消滅したりしているのである。この現象時空間の、これらの運動や生成は一体どういう構造をもっているのだろうか。
 差異共振界は差異と差異が零度即非的な連結をしているのであるが、このとき、エネルゲイアが発生する。差異と差異との共振エネルゲイアである。これが、現象化して、運動や生成となるのだろう。
 問題は、次元である。差異共振界の何次元だろうか。それを、思考実験的に、二次元ないし三次元としよう。ところで、元々、差異は何次元をもっているのか。最初はX軸で一次元のように思えるが、ガウス平面をイデア界とすると、二次元である。複素平面的二次元である。ならば、差異共振界(メディア界)は、垂直に捩れるので、三次元である。XYZ三次元である。
 この差異共振三次元が、コスモスである。実際のところ、共振軸であるY軸が不可視になっているのではないだろうか。つまり、XZ平面が現象面になっているのではないだろうか。(因みに、ドゥルーズ&ガタリの内在平面ないし存立・共立平面とは、YZ平面ではないだろうか。)
 そして、現象界時空四次元であるが、それは、第四の軸・F軸が生起するのである。それで、空間三次元となる。時間軸は、ほぼ、Y軸と見ていいだろう。(今の私見では、時間軸は、仮構の軸だと思う。Y軸は共振軸と考えるのがいいと思われるのであるが。p.s. 時間軸であるが、やはり、仮象(虚構)軸のように思えるのである。思うに、Z軸において、時間と空間の同一性が形成されるように思えるのである。つまり、時間と空間は対になっていると思うのである。)即ち、XZFの三次元空間である。
 F軸をどう考えたらいいのだろうか。Z軸が現象面軸ならば、F軸は現象同一性軸ではないだろうか。なぜなら、Z軸は、差異共振界の縁・周辺であるからである。つまり、メディア/現象境界なのである。
 これで、XZFの現象三次元空間が考えられた。この三次元空間で、「わたし」Aが原点(0,0,0)に居るとして、他者Bが、(0,0,1)の座標に居て、速度αで、X軸と平行に+の方向に移動しているとしよう。時間をt とすると、t 時間後には、他者Bは、(αt、0,1)の位置に移動していることになる。
 では、「わたし」Aと他者Bの差異共振界の「位置」について考えよう。Z軸から垂直に捩れて、F軸が発生すると考えると、他者Bは、元々は、Z軸上に存した。即ち、他者Bは、(0,1)にあった。Y軸を入れると、(0,0,1)である。あるいは、共振軸を位置を考えると、(0,1,0)に存してたと居えよう。さらに、イデア軸(X軸・実軸)上の位置を考えると、(1,0,0)に存したと言えるだろう。
 とまれ、差異共振界での事象を考えると、Y軸上の「わたし」Aと他者Bは、零度共振して、AとBの極性化ないし即非化が生じる。そして、Z軸上でのAとBとは、同一性のAとBとの関係である。おそらく、Y軸を、イデア/メディア境界、Z軸をメディア/現象境界と言えるだろう。そして、YZ平面が、メディア平面・共振シナジー平面である。
 しかしながら、Z軸上のAとBは完全に二元論的に分離しているわけではないだろう。なぜなら、それは、差異共振界の現象界に対する境界・縁にあるから、いわば、共振性を潜在させているだろうからである。
 では、現象界でのBの移動とは何か。それは、それほど、重要な問題ではないだろう。なぜなら、それは、単純に、現象界でのBの移動に過ぎないからである。現象三次元空間ないし四次元時空間での移動に過ぎないのである。そう、問題は、移動の原動力である。例えば、車で移動したという場合は、ガソリンの燃焼が、運動力に変換されて、移動したのであるから、燃焼によるエネルギーや力が問題であある。しかし、これも、同様に重要な問題ではないだろう。
 結局、現象界での、AとBとの関係が重要である。Bが、X軸と平行に移動したとしても、AとBとは、共振性を潜在させていると見ることができるのではないだろうか。XZFの現象三次元空間ないし四次元時空間においても、存在は、共振性を潜在させていると推測されるのである。つまり、Y軸・共振軸・コスモス軸・精神軸を潜在させていると思うのである。あるいは、YZ平面ないしXYZ立体を潜在させていると。
 【ここで、ついでながら言うと、これは思考実験であるが、XYZ座標において、メディア球が発生しているのではないだろうかと思われるのである。あるいは、共振シナジー球と呼べるように思えるのである。つまり、例えば、XYZ座標で言えば、(1,0,0)は、1/4回転で、((0,1,0)となり、また、垂直化して、(0,0,1)と「回転」する。この移動が瞬間的、無時間的なように思えるのである。つまり、(1,0,0)と(0,0,1)が同時生起するということである。そして、これは、メディア球ないしメディア球面(シナジー球ないしシナジー球面)のどこ位置でも同様なように思えるのである。つまり、この球面においては完全に非局所性が成立しているのである。量子力学の非局所性とは、この球面上の同時存在性を指しているのではないだろうか。】
 結局、現象次元XZF空間は、XYZ次元を潜在させていると言えるのではないだろうか。もっと明快に言えば、Y次元である。結局、これを幾何学的にどう捉えるのだろうか。思うに、現象三次元空間に、虚空間・虚次元を加えればいいのではないだろうか。そう、正に、虚軸としてのY軸である。これで、四次元時空間が考えられるのである。

p.s. 最後の問題は、正しく答えられていない。現象三次元空間ないし現象四次元時空間に対して、虚次元であるY軸、Y次元は、具体的にどのように位置しているのかという問題が残っているのである。
 先には、内在超越的に、垂直に捩れた次元にあるとは述べた。結局、Y次元の潜在のあり方である。
 有り体に言えば、Y次元とは、「心」ないし「精神」の次元である。つまり、「わたし」の「心」・「精神」の次元が、Y次元である。これは、幾何学的にはどういうことなのだろうか。XZFの現象次元において、「心」・「精神」の次元はどこに位置するのだろうか。それは、感覚的に言えば、現象面ないし現象界の「背後」に存するのではないだろうか。例えば、今、「わたし」は眼前にこんもりとして木立を見ているとすると、そのこんもりとした木立の「背後」に、「精神」の次元があることになる。正確に言えば、こんもりとした木立の内在超越次元に潜在していることになる。あるいは、重層的に、折り畳まれているというように言えるのかもしれない。
 今、ふと思ったのであるが、「わたし」という視点は、重層化した視点ではないかということである。「わたし」は、空間三次元を占めるだけでなく、精神次元も占めているのである。つまり、XZF三次元に「わたし」が位置するだけでなく、この位置において、同時に、精神次元Y次元を併存させているということである。スピノザ哲学的である。延長の属性と思惟の属性の心身平行論である。そう、確かに、延長三次元に併存して思惟一次元があるように思える。両者が重なっていると考えられるのである。この延長と思惟(空間と精神)の平行的二重性を、どう見るのかである。
 私見では、身体空間に精神が存するのである。つまり、三次元空間を占める身体に精神が内在しているのである。つまり、身体次元が精神次元であるということになる。ここで、空間と身体とを区別する必要があるだろう。空間次元にある身体次元は、同時に、精神次元を内包しているということである。これは、デカルトは当然ながらも、スピノザが考えなかった視点である。
 空間にある身体とは何かということになるだろう。これは点ではありえない。身体は、身体で、三次元空間であると同時に、精神次元である。これは、内在超越次元である。思うに、知覚次元において、三次元空間を想定するのであるが、知覚次元は、同時に、精神次元を内包しているだろう。ということは、知覚次元自体が、三次元空間+精神次元を内包しているということである。この知覚次元から三次元空間を抽象しているのである。そして、その空間抽象から、精神次元が捨象されているわけである。近代主義二元論的抽象である。
 知覚次元ないし知覚コスモスがあるのであり、ここを出発点にすべきであろう。知覚現象があるが、ここに、三次元空間と精神次元が、いわば、融合している、一如であるのである。そう、知覚現象次元とは、差異/同一性共存次元ではないだろうか。つまり、差異共振次元ではないだろうか。ただし、現象的側面が強いのである。即ち、知覚現象次元とは、YZ平面内在的Z軸的である。否、簡単に、YZ平面次元と言ってもいいのかもしれない。というか、知覚現象次元とは、XYZ次元であり、それにXZF次元が折り畳まれている言えるのかもしれない。つまり、知覚現象次元とは、XYZF四次元であり、空間現象的には、XZF三次元を知覚しているのであり、そこには、Y次元が不可視であるが、身体/精神的には、Y次元は直覚できているということではないだろうか。Y次元が、フッサールの超越論的主観性ないし間主観性の次元にほぼ相当するのではないだろうか。というか、XYZF四次元・知覚現象次元が、超越論的主観性・間主観性ではないだろうか。
 とまれ、近代主義は、知覚現象次元を、空間三次元/精神次元、延長/思惟、客体/主体という形式で、絶対的に二元論化してしまい、前者を唯物論化し、さらに、後者をも唯物論で説明しようとしているということである。プロトモダンの知覚現象次元を回復する必要があるのである。ここに哲学・科学認識論上の大問題であると言えよう。これは、当然、生活はもとより、芸術・文化の問題でもある。
 結局、知覚現象次元とは、本来、空間次元と精神次元とが即非的な現象次元であることであり、近代主義的な二元論化は、一つの見方に過ぎないということである。
 だから、空間次元は、精神次元を内包しているのであり、また、精神次元も空間次元を内包しているという、相補性の関係があるだろう。即非・極性関係である。これを、精神・空間極性関係と、とりあえず、呼ぼう(即非関係、相補関係等呼べるだろう)。だから、空間三次元は単なる抽象であり、実際からは離れているのである。(カントの超越論的形式という主観形式論であるが、それも、おかしいだろう。それは、近代主義化した知覚現象次元を前提とした考えであるからである。)思うに、知覚現象とは空間・精神現象、あるいは、時空間・精神現象である。(どうも、空間・精神現象と呼ぶ方が的確のように思えるのである。なぜなら、時間とは、精神の展開のように思えるからである。だから、空間・精神時間現象となろう。)
 だから、知覚現象を次元化するのは、本当は、微妙な難しいことである。とまれ、次元化すると、空間軸と精神時間軸が、少なくとも必要になるだろう。空間三次元軸と精神時間一次元軸である。そして、後者は、内在超越軸であろう。前者は、表面軸である。知覚現象の空間表面の三次元軸と、内在超越一次元軸との、四次元軸が必要であることになる。内在超越次元である精神時間次元であるが、それは、確かに、第四次元となるのではあるが、空間表象はできないのではないだろうか。数学的には、虚次元、虚軸であろう。つまり、三つの実軸(空間三次元)と一つの虚軸(時間軸:正確には、精神時間軸)による四次元時空間ではないだろうか。おそらく、三つの実軸は、複素平面を内在超越的に内包していることになるだろう。つまり、複素平面が共通になるだろう。そして、複素平面が、精神時間次元である。空間実軸三次元+精神時間虚軸一次元の知覚現象四次元である。差異共振シナジー界を考えると、当然、それは、精神時間虚軸一次元が基軸になるだろう。これが、コスモスの基軸である。
 思うに、近代というエポックは複雑化していて、本来、ルネサンスのプロトモダンが原点としてあるが、プロテスタンティズム/近代合理主義的反動によって、近代主義となる。そして、それへの反動として、ロマン主義、神秘学、生の哲学、現象学、実存主義、構造主義、等々が生まれたのである。しかし、プロトモダンは、もともと、空間/精神時間現象を対象としていたのである。即ち、新たな差異の発動、差異共振シナジーのエネルゲイアが発現する知覚現象が主体であったと考えられるのである。
 ここで、最後に付け加えると、現象、生命、人間を考えると、それらは、正に、空間/精神時間現象である。物質とは、その現象を、空間・時間同一性形式で切り取った、抽象化したものと考えられるのである。空間/精神時間現象を認識しないといけない。それは、差異共振シナジー的空間・精神時間現象である。現象を唯物論から救済しないといけない。差異共振シナジー現象として現象を把捉しないといけないのである。差異共振シナジー事象が、同時に、精神時間虚次元であり、空間三次元であるのであり、両者は即非・極性・相補関係にあると考えられるのである。
 結局、新プラトン・シナジー理論は、不連続的差異イデア論という新たなイデア論によって、現今の唯物論的自然科学を超克する新しいイデア論的サイエンスを提起していると言えるだろう。
| sophiology | 06:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
近代的自我と差異:同一性志向性・投影による主客分化現象化
近代的自我と差異:同一性志向性・投影による主客分化現象化
テーマ:差異と同一性
差異を否定・排除する近代的自我は、差異を差異として見ずに、差異に同一性を当てているのであるが、逆に言えば、差異の存在は前提となっているのである。差異の存在を、否定・排除したいので、同一性を押し付ける(暴力)のである。だから、近代的自我は、同一性の脅迫観念をもっていることになる。カント哲学で言えば、物自体を否定・排除する超越論的形式の自我である。物自体は前提であるが、それを、否定・排除するのである。弁証法的自我である。
 物自体とは、差異共振シナジー世界(=メディア界)である。これを同一性で占めよう(「占領」しよう)とするのは、エゴイズム、暴力、権力であるが、アイロニカルに、同一性は、差異の位置に同一化しているのである。つまり、同一性は、差異を否定・排除する正にその時に差異の位置に同一化していると考えられるのである。だから、差異否定・排除(・隠蔽)とは、差異への譲歩の面があると言えるだろう。同一性は同一性だけでは成立しないのである。差異の位置を同一性が占めることで、同一性を確認するのである。もし、同一性自体に自律的な意味があるならば、それは、差異の位置を占める必要はないはずである。差異は差異、同一性は同一性であるからである。
 ということは、とりもなおさず、同一性がいかがわしいものであることを証するだろう。同一性の母体・基礎・基盤は、差異なのであると言えるだろう。差異の変形としての同一性であり、この出自を見えなくさせるために、差異の位置を占めるのだろう。差異は脅威なのである。
 思うに、この差異の位置の僭越的占領とは、現象の見えに関わっているように見えるのである。同一性が同一性にこだわるのは、現象的見え(=見栄)のためだと思われるのである。つまり、現象的見えと同一化しているために、自我は、差異を否定・排除するのである。つまり、本来、主体の投影である現象(客体現象)と、自我は同一化しているのであり、この現象同一性化が中心となり、差異を否定・排除するのである。ここで、ラカンの精神分析の鏡像段階を想起するのであるが、現象の見え(視覚的現象)に同一化する主体がここにはあるだろう。ここでは、転倒があるのである。フッサール哲学的に言えば、ノエマを、現象的見えに変換しているのである。本来、「心象」であるものを、外界化しているのである。ここには、ノエマを、「外界」へと同一性化的に投影している主体があるのである。
 問題は、この投影する主体である。内的視覚像(ヴィジョン?、イデア?)を投影=「外界」・「客体」・「対象」化する主体の問題である。この投影「事象」の力学構造が問題である。本来、差異、差異共振性とともにある同一性=内的視覚像であるはずであるが、それが、「外界」化されるのである。おそらく、「外界」とは、仮想・仮構・虚構的仮象なのである。正に、プラトンの洞窟の比喩における洞窟のスクリーンである。「外界」とは影絵であり、本体は、光の前の「人形」である。この比喩を継続すれば、光とは、差異共振シナジーであり、人形とは、内的視覚像・心象・ノエマであろう。
 投影「事象」が問題なのである。それは、本来の光源を忘却して、内的ヴィジョンを「外的」ヴィジョンと錯誤することである。これは、いったい何が原因なのか。そもそも、「内的」という考え方も、本来的ではない。それは、内部と外部の分離によって形成される見方であるからである。内と外との分離の発生が、根源の問題である。
 新プラトン・シナジー理論(以下、プラトン・シナジー理論)に拠れば、零度差異共振シナジー世界の発生によって、原現象が生起したと考えられる。差異1と差異2とが零度共振して、連結するのである。差異が本来もっているノエシス/ノエマは、このとき、対自化される。即ち、差異1のノエシス1/ノエマ1と差異2のノエシス2/ノエマ2とが共振して、ノエマ1には、差異2が反映・反照されると言えよう。そう、問題の核心は、この差異零度共振における反映・反照である。この反映・反照は、即自的なノエマとは異なり、明らかに、対自的なノエマとなっているのである。この対自的ノエマを、連続・同一性化することが、投影ではないか。零度差異共振世界(=メディア界)において、差異共振シナジーによって、ノエマが相互に対自化される。この対自的ノエマの連結体として、差異共振シナジー世界があるだろう。
 思うに、ここにおいて、原内部/原外部の区分が発生しているのではないだろうか。即自的ノエマと対自的ノエマの「差異」がある。前者が原内部となり、後者が原外部となるのではないだろうか。しかしながら、差異共振反映においては、内部/外部の分化はない。しかし、連続・同一性過程になると、対自的ノエマ=共振反映が、同一性化されるようになる。差異共振シナジー様相に過ぎないものが、連続・同一性として、仮現・仮象するのである。差異共振シナジー様相とは、「光」とともにある対自的ノエマの様相であろう。「光」と、「影」としての対自的ノエマが共立しているのだろう。「光」が背景で、「影」が原現象と言ってもいいかもしれない。ここでは、まだ、内外分離はない。連続・同一性の過程に入ることで、それが始まると言えよう。
 問題は、「光」とともにある差異共振像(対自的ノエマ)、「光」と「影」との相補的原像が、内外・主客分離するという「力学」である。ここで、ヘーゲルの疎外という用語が想起される。確かに、ここでは、なんらかの疎外が生起するだろう。連続・同一性過程は、差異共振像を排斥するようになる。即ち、対自的ノエマ・差異共振像が、連続・同一性にとり、否定・排除される対象となると考えられる。
 では、連続・同一性とはどうやって発生するのだろうか。何だろうか。その構造は何なのだろうか。差異1=差異2の等号が連続・同一性であると言える。ここで、即非の論理を考えると、差異1=差異2且つ差異1≠差異2であるが、後者の≠が喪失されるのが、連続・同一性事象であると言えよう。換言すると、即非の論理の事象、即ち、差異共振事象の内の、差異不等号性が消去されて、差異が等号化される。即ち、差異共振性自体が、いわば、差異連続・同一性に変換されると言えよう。差異連続・同一性とは、数学で言えば、微分のことである。差異=微分のことである。これは、同一性暴力である。
 さて、この差異連続・同一性が差異共振性を否定・排除・隠蔽するのであるが、冒頭でも述べたが、前者は、後者の位置を占めているのである。つまり、ノエマ、対自的ノエマの位置を、差異連続・同一性は占めているのである。本来、差異、差異共振性である事象を、差異連続・同一性として、錯誤するのである。
 では、差異連続・同一性は、対自的ノエマの位置にあるのであるが、仮象としては、どういうように見える(現象する)のであろうか。差異共振事象とは他者である差異への志向性的共振性である。しかし、差異連続・同一性とは、差異志向性を消去して、いわば、同一性志向性へと変換すると言えないだろうか。そう、作業仮説しよう。換言すれば、差異共振性を同一性志向性へと変換することである。思うに、この同一性志向性が投影ではないだろうか。差異連続・同一性が差異の位置を占めるのであるが、この「占領」が、同一性志向性ではないだろうか。差異連続・同一性が差異自体へと投影する同一性志向性、これが、外界や内界の分離・分化を発生しているのではないのか。図式化すれば、

A. 差異連続同一性→B. 差異自体

この→が、同一性志向性、同一性投影であり、ここで、AからBへの同一性投影が、現象化ではないだろうか。つまり、Aが内界・内部・主体であり、Bが外界・外部・客体へと転換するのではないだろうか。つまり、同一性志向性・投影が主客二元論的現象(仮象)を発生させるのではないだろうか。これも作業仮説としよう。そして、この徹底化というか、物質主義的徹底化が、近代的合理主義だと考えられよう。
 そして、この同一性志向性・投影による現象化が、時空間世界の仮象化である。さらに、作業仮説であるが、同一性志向性・投影が、時空間形式構造、即ち、カントの超越論的形式構造ではないだろうか。そして、これが、アインシュタインの相対性理論の光速度一定の公理に結晶しているのではないだろうか。簡単に言えば、同一性構造形式が、光速度一定ということである。また、E=mc^2 とは、同一性志向性・投影のもつエネルギー公式ではないだろうか。(ここで、ヌース理論を想起するが、それは、まったくの同一性現象を説明しようとしている理論もどきであり、差異自体をまったく排除している。だから、やはり、ヘーゲル主義なのである。国家主義=全体主義・ファシズムなのである。また、イデア論ではありえない。なぜなら、同一性=物質が単位であるからである。似非イデア論であり、唯物論である。ヌースは物質のことである。だから、ヌース理論とは、大変な食わせ物である。詐欺・ペテンである。物質をヌースと呼んでいる思想・哲学的詐欺・ペテンである。哲学的には、追放されるべきであるし、また、自然科学的にも、問題があるだろう。半田氏に一番欠落しているものは、物事の基本的定義や意味である。これを完全無視しているので、不合理・非合理・妄想・狂気に陥っているのである。たとえば、水は液体である。液体は、流動的である。これが、意味である。半田氏は、水という現象を、イデア自体と考えているのである。水はイデア・シナジー事象ではあるが、イデア自体ではないのである。)
 ということで、差異連続・同一性志向性・投影の構造形式が主客二元論の「現象」を仮現していることがわかったとしよう。では、次の問題は、やはり、「光」の問題である。同一性志向性・投影は「光」の「現象」を生むのであるから。端的に言えば、差異共振性と「光」の関係が問題である。
 差異共振シナジー事象は「光」事象であるが、それは、いわば、原光事象であろう。差異共振シナジーは原光事象である。それを差異連続・同一性が光現象に変換するのではないだろうか。即ち、差異共振シナジー事象は原光事象そのものであり、差異は共振して、原光事象となっていると考えられるだろう。このときの、いわば、共振的ノエマが「影」であるが、これは、いわば、「光」=原光の中の「影」であろう。
 とまれ、問題は、原光と光の関係である。差異共振志向性が原光であるとすれば、同一性志向性が光である。換言すると、差異の光と同一性の光があるのである。太極の光と連続・同一性の光である。プラトンの光とニュートンの光である。無限速度の光と有限速度の光である。前時空間の光と時空間の光である。
 ここで整理すると、時間とは、同一性志向性エネルギーのことであり、空間とは、同一性志向性によって派生する同一性と同一性との距離、即ち、延長のことであろう。だから、差異の光の《場》(=原・前時空間)には、差異共振シナジー・原エネルギーがあるということになるのではないだろうか。これが、原光である。思うに、無限の原エネルギーではないだろうか。イデア・シナジー・「エネルギー」である。そして、同一性志向性=光=エネルギーとは、これを、同一性構造に拘束・抑圧していると考えられるだろう。差異共振シナジーの無限・原エネルギーを、同一性の有限・エネルギーに、言わば、「縮約・縮小」、「変圧」しているのである。これが、現象太陽であろう。だから、現象太陽の「裏面」(つまり、内在的超越的次元)には、差異の太陽が存していることになろう。そして、これが、コスモスであろう。現象宇宙のことではない。即ち、差異の太陽=コスモスである。そして、これが、原太陽系であろう。だから、差異の太陽=コスモス=原太陽系である。
 この差異の太陽が、D.H.ロレンスの説くdark sunであろう。そして、神話では、イシスであろう。同一性の太陽がオシリスであろう。そして、プラトンの洞窟の外部にある太陽=善のイデアも、差異の太陽のことだと考えられるのである。
 さて、さらに、問題は、この差異の太陽の根源の原イデアの存するイデア界のことである。おそらく、アリストテレスのデュナミスの用語を当てるといいだろう。ここで、整理するために、図式化すると、

1.イデア界・不連続的差異共立界・デュナミス:「玄無」
     ↓

2.メディア界・差異共振シナジー界・エネルゲイア:「黒い太陽」
     ↓

3.現象界・エンテレケイア・同一性エネルギー:「白い太陽」

ではないだろうか。とまれ、エネルギーの問題がここにはあるだろう。E=mc^2の問題である。これは、3の同一性エネルギーの記述であろう。では、2のエネルゲイアの記述はどうなるのか。これまでの思考実験では、エネルゲイアをXとすれば、Xi=mc^2であるから、X=mc^2/i である。後でさらに検討を続けたい。
| sophiology | 20:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
精神=差異共振世界という《現実》と自我について:並びに、差異零度共振シナジー界の科学へ向けて
精神=差異共振世界という《現実》と自我について:並びに、差異零度共振シナジー界の科学へ向けて
テーマ:新イデア・共振シナジー理論
不連続的差異論は、今では、NEW PLATONIC SYNERGY THEORY、即ち、新プラトン・シナジー理論に発展している。略して、プラトン・シナジー理論ないしイデア・シナジー理論と呼ぶことが出来るだろう。この発展ないし進展の意味は、簡単に言えば、不連続的差異論において、メディア界が、現象・実際的に、重要な意味をもつようになり、それを深化されるということである。
 さて、本件について、不連続的差異論から考えてみるとわかりやすい。イデア界の根源的発動があり、それが、差異共振的共立のメディア界を形成する。(イデア界においては、差異共立はあるが、差異共振はない。この相違は、根本的原理の一つを意味する。)
 このメディア界が、連続・同一性化して、現象界を形成するのである。メディア界と現象界の境界に、連続・同一性の構造があると考えられる。これは、連続的差異=微分の領域であり、カントの超越論的形式の領域とも考えられる。そして、私見では、連続・同一性に言語形式が介入して、連続・同一性中心主義=自我が発生していると考えられる。そう、近代合理主義・近代自我は、ここに関係していると考えられる。
 この点は、微妙なので、精緻に言うならば、メディア/現象境界において、差異と同一性との争闘・弁証法が発生しているのである。近代意識は、この争闘の表出である。(また、近代における優れた芸術家や思想家は、ここにおいて、差異を同一性より強調している非凡さをもっている。ドイツの大詩人ヘルダーリン【正しい発音は、ヘルダリンである。】が正にそうである。)しかし、近代合理主義は、同一性が差異を否定・排除した自我様態であり、ここから、近代科学・技術が発展したと言えるのである。
 ここで、簡単に、空間・次元意識について触れると、遠近法の発達とは、メディア/現象境界においてであろう。この境界において、同一性が、差異を同一性空間に布置していくのだろう。絵画では、フェルメールが代表的と言えよう。しかし、近代合理主義、近代唯物自然科学・技術・資本主義経済は、この両義的境界領域を、同一性中心主義へと変換するのである。即ち、現象界を物質界へと変換すると言えよう。(だから、思うに、現象界とは別に物質界を提起した方がいいのかもしれない。即ち、1.イデア界/2.メディア界/3.現象界/4.物質界
である。しかし、この場合、現象界は、これまでの、メディア/現象境界となるから、このようにする必要なない。)この同一性中心主義の物質界は、空間を三次元として、それに時間の一次元をもつ時空四次元の空間をもっている(相対性理論)。(現象界=物質界とは、メディア/現象境界の差異を同一性が否定して発生したものと言える。だから、現象界=物質界とは、現象物質界と呼んだ方が適切だろう。近代主義は、現象物質界の合理主義化である。)この時空四次元であるが、これは、現象物質界の時空間ということであり、差異が否定・排除されているのである。しかし、差異は、差異共振界は実在しているのである。その証拠が、光速度一定の公理であると考えられる。差異共振シナジーという実在事象を、現象物質界の視点から見ると、光速度一定となると考えられるのである。つまり、差異共振シナジーとは絶対事象であり、観測点に規定されていないということであろう。これは、差異共振シナジーという時空一体事象があると考えることで理解されるだろう。(この時空一体事象を、近代主義は、空間と時間に分離して、時空四次元としていると思われるのである。)つまり、差異共振シナジー事象とは、零度共振事象であり、同一性現象の根源、即ち、原現象であるのであり、同一性現象における時空分離・時空四次元とは、同一性物質の間の空間をもち、また、空間における移動による時間が発生しているということであるが、その真実在は、差異零度共振シナジー事象である時空一体事象であるということであろう。言い換えると、現象物質界において、同一性=物質による空間配置と時間経過が発現(仮現)しているのである。同一性現象(=物質仮象)が、時空間四次元の仮現であり、真実在は、時空一体事象である差異零度共振シナジー事象である。より正確に言うならば、時空一体ということは、不正確である。なぜなら、時間、空間がそこには存在していないからである。差異共振シナジー事象における「間主観性」があるが、そこでは、たとえば、差異1と差異2とは、一体であるが、同時に、分離しているのである。差異1と差異2との一体性とは、結局、原・同一性、原・連続・同一性のことではないだろうか。あるいは、原・差異=微分のことではないだろうか。原・微分事象がそこにはあるのだろう。原・同一性を点とすれば、原・同一性の一体性・集合体が、原・空間になり、そして、原・空間における「光」の移動が原・時間となるのではないだろうか。即ち、差異共振シナジー事象における、差異の一体と分離という即非の世界(メディア界)において、前者の差異一体において、原・同一性による原・空間と原・時間との原・時空間が発生していると言えるだろう。ここに、発生している共振エネルギーを「光」と記したが、正しくは、原・光であろう。これが、現象界ないし現象物質界において、光となるのである。
 そうならば、差異の分離における共振シナジー・エネルギーはどう考えるべきだろうか。これまで、共振シナジー・エネルギーを原光としてきたが、より精緻化すると、《闇》であろう。即ち、差異零度共振シナジー界(=メディア界)は、差異一体と差異分離との即非世界であるが、差異一体においては、原・光が発生し、差異分離においては、《闇》が発生していると言えるのではないだろうか。
 では、差異分離の《闇》とは何だろうか。留意すべきは、差異零度共振シナジー・エネルギー事象における差異分離の《闇》ということであり、共振シナジー事象から独立させては考えられないものである。即非の世界を前提とした分離である。だから、差異一体の原・光に対応させて、原・闇とすべきだろう。即ち、原・闇/原・光の太極・対極性の世界を考えることが出来るだろう。簡単に言えば、陰陽界でいいことになるが。
 さて、ここで、量子力学について考えたいが、その前に、簡単に確認しておくと、相対性理論とは、差異零度共振シナジー・エネルギー事象の半面の原・光の事象を、現象界・現象物質界から、光速度一定の公理として、把捉したものと言えよう。つまり、差異共振事象(共振事象ないしシナジー事象と呼ぼう)の「光」の側面を把捉したものであろう。そうならば、もう半面の「闇」の側面を捉えていないということである。
 そこで、量子力学について考察すると、粒子と波動の相補性、あるいは、非局所性の概念、等を見ると、明らかに、共振事象を現象物質界から把捉しようとしているのである。波動性は、共振から説明できる。粒子ないし素粒子であるが、それは、ここでの作業仮説であるが、差異分離の差異の反映ではないだろうか。即ち、原・闇=「闇」の、現象物質界的反映ではないだろうか。つまり、差異・イデア(原イデア)を、現象物質主義の視点から、粒子物質・素粒子物質として把捉しているのように考えられるのである。だから、非局所性の概念が発生するのだろう。確かに、非局所性ではあるのだが、ミスリーディングである。なぜなら、非局所性と言ったとき、局所性とのコントラストで考えられているからである。両者を同レベルで考えているのである。これが、誤りと考えられるのである。つまり、差異分離事象の差異・イデアとは、いわば、超越界にあり、局所性の有無が問題にならない世界にあるからである。言わば、存在以前の問題に対して、存在の有無を問題にしているのというようなものである。カテゴリー・エラーである。
 ということで、粒子・素粒子とは、作業仮説的に言えば、物質ではないのである。それは、差異・イデアの反映であるということになる。デリダ的に言えば、差異・イデアの痕跡である。だから、粒子/波動の相補性は、混濁した、不整合な概念であると考えられるのである。ただし、原・光の側面(象面という言葉を造語したいが)で見れば、粒子/波動の相補性は、仮象的に考えられるのであるが。
 とまれ、素粒子を物質として見ている限り、自然は捉えられないだろう。唯物的自然観の限界がここに露呈していると考えられる。素粒子を、差異・イデアの痕跡と見なくてはならない。だから、ポスト・量子力学、イデア・シナジー・ダイナミクスを提起しなくてはならない。量子力学は、簡単に言えば、原・闇=「闇」を、原・光=「光」から捉えようとしているのである。つまり、E=mc^2から捉えようとしているのである。つまり、共振事象の半面しか見ていないと言えるだろう。原・闇=「闇」の痕跡である素粒子=原光=「光」しか捉えていないのである。ダークエネルギーとは、この看過されたものを指しているだろう。(思うに、原・闇のエネルギー=「ダークエネルギー」とは、イデア界のエネルギー=元エネルギーに関係しているというか、それではないかと推測されるのである。)
 では、この看過されたエネルギー(取り合えず、陰エネルギーと呼ぼう)は、どのように数式化されるだろうか。これを、D(Darkの略)とすると、作業仮説で、Y軸の1/4回転によって、Z軸が生じるとして、このZ軸を光軸とするならば、D×i=mc^2 であるから、
D=mc^2/i となる。だから、虚数エネルギーである。推測するに、これは、虚次元・虚軸・Y軸の世界の問題である。思うに、Z軸は、i×i(又は、i×j)=−1で、実数・実軸の世界だろう。
 さらに展開して考えると、共振シナジー界(略して、共振界)は、Y軸とZ軸の形成するYZ平面にあるということになるのではないだろうか。現象界からは、この平面やY軸が不可視である。20世紀初期に流行した四次元思想であるが、それは、ここを指しているだろう。空間三次元に対しての、虚軸ないし虚空間の第四次元である。空間・次元の問題に関しては、別稿で検討したい。
| sophiology | 00:06 | comments(0) | trackbacks(1) |
現代日本における、差異共振意識の病的な、恐怖の排除とは何か:差異共振意識の「アブジェクション」
現代日本における、差異共振意識の病的な、恐怖の排除とは何か:差異共振意識の「アブジェクション」

「■差異共振意識の病的な排除

私の周辺を見て、差異共振意識を病的に排除している、連続・同一性中心主義自我の集団ではないかと思うのである。悪魔たちである。

 私は、日本の知識人・文化人が、この点の元凶の一つであると感じている。これは、以前、父権的部族主義と呼んだものとなんらか通じていると思う。

 また、モダニズムが、このような精神社会病理の原因の一つと考えられるのである。モダニズムは、差異共振意識を排除する傾向がある。特に、英米モダニズム右派は、差異共振意識であるロマン主義を異端審問的に、排除したのである。T. S. エリオットが「異端審問官」であった。

」とコメントに書いた。

http://ameblo.jp/renshi/entry-10014762048.html#cbox

 これは、最近はほとんど忘却されているクリステヴァの用語で言えば、差異共振意識の「アブジェクション」である。(参照:

http://www.google.co.jp/search?hs=wlJ&hl=ja&client=firefox&rls=org.mozilla%3Aja-JP-mac%3Aofficial&q=%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%80%80%E3%82%A2%E3%83%96%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=lang_ja



正に、差異共振意識を恐怖して病的に排除していると思えるのである。これは、何を意味するのか。玄光への恐怖であり、排除である。それは、母権文化への恐怖であり、排除である。ロマン主義への恐怖であり、排除である。コスモス・自然・宇宙への恐怖であり、排除である。モダニズムのプロトモダンへの恐怖であり、排除である。西欧米の南欧や東洋への恐怖であり、排除である。オリエンタリズムである。

 私は、これが、現代日本において、ハイパーになっていると感じている。だから、病理的なのである。西洋文明の末期症状とは言えるのであるが。しかし、何故、現代日本においてなのか。真の光・玄光・原光に恐怖して、排除しているのだ。現代日本自体が、一種精神病状態なのである。この原因は何か。何を意味しているのか。

 基本的に理論的には解明されているのであるが、原因を特定化・特異化したいのである。明らかに精神の虚弱さが、ここにはある。真理・真実を見たくないという精神の虚弱さがある。自己を知ることの恐怖感がある。仕事等に自己を滅却させているのである。正に、連続・同一性自我主義である。個・差異・特異性を、意識的に、見ないようにしているのである。戦前・戦中に通ずるファシズム・全体主義の精神ではあるが、この意味を知りたいのである。

 世間から孤立することの恐怖があるだろう。しかし、世間が狂っているならば、孤立する方が、正しいのである。知的独立の問題でもある。そう、孤独・孤立化への病的な恐怖、これが、確かに、原因の一つと言えようが、しかし、それでも、まだ、言い尽くしていないと感じられる。

 これは、ニーチェやロレンスが説いた人格の位階の問題である。高貴な人格(魂)と劣弱な人格(魂)の問題に通じるだろう。つまり、精神の高低の問題があるのである。精神の高貴さを恐怖し、排除しているのである。これだ! 戦後民主主義で、卑しい人格(魂)も、選挙権が与えられ、精神の卑賎な人物が、我が物顔で振る舞えるようになったのである。精神の卑賎な人物が、権力の中枢を占めるようになり、彼らが、卑賎な民主主義を作ったのである。それが、現代日本である。ここには、卑賎な精神の、高貴な精神に対する憎しみ・ルサンチマン・嫌悪、等々があるのである。そう、ニーチェ/ロレンスの民主主義批判とは、これに尽きる。ここにこそ、差異共振意識への恐怖と排除の真因があると考えられるのである。

 結局、不連続的差異論/プラトン的シナジー理論は、新たな人格論でもあるのだ。新倫理学・新エチカでもあるのである。新しい位階・倫理的位階を設けようとしているのである。精神貴族的民主主義を主唱するのである。現代の卑俗民主主義に取って代わる、精神的民主主義である。

 現代日本に対する嫌悪感の基はここにあったのである。卑しさ、卑賎さ、卑俗さが、支配しているのである。小泉政権が典型的である。母権制とは、精神貴族文化社会であったのである。高貴な女神たちの文化社会であったのである。古代エジプト文化の崇高高貴な女神像は、それを物語っていると考えられる。父権文化社会になって、連続・同一性自我中心主義で、社会は卑しくなったのである。思うに、イエス・キリストは、本来、母権文化社会の魂のようなものであろう。つまり、差異共振意識(=叡知・ソフィア)の象徴だと思うのである。それが、捩じ曲げられて、キリスト教の創始者にされたのである。思うに、宝瓶宮♒(水瓶座)の時代とは、新たな差異共振のコスモス・エポック、新母権文化社会であると考えられる。

p.s. 卑しい、卑賤な、劣弱な人格(悪魔)たちは、高貴な人格(魂)を憎悪するのである。現代日本は、悪魔たちが支配しているので、この憎悪的暴力が、高貴な人格たちに向けられるのである。それで、精神を病む者が多いと思うのである。つまり、悪魔たちの暴力の被害を受けている高貴な人格が多いと考えられるのである。高貴なる魂の日本人よ、自己認識と勇気をもって、立ち上がり、この卑賤な悪魔たちの支配した日本を破壊して、新しい高貴な精神の日本を創造せよ!!!
| sophiology | 14:17 | comments(0) | trackbacks(1) |
光の利己的欲望:差異共振という玄光を否定・排除した連続・同一性中心主義という光悪魔
今は簡単に触れるが、どうして、連続・同一性主義自我は、他者を否定して、自尊感情を高める快感をもつのか。問題は、この自尊快感の発生の原因である。これは、攻撃的快感でもある。感情が、観念と癒着・融合している状態である。自己陶酔ではあるのだが。
 先に、連続・同一性が、言語と結びつき、差異共振の闇を排除するという一神教/父権制/近代自我の構造を提示した。これを光の欲望を呼んだ。これは、視覚的同一性中心主義自我意識と、無意識となった身体との分離とも言えよう。西欧近代は、前者中心の世界観であり、後者が忌避・排除されたのである。現代日本は、この究極的な帰結のようなところがあるのである。欧米は、前者的ではあるが、後者を何らかの形で保持しているように思えるのである。とまれ、この2項対立構造については、既述済みであるが、再度検討して、確認を新たにしよう。
 もともとは、差異共振と連続・同一性は、メディア界においては、いわば、メダルの両面である。だから、2項対立していはいないのである。闇と光の両面である。しかし、光が言語と結びついて、とりわけ、文字言語・表音言語と結びついて、2項対立が発生すると考えられるのである。その理由は、言語と結びついた連続・同一性は、差異共振性から切断されるからと考えられる。即ち、言語と結びついたときに、それは、いわば、モナド化されると思うのである。例えば、現象視覚において、山を知覚していたとき、山という連続・同一性は、他者と差異共振するコスモス・自然・宇宙の一部であったと考えられるのである。(これは、多くの詩人が表現することである。)これは、母権文化の知覚であると考えられる。陰陽対極性は、この文化哲学であると考えられよう。
 しかしながら、象形・表意文字の「山」、表音文字の「やま」が使用されると、それは、差異共振のコスモスから切断されるのである。「山」は、まだ、現象視覚性が残存しているので、差異共振コスモスとの結びつきが比較的残りやすいと言えようが、「やま」ないしyamaになると、結びつきから離れて、独立する傾向をもつと言えるだろう。つまり、連続・同一性が差異共振性から分離・切断されて、抽象文字的連続・同一性となったと言えよう。この分離・切断の意味するものを考察しないといけない。ここには、差異共振性に対する否定があり、連続・同一性の独立化、言わば、独立自我化が生起しているといえるだろう。そう、原コギトの成立と言えるかもしれない。この差異共振性の否定と独立自我化が、連続・同一性を連続・同一性中心主義へと相転移するものと言えよう。これが、原一神教・原父権制・原近代自我の発生であろう。(現代文明とは、この抽象文字人類革命の帰結であると言えよう。差異共振性というコスモス・自然宇宙から切り離されて、グローバル資本主義・科学技術文明を、性懲りもなく、自殺自滅的に、「発展」し続けているのである。これは、もはや、発展ではなくて、滅亡過程と言うべきであろう。終局相であろう。)
 とまれ、これで、本稿の問題を解いたこととしよう。私が既述したように、連続・同一性中心主義とは、連続・同一性と言語、とりわけて、表音文字との結合によって生まれたのである。それは、自我・悪魔性の誕生である。光である悪魔であり、ここで、真の光である差異共振性が闇=悪魔にされたのである。価値転倒・倒錯が発生したのである。これは、キリスト教に完全に顕在したものである。光が闇とされ、闇が光とされたのである。キリスト教の光は、反復するが、悪魔の光であり、闇である。かつて、10代の学生の頃、私は、「光は暗く、闇は明るい」と言ったのである。
 現代日本の闇は、正に、この連続・同一性中心主義という光の闇である。これは、光悪魔である。たいへん、危険なものである。しかしながら、不連続的差異論/プラトン的シナジー理論によって、この光悪魔の闇が暴れて、真の光への方向が啓かれたといえよう。初めに玄光あり、そして、それは、光であった。
| sophiology | 23:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
思考実験:イデア界の座標・幾何学、あるいは、虚軸と実軸の問題:イデア界・ガウス平面の太極力学論
思考実験:イデア界の座標・幾何学、あるいは、虚軸と実軸の問題:イデア界・ガウス平面の太極力学論

テーマ:プラトン・シナジー/イデア共振体理論

虚軸Y軸を、時間軸・シナジー軸・メディア軸としよう。そして、これが、前後の軸である。これは、遠近法の軸でもある。思うに、1/4回転で、Y軸へ経てZ軸が出現するとしよう。即ち、X軸とZ軸の関係がここに生じる。これは、プラスZ軸である。
 そう、ここで、イデアの極性を考えた方がいい。プラスX軸とマイナスX軸である。プラスX軸は、プラスY軸→プラスZ軸、マイナスX軸は、マイナスY軸 →マイナスZ軸ではないのか。つまり、プラス軸の1/4回転は、プラス軸へと捩れ、マイナス軸の1/4回転は、マイナス軸へと捩れるのではないだろうか。それとも、プラス軸へ捩れるのだろうか。思うに、これは、プラスX軸の1/4回転においても、問題である。結局、プラスとマイナスの両方の捩れが生じるとしよう。即ち、±Z軸への捩れである。
 問題は、Z軸の意味である。これを高さ/深さの軸としよう。そして、X軸を左右の軸としよう。これは、ヌース理論と類似する。しかし、半田氏は、近代は、垂直に降下すると述べていた。しかし、近代は、ないし、プロト近代は、高さ/深さではなくて、前後・奥行きの方向に関係すると考えられるのである。そして、思うに、20世紀初期の「四次元」指向は、半田氏が述べていたようにアインシュタインの相対性理論の時空四次元で落ち着いてしまったのだろう。つまり、Y軸・虚軸の次元の探究が止まってしまったと言えるだろう。問題は、虚軸、虚次元の問題が消失してしまったことである。現代のあらゆる領域における閉塞は、ここに根因があるだろう。虚次元の喪失である。あるいは、イデア次元(正しくは、差異共振次元)の喪失である。
 ここで、直観で考察しよう。差異共振シナジー界(略して、シナジー界)は、Y軸の方向にあるはずであるが、それが、前後軸・奥行き軸となっている。音で言えば、ステレオ・立体音響となっているのだろう。しかし、これが、もはや、共振していず、連続・同一性化しているのである。実軸化しているのである。これは、光=視覚のもっている連続・同一性化によるのではないだろうか。どうやったら、虚次元・シナジー次元を取り戻すことが出来るのか。あるいは、イマジネーション・ヴィジョン次元を取り戻せるのか。それは、一つは、視覚の身体化ないし身心化によってであろう。あるいは、視覚の触覚化と言ってもいいだろう。視覚のコスモス化とも言えよう。(そう、宮崎駿の「絵」には、視覚的コスモス性があると思う。)視覚の差異化でもある。知性・意識の身体化でもある。これは、幾何学的には何を意味するのだろうか。これは、マイナス軸を肯定することのように思える。即ち、プラスX、Y、Z軸に対して、マイナスX、Y、Z軸を肯定すること。右に対して左、前に対して後、上に対して下の方向である。即ち、太極・対極性の力学である。思うに、プラス方向が光の方向ならば、マイナス方向は闇の方向ではないのか。ここで、KAISETSU氏の光の陰陽極性論を想起する。わかりやすいのが、上下方向である。上は天の方向であり、下は地の方向である。それぞれ、精神と身体の方向と言えよう。しかし、近代主義は、プラス方向(陽方向)の展開・発展であり、それで、閉塞したと言えよう。そう、プラス・エネルギーの展開であったと言えるだろう。それに対して、マイナス・エネルギーの展開が抑圧されたのである。プラス・エネルギーが連続・同一性の方向ならば、マイナス・エネルギーは、差異の方向ではないのか。おそらく、そうだろう。プラス方向は連続・同一性の方向で、マイナス方向が差異の方向ではないのか。思うに、イデア界=ガウス平面の太極(対極・双極)性があるのである。それは、連続・同一性と差異性との極性である。あるいは、光と闇の極性である。あるいは、知と存在との極性である。思惟と延長との極性である。父権と母権との極性である。オシリスとイシスとの極性である。太陽と月との極性である。いちおう、そう仮定しよう。東洋はこの極性の文化・社会を伝統的にはもっていたのに対して、西洋・西欧は、プラス・エネルギー、プラス方向、プラス極性中心の文化・文明であったと言えよう。なぜ、そうなったのか。なぜ、光中心となり、闇が排除されたのか。思うに、イデア界=ガウス平面自体の極性力学があるのだろう。イデア界自体の揺らぎ・揺動があるのではないのか。即ち、プラスへと傾いたり、マイナスへと傾いたりするのではないだろうか。そうならば、西洋文明とは、プラス極へと傾いた極相と言えるだろう。しかし、イデア界の極性力学は当然、揺り戻しがあるのだから、マイナス極へと戻るはずである。これが、ポスト西洋文明の力動であろう。つまり、差異化が発動するのである。プラスへと傾いたイデア界が、マイナスへと回帰するのである。思うに、これは、3/4回転ではないだろうか。最初の1/4回転で、プラス・エネルギーが発動した。そして、2/4回転で、それが、閉塞するのではないのか。そして、新たな1/4回転即ち3/4回転がマイナスX軸から生じる。左方である。これが、マイナスY軸へと移動するのである。これが、後方である。そう、これは、マイナスZ軸を形成するのではないだろうか。つまり、下方である。
 そう、即ち、西洋文明の場合、プラスX軸へとイデア界の虚力が作動し、プラス展開を行なう。そして、徹底的に、光=同一性化がなされる。しかし、プラス極へと達したイデア界の虚力は、今度は、マイナス極へと向かう。原点へと向かう。これが、3/4回転を発生させるのではないのか。そして、思うに、プロトモダンとは、この意味ではなかったのか。つまり、マイナス化がプロトモダンの力動ではなかったのか。しかるに、プラスとマイナスの二元論的分離になってしまったのではないのか。もともと、西洋文明のもっているプラス化に対して、プロトモダンは、マイナス化を意味したが、西洋文明のプラス化の強固さによって、マイナス化が中途半端で終わったのではないのか。それが、近代主客二元論ではないのか。あるいは、唯物論的合理主義ではないのか。心身の二元論化ではないのか。そう、プロトモダンは、マイナス方向へ向かったのであろうが、プラス反動(プロテスタンティズム)で、中和してしまったのではないのか。西洋文明のもっているプラス力で、マイナス力が抑圧されてしまったのではないのか。結局、思うに、西欧近代主義とは、プラス化(産業化・近代合理主義化とマイナス化(ロマン主義、ニーチェ哲学、現象学、モダン・アート等)を平行的に生んだと言えよう。そして、今日、前者がグローバリゼーションで支配的なのである。マイナス化をさらに作動させなくてはならないのに、プラス化が主導的なのである。(現代日本は、とりわけてそうだろう。)不連続的差異論は、このような状況で、誕生した。それは、プラス化の連続・同一性化を切断して、差異共振シナジー性を回復したのである。つまり、純粋な、絶対的なマイナス性を取り戻したといえよう。即ち、プロトモダンの回帰である。マイナス化の復活である。これは、思うに、3/4回転である。3/4回転を実現したのである。1/4回転のプラス化の反動性を乗り越えて、マイナス化を実現したのである。これは、結局、プラスとマイナスの極性バランスの実現であろう。そう、太極図が新たに実現したのである。太極の結晶が回帰したのである。太極が永遠回帰したのである。これは、新東洋文明と言えるだろう。というか、新東アジア文化の創造と言えるだろう。
 ということで、不連続的差異論/新プラトニック・シナジー理論は、イデア界の太極性を復活回帰させたと言えよう。プロトモダンの完成でもある。ここで、占星術のことを言うならば、やはり、宝瓶宮(水瓶座)のエポックなのだろう。キリスト教的西洋文明が白羊宮から双魚宮への移行・相転移であるとすれば、プロトモダン・新東アジア文明は、双魚宮から宝瓶宮への移行・相転移であるだろう。そう、ルドルフ・シュタイナーの占星術は間違っているのだ。やはり、キリスト教に囚われているのだ。伝統的な占星術が説くように、春分点は、宝瓶宮へと移動しているのだ。しかし、思うに、この占星術宇宙とは、イデア界的コスモスと見るべきだと思う。外宇宙の事象ではありえない。内宇宙の事象である。内在的宇宙の事象である。イデア論的占星術については、後で検討したい。
 とまれ、簡単にまとめると、イデア界・ガウス平面の太極的極性力学があるという仮説をここで提示したのである。

p.s. 一点確認しておくと、イデア界・複素平面の実軸X軸において、+X軸の方向に、イデア界の「虚力」、即ち、プラスの虚力が作用したときに、1/4回転が発生するのであり、そのプラスの虚力がプラス極に達した後は、《力》は、反転して、原点の方向、マイナス極の方向へと移動する。即ち、マイナスの虚力になる。思うに、原点(0,0)へと向かうことは、2/4回転ではないだろうか。そして、《力》が原点に達してから、マイナスX軸、マイナスX極へと移動するときが、3/4回転と考えられるのである。そして、それが、マイナス極に達した後、再度、原点(0,0)へと逆反転する。これが、4/4回転と考えられる。この原イデアの《力》の極性力学=円運動(プラトンの説)が、螺旋を形成すると考えられる。螺旋は、プラスの原イデアとマイナスの原イデアの双極性があり、プラス・マイナスの二重螺旋になると考えられよう。これが、女媧と伏儀の二重螺旋であり、また、DNAのそれを、また、外宇宙の渦巻星雲を現象させるのだろう。また、思うに、易経の八卦の2^3×2^3は、イデア面、メディア面、現象面の三重性の陰陽性を意味しているのではないか。また、太陽系であるが、これは、螺旋形状の横断面ではないのか。太陽系は螺旋形を描いてるのではないのか。
 後で、五芒星(ペンタグラム)と陰陽五行について検討したい。ここで、簡単に予見を言えば、これは、空海の言った「五大(地水火風空)の響きあり」の、五大に重なるだろう。つまり、十字の頂点数プラス中心数、即ち、4+1=5ではないだろうか。十字架に全体の一が入って、正五角形になったのではないのか。
| sophiology | 12:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
イデアと物質について:即自イデア、対自イデア、連続・同一性イデア
イデアと物質について:即自イデア、対自イデア、連続・同一性イデア


イデア・シナジー理論(NEW PLATONIC SYNERGY THEORY)の基礎に関して、考察しよう。
 KAISETSU氏は、イデアとは、方向性・ベクトルであると明快に述べている。これは、フッサールのノエシス/ノエマにほぼ相当するだろう。私見では、イデアは、即自的イデアと呼ぶことができる。(イデアの力の科学に関しては、別途に検討したい。)これが、ゼロ度共振によって対自的イデアとなると考えられるのである。シナジーとしてのイデアである。不連続的差異論では、メディア界である。ここでは、イデアの共振態があり、それは、多層的な共振態、多様態としての共振態であると見ることができるだろう。ただし、あくまで、不連続的イデア、絶対的イデアの多様共振態と見る必要がある。ここには、極性をもつ原光の発光があるだろう。なぜなら、ゼロ度共振は、プラスとマイナスの強度を発生させるからである。ここで、強度について言うと、これは、いわゆる、物質的エネルギーではなく、原エネルギーである。即ち、原光/原エネルギーの様相があるのであり、ここには、物質は存在していない。また、精神も存在していないだろう。ここにあるのは、絶対・不連続的ノエシス/ノエマ(=イデア)の多様共振態であり、それは、知存在(知即存在)のシナジーであるだろう。これを、おそらく、原有機体(参照:ホワイトヘッドの有機体哲学)と呼ぶことができるのではないだろうか。原知的生命体とも呼べるだろう。しかし、枢要なエッセンスは、知存在シナジーであるということであり、ここでは、まだ、精神/物質、観念/質料、思惟/延長の二元論が発生していず、一元論であることである。鈴木大拙の即非の論理であるが、これは、イデア=不連続的差異の即非の論理であり、例えば、イデア1とイデア2との即非であり、イデア1=イデア2と、イデア1≠イデア2とが併存共立しているのである。私がここで言う一元論とは、イデア一元論であるということである。即ち、知存在(=知即存在)であるイデアの一元論である。イデアは、精神でもないし物質でもない、その両者でもないのである。また、それらの未分化状態でもない。精神と物質の二元論が生まれる以前のイデア一元論である。ただし、無数のイデア一元論である。換言すると、本来一元であるイデアを、二元論的思考が、二分化しているのである。
 しかしながら、イデア多様共振態=メディア界において、知と質料との極性化が発生すると言えるだろう。それは、即自的なノエシス/ノエマであるイデア(プロト・イデア、原イデアと呼ぼう)が、共振化したときに、シナジーであるノエマを形成するからである。即ち、シナジー化したノエマが、質料極になると言えようし、シナジー化したノエシスが、知性極になると言えよう。ここで、もう少し精緻に考えよう。
 ノエシスとは、知存在=知即存在である。単に原知性であるのではない。ノエシスとは、即自的イデア、方向性・ベクトルそのものであり、ノエマとは一体である。即ち、ノエシス即ノエマである。だから、一体化させて、例えば、ノエシマと呼んでもいいのである。【思うに、フッサール哲学の問題として、純粋意識を根源にしていて、イデア自体を捉えていないと見ることができるかもしれない。だからこそ、ハイデガーが、いわば、狡っ辛く、その隙をついて、存在論を提起したのだろう。確かに、フッサール哲学の弱点であろう。KAISETSU氏が説くように、ノエシスをイデアの始点に、ノエマをイデアの終点にすれば、正しかったと思うのである。ノエシス→ノエマである。】
 以上から、イデアの共振態=シナジーである「原有機体」は、ゼロ度の接点(ノエマ)を仲介して、原光エネルギー態となっていると見ることができるだろう。原光=原エネルギー=原強度と言える。しかしながら、これは、いくら強調しても強調し過ぎることはないのであるが、あくまで、イデア・シナジー態としての、イデア共振態としてのそれであり、精神と物質の二元論は発生してないということである。イデア一元論である。【ヌース理論への、私の根本的な疑問は、このイデア・シナジー態を素粒子と考えている点である。素粒子・量子とは、量子力学という唯物論的自然科学によって捉えられた物質の根源(元素・「アトム」)であるから、イデア・シナジー態を素粒子と考えるのは、カテゴリー・エラーだと考えられるのである。だから、ヌース理論は、イデア論と唯物論との折衷理論であり、欺瞞的な理論になっていると思うのである。同一のものを、一方では、イデアと説き、他方では、物質と説いているのであるから。また、NOOSとNOSも、イデアとしては、奇妙に思えるのである。半田氏は、NOOSを物質を創る力としているのであり、NOSをそれの知覚と考えているようだ。しかし、物質を創る力がNOOSならば、それは、イデア論ではなくて、唯物論ではないのか。これらが、私のヌース理論に対する疑問点である。中沢新一氏の「霊的唯物論」にとても似ているように思えるのである。「霊的唯物論」とは、ハイデガー哲学と同質・同類だと思う。それは、超越論的唯物論と呼べよう。 p.s. もう一点、問題点をあげると、半田氏は、素粒子を潜在的イデアといい、原子を顕在的イデアと呼んでいる。不連続的差異論から言うと、潜在的イデアとは、絶対的差異・不連続的差異に当たり、素粒子はそうではないし、顕在的イデアは、差異共振態・差異シナジーのことであり、原子ではないのである。どうも、ヌース理論は、とんでもない勘違いをしているのではないだろうか。イデア即物質にしているのである。半田氏は、きわめて、鋭敏な洞察力をもった人物であるが、イデアを物質に直結させるという、途轍も無い誤謬を犯しているのではないだろうか。それは、まったく、真理を追究する精神性に反している。それは、虚偽である。邪悪である。思考の基本の基本を無視しているのである。】
 このイデア・シナジー態(=メディア界)のイデア一元論を再確認しておきたい。そして、これが、連続・同一性化するときに、精神(思惟)と物質(延長)の二元論が発生すると言えよう。真実在は、イデア・シナジー態(これが、D.H.ロレンスの「暗い宇宙のバラ」である)であり、ここにおいて、森羅万象は一如、梵我一如、ミクロコスモス=マクロコスモスである。しかし、連続・同一性による現象=仮象=幻像(マーヤー:W.ブレイクならば、ヴェイラVALAである)=現象光的被膜化によって、主客分離が発生するのである。現象光による主客分離である。主観と客観、主体と客体の発生である。分離二元論あるいは二項対立的二元論の発生である。連続・同一性が主客の距離を作るのであり、四次元時空間を作ると言えるだろう。つまり、連続・同一性とは、現象光であり、これが、距離と時間を発生させているのである。(これが、相対性理論の意味であろう。アインシュタインは、現象界の科学理論を真に立てたと言えよう。)
 この連続・同一性が発現させる主客二元論的現象界とは、虚構の世界である。連続・同一性という仮構が造り出している仮現・仮象界である。そう、現象光は、仮象である。本来は、原光なのである。ただし、光があるように見えるのである。光は幻像なのである。原光が真実在である。(これは、阿弥陀如来が意味する無量寿如来・アミターユスと無量光如来・アミターバだと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E5%A6%82%E6%9D%A5
)だから、物質とは、イデア・シナジー態=原光の、連続・同一性である現象光化であろう。イデア・シナジー態が真実在である知存在=知即存在であるが、それが、現象光化したものが、物質であると言えようし、現象光の主観が精神・思惟である。
 もう少し精緻に考えよう。知存在であるイデア・シナジー態=メディア界が真実在であり、ここでは、言わば、思惟即延長である。思うに、違う用語が必要なのである。原時空間、時空素がここにはあるだろう。この時空素が、知存在である。又は、知的原強度と言えよう。あるいは、主客合一の超世界である。超光の世界である。この原光・超光の知存在が、連続・同一性の現象光によって、主客分離されるのである。即ち、同一性化された知存在は、光速度に限定される。即ち、無限であったものが、有限化されるのである。無限の原光(「無量光」)であったものが、有限の光となるのである。無限速度から光速度への転換がある。このとき、イデア・シナジー態である知存在は、現象になるのであるが、このとき、連続・同一性の現象光は、イデア・シナジー態を連続・同一性へと変換させて、イデア共振をイデア同一性へと転換すると言えよう。
 問題は、同一性が、知存在をどのように思惟と延長に分離するのかである。以前の図式を想起しよう。差異1・同一性・差異2というメディア/現象境界を考えよう。そして、メディア界においては、差異1・共振・差異2である。思うに、同一性が、差異1と差異2とを分離するのは見やすいだろう。同一性による共振=シナジー態の切断があるのだろう。ここで、差異と差異との同一性の距離が生まれる。即ち、延長であり、空間である。そして、この延長空間(延長時空間)を、同一性である現象光が満たしている。そして、この現象光を、差異である知存在が知覚するのである。即ち、光知覚=視覚が生起するのである。視覚による同一性の認識が、知性になり、そして、同一性の延長空間における他者=差異が、物質になるのだろう。言い換えると、同一性の認識が主観・思惟・心・精神となり、同一性によって排除された差異が、客観・延長・身体・物質となるのだろう。つまり、同一性の現象光による視覚が精神を生起させ、視覚=精神により排除された差異が、身体となると言えよう。ここに精神と物質の二元論が生まれるのである。しかしながら、注意すべきは、同一性に抗して、差異である身体を中心にする身体論に囚われることである。身体論は、たいへん流行った思想であるが、しかし、これも、逆二元論なのである。精神に対して、身体を強調するというのは、精神の強調と同形である。観念論と唯物論の関係と等価である。そうではなくて、視覚と身体との本来の共振性を把捉することが重要である。現象光とは、虚像なのである。光の真実在は、原光である。そして、原光は、差異共振態・差異シナジーである。本来、原感覚は共振態・シナジーを形成しているのである。ただい、同一性の幻像によって、視覚精神と身体とが二元論的に分離したに過ぎないのである。ニーチェがディオニュソスとアポロの一体性を説いていることは、正鵠を射ているのである。(一般に、両者を、二項対立で捉えるようだが、それは、誤りである。ディオニュソスとは、差異共振・シナジーのことであり、そこに原光→現象光が幻像・仮象化するのである。)
 ということで、連続・同一性の現象光という幻像・仮象によって、イデア・シナジー態である知存在が、精神と物質の分離的二元論化されることが判明したのである。これが、反動的近代主義を生んでいるのである。だから、プロトモダン(原近代)に回帰させるには、光を再度、差異化すればいいと思われるのである。KAISETSU氏の光の陰陽極性論は、この点で役立つだろう。光に陰を認めることである。あるいは、原光としての光を確認することである。それは、光の身体化と言えるだろう。そして、同時に、それは、身体の光化である。分離二元論・二項対立から陰陽論・即非論への転換である。とまれ、光の身体化=身体の光化が重要だと思う。そして、思うに、座禅や瞑想とは、この「科学技術」であると思うのである。身体と光との融合をそれらの作業は生むと思うのである。そう、正に、東洋の実践叡知である。
| sophiology | 19:23 | comments(0) | trackbacks(0) |

Calendar

      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< July 2017 >>

Sponsored Links

Profile

Recommend

Search

Entry

Archives

Category

Link

Feed

Others

無料ブログ作成サービス JUGEM

Mobile

qrcode