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PS理論批判:物質世界を数学観念的に記述する理論で、物質を越えた氣の世界を無視している
 

PS理論批判:物質世界を数学観念的に記述する理論で、物質を越えた氣の世界を無視している


テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論
 
今、太陰氣学の世界が明瞭になってきて、長い間携わってきたPS理論の誤りがはっきりとした。
 それは、物質的世界を数学的観念を用いて、説明するものであり、物質を越えた氣の世界を否定したものであり、基本的には、唯物論的理論ということができるのである。
 確かに、初期PS理論は超簡潔ですごい切れ味ではあった。即ち、自己認識方程式があったが、

凸i*凹i⇒+1

というものである。ガウス平面を使って、これで、森羅万象を説明しようとしたのである。
 これは、近似値的には、陰陽論の数式化である。
 しかし、根源の太極を説明しようとすると、混乱するのである。そこで、私は混迷したのである。
 その結果、PS理論から脱出して、独り歩きを初めて、太陰氣学に到達したのであった。
 別の角度から見ると、PS理論は不連続的差異論の発展として考えられたものであり、対の共振性という考えは、意味深いものである。
 しかしながら、不連続的差異のもつ根源性が凹iではまったく説明できないのであった。そう、不連続的差異が凹iなのかMP(メディア・ポイント:つまり、ガウス平面の原点に相当する)なのか、不明確であったのである。
 不連続的差異を十分に発展できなかったのが、PS理論の大きな欠点の一つである。


追記:「海舌」氏がPS理論の主導的な開発者であるが、結局、私と「海舌」氏では根本的なイメージが異なっていたと言えよう。「海舌」氏は物理学のイメー ジで不連続的差異やPS理論を把握しようとしていたが、私にとっては、心身現象が母体であり、不連続的差異とは肚であり、また、PS理論の対とは、自我と 肚の対であったのであり、このイメージの根本的違いが、私のPS理論からの離脱・脱出をもたらしたと言えよう。
そう、根源を探すと、PS理論は答えを出せないのである。つまり、太極を求めようとすると、混乱したのであった。
私は今や、太陰氣学の立場で、根源が太陰(肚)ないし太陰玄氣にあるとして、明快である。

追記2:もう少し丁寧に説明すると、自己認識方程式


凸i*凹i⇒+1

において、私は凸iを陽、凹iを陰、そして、*を陰陽共振と見ていたのである。+1の解釈が問題であった。
それを物質と取るのか、光と取るのか、それとも氣と取るのか、難航した。
思うに、本来は自己認識方程式であるから、+1は自己であり、自己認識である。自我凸iと不連続的差異凹iが共振(即非共振)する存在として、自己+1 が存するという考えである。それは、表面的には整合性のあるものである。(しかし、不連続的差異を凹iとするのは、問題があるように、思う。この点は再度 検討したい。)
しかし、自己認識から現象一般に展開させると問題が生じたのである。
私は左辺は陰陽次元であるから、いわば、超越性の世界、超越界である。
しかし、「海舌」氏の場合は、認識と取ったのである。それも、凸iの陽が主要となる認識である。私も一旦は、そのように考えていたのであり、不連続的差 異凹iを従属的に考えていた。しかし、不連続的差異自体に凸iとは異なる認識があるのであり、その特殊な認識をPS理論は見なかったのである。対称的に凸 iと凹iを見ていたのである。両者の非対称性を見ていなかったのである。
とまれ、自己認識方程式に関して、私は陰陽次元、超越的に見ていたが、「海舌」氏は、物質世界の認識として、捉えていたと思う。そこには乖離があるので ある。私は氣の次元で考えていたが、「海舌」氏は、物質に対する認識(数学的形式観念)の次元で考えていたと考えられるのである。

 
| sophiology | 05:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
自我と個について:「わたし」とは何か:凹⇒凹i*凸i⇒凸i*凹i⇒凸
久しぶりに投稿します。
因みに、今は次のブログとツイッターをメインにしています。

http://ameblo.jp/neomanichaeism
http://twitter.com/#!/neomanichaeist

テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

自我は凸i、個は凹iと言えるのではないか。とまれ、今は、自我とは何か、個とは何かを考えたい。
  私が考えるとは、直感的に考える、つまり、内省、省察するということである。(思うに、思考と内省・省察は異なるのではないだろうか。前者は頭で考えるの であり、後者は、内面的に考えるのであるから。だから、いわば、外考と内考があると言うことができる。近代主義は当然、前者に傾斜しているのである。哲学 は後者である。)
 この問題で私が参照するのは、人智学のルドルフ・シュタイナーである。彼は、人間における自我を重視している。もっとも、彼の自我とはich(「わたし」)のことであるが。
 ここでは有り体に考えよう。いったい、自我とは何か。確かに、外界への視覚に留意し、頭で考える存在である。
 これはデカルト的自我と言っていいだろう。コギト・エルゴ・スム。
 物質現象世界を生きる「身体」としては、そのような視点になる。自我的視点である。
 しかしながら、自我と「わたし」は同じであろうか。これが大問題である。
 自我とは、物質的現象界を生きる上で、必要な「端末」である。
 そう、物質世界において、自我が主導化する。
 この自我とは物質的な「わたし」と言えよう。だから、物質的でない「わたし」が存するのである。それは当然であるが。
 端的に、精神的な「わたし」が存するのである。
 では、精神的な「わたし」と個とはどう関係するのかが、問題である。
 これまで、私は個とは凹iであると述べてきた。又、それは、同時に他者であると述べてきた。
 だから、自我と個とは対立・矛盾するのである。否、絶対的矛盾・対立である。つまり、やはり、自我は凸iであり、個は凹iであるということになる。
 ならば、「わたし」とは何か、という問題が生じる。
 結局、「わたし」とは、両極的、対極的、双極的観念ではないだろうか。
 ここには、三一性があると言えよう。自我、個、「わたし」である。しかしながら、「わたし」は曖昧な観念である。流動的である。何故なら、常に、自我極に向いたり、個極に向いたり、常時変動しているからである。
 ここで、都合がいいので、ユング心理学の個性化について考えよう。
 ユングは自我と魂(アニマ)との統合として、自己形成=個性化を説いていた。
 だから、私の論理の文脈では、魂とは個凹iになるだろう。
 では、ユングの個性化とは何か。それは、以前述べたが、自我と魂(個)との連続的統合化であると思う。それは、混乱していると言えよう。錯誤である。
 というのは、ユングは、自我と魂(個)とが不連続であることを考えずに、その連続的統一・結合化を個性化と考えているからである。
 PS理論から言えば、自我と個(ないしは魂)は不連続であり、連続的統一化が不可能である。
 PS理論では、自我凸iと個凹iとは、差異共立且つ差異共振するのであり、常に、自我凸i・即非*・個凹iという常時変動生成状態をもつと考えられる。
 とまれ、それが「わたし」の実態であるが、いったい、主導性は何であるのかが重大な問題である。
 自我凸iが主導的なのか、個凹iがそうなのか。
 PS理論から言えば、両者が主導的である。つまり、どちらも主導的ではないと言えよう。
 ただし、傾斜の問題がある。自我凸iに傾斜したときは、差異共振は第二象限に属するし、個凹iに傾斜したときは、それは第三象限に属すると考えられる。
 そういうように考えると、両者、平等、対等、均等である。果たして、そうなのか。自我凸iと個凹iは対等なのか。
 ここでは、直感で述べよう。対等ではない。主導性は後者にあると。
 根源は個凹iに存すると考えられるのである。
 自我凸iは、個凹iのエネルギーを受けて、成立しているように感じられるのである。
 ならば、不均衡がそこにあるのである。つまり、自我凸iと個凹iとの不均衡である。
 これはどういうことなのか。つまり、本来、個凹iが基礎であり、自我凸iは二義的ではないのかということである。
 ならば、個と差異共振とはどういう関係にあるのかが問題である。
 ここで、どうも袋小路に入ってしまったようである。この点については、以前、考えたことがあるので、それを利用してみよう。
 以前の考えとは、⇒凸(+1)においては、凸iが主導的であり、凹⇒凸i*凹iにおいては、凹iが主導的であるというものである。
 これは言い換えると、前者は父権的であり、後者は母権的であるということと考えられる。
 これが、事象の力学(秘密)なのであろうか。つまり、物質化のためには、凸iが主導的であり、脱物質化のためには、凹iが主導的であるということなのか。
 そうならば、端的に、事象において、不均衡、非対称が本質であるということになる。
 これも以前述べたことかもしれないが、超越的存在の凹が分化(自己分割)して、凹i*凸iを産出する。このとき、凹は直接的には、凹iに作用しているのではないだろうか。それから、主導性が凸iへと移り、次に、物質化するということになるだろう。
 言い換えると、最初は、第三象限(精神世界:光の王国)が成立し、次に、第一象限(物質世界:闇の世界)が形成するということになる。
 多くの神話で説かれる原初の混沌とは、第三象限を指しているのではないだろうか。あるいは、media pointがそうかもしれない。(これは課題とする。)そして、天地開闢ないしは天地創造は第一象限の発生を意味するのではないだろうか。
  思うに、根源の「闇」とは第三象限だと思う。それが、「闇」なのは現象世界の「光」から見てのことである。そして、混沌とはやはり、media pointだと思う。それは、「闇」と「光」の中間界であり、D. H. ロレンスのいう薄明twilightの世界(金星Venusで象徴される)である。
ということで、作業仮説的に、原初においては、凹iが主導的であり、現象発現においては凸iが主導的になるとしたい。
 言い換えると、母権が原初にあり、それから父権が生起するということであり、それは、神話学的説明にそぐうものである。
 つまり、多神教が根源にあり、その後、一神教が発生するという力学、宗教・神話力学があるということである。
 ここで、今日、現代の時代のことを考えると、今や、凸i=父権の支配は終わり、新たな凹i=母権主導になりつつあると考えられるのである。
 この力学はどう説明できるだろうか。
 思うに、新たなエポックが始まったと考えられる。これまでの支配的であった西洋文明のエポックの発動のエネルギーが枯渇して、新しいエネルギーが発動していると思われるのである。
 新たな第三象限の発動・起動・駆動である。
 では、そうならば、再び、母権から父権へと進展するのであろうか。否、そうではないだろう。これは螺旋的回帰であり、進展・進化と考えられる。
 再び、父権主義にはならないだろう。父権主義を超克した新母権主義、新母権的統合主義となろう。
 何故なら、今や、父権主義の力学が解明されて、それを克服する知恵があるからである。つまり、新たに、父権主義へ向おうとすると、母権、凹iの抑止がはたらいて、それは制御されると考えられるからである。
 今はここで留めたい。
| sophiology | 09:45 | comments(2) | trackbacks(0) |
差異共振シナジー性の理論的構成:二つの差異共振空間:超越的波動空間(MP空間)と物質的波動空間(量子空間)
差異共振シナジー性の理論的構成:二つの差異共振空間:超越的波動空間(MP空間)と物質的波動空間(量子空間):

差異的同一性を差一性(ないし差同性)と呼ぶ。すなわち、差一性Aと差一性Bとにおける差異共振性(差異共振シナジー性)の実質はどういうものなのか。 A≠Bであり、同時に、A=Bであるという即非の論理がここで成立する。通常の論理では、不等号の論理であるか、A=Aの同一性等価の論理が作用する。即非における等価の論理では、差一性が共振している。ここで、図式化してみよう。

差一性1・差異共振性1・差一性2・差異共振性2・差一性3・差異共振性3・・・

差一性をDifference Identity(DI)として、差異共振性をDifference Resonance(DR)とすると、

DI1-DR1-DI2-DR2-DI3-DR3-・・・・・

となる。簡略化して、差一性を同一性Iとして、差異共振性を共振性Resonanceとすると、

I1―R1−I2−R2−I3−R3−・・・・

となるだろう。そして、MEDIA POINT(以下、MP)の理論を挿入すると、

I1-MP-I2-MP-I3-MP-I4-・・・・

となるだろう。MPは、普遍共通だから、序数をつける必要はないと考えられる。Iを元に戻して、差一性にすると、

差一性1−MP−差一性2−MP−差一性3−MP−差一性4−・・・

結局、差一性Aと差一性Bとは、メディア・ポイントを介して、共振するのである。ここで、即非の論理が成立するのである。だから、即非論理をメディア・ポイント論理(MP論理)と呼ぶこともできよう。
 とまれ、これで差異共振性の意味が明快になったと言えよう。個と個とは、メディア・ポイントを介して、超越的に共振するのであり、このときには、新たな超越的エネルギーが放出されるのである。しかし、これは、エネルギー保存則から、消滅するエネルギーである。生成消滅的エネルギーである。だから、思うに、イデア界・超越界においては、イデア・超越的差異共振性のデュナミス、即ち、ポテンシャル・エネルギーがあり、それが、メディア・ポイントを介して、エネルゲイア化・エネルギー化すると考えられる。つまり、m(ic)*(-ic)⇒E=mc^2というエネルギー公式で考えると、⇒の左辺は超越界・イデア界のデュナミス(ポテンシャル・エネルギー)を意味して、⇒の右辺がエネルゲイアではないだろうか。
 そう考えると、これまで、超越的エネルギーと呼んでいたものをどう考えるのかという問題が生じる。思うに、⇒が超越的エネルギーを意味するのではないだろうか。そう、⇒がメディア・ポイントであり、ここにおいて、超越的デュナミスが超越的エネルギーになり、また、物質的エネルギーになると考えられるのではないか。この物質的エネルギーが、いわゆる、電磁波である。例えば、「気」は、超越的エネルギーであるが、観測装置では、電磁波や磁気として検証されるということのように考えられるのである。あるいは、端的に、精神ないし霊の場合を考えよう。それも、「気」とまったく同様に考えられよう。精神ないし霊は超越的エネルギーであるが、それは、科学的には、電磁波ないし磁気として観測されるのである。
 思うに、なんらかの原因で、共振化がメディア・ポイントにおいて発動すると、それは、超越的エネルギー、そして、物質的エネルギーとなるが、それは、超越的波動であり、物質的波動(電磁波)であろう。問題は、この波動空間である。超越的波動空間とは何なのか。物質的波動(電磁波)は、現象空間を伝播する。物質的波動(電磁波)は、メディア・ポイントを介して、現象軸(ガウス平面の実数軸を現象軸と呼ぶ)を伝播すると考えられよう。
 では、超越的波動空間は何処なのか。これは、推察されるのは、端的に、メディア・ポイントである。そして、多数・無数のメディア・ポイントが存すると考えられるので、いわば、メディア・ポイント空間が超越的波動空間と言えるだろう。これは、個体と個体、個物と個物、個と個、差一性と差一性、同一性と同一性の間に存する不連続的空間である。だから、物質的波動空間(電磁波空間)とは微妙に異なると言えよう。物質的波動空間とは、メディア・ポイントを介する現象軸空間であるが、超越的波動空間とは、メディア・ポイント空間である。それは、超越的空間(イデア界)と現象的空間(現象界)との中間である。メディア空間とも言えよう。
 考えると、物質的波動空間と超越的波動空間とは、微妙な関係にある。前者は、量子空間と言ってもいいものであるし、それは、超越的波動空間と交差していよう。ここで区別するならば、物質的波動空間=量子空間とは、メディア・ポイント連続空間であり、超越的波動空間=メディア・ポイント空間とは、メディア・ポイント不連続空間であると言えるのではないだろうか。
 しかしながら、前者の問題は、実は、メディア・ポイントに接しているので、本来、不連続なのである。しかし、物質的連続主義から、その不連続性を否定しようとしているのである。非局所的長距離相関の概念や粒子と波動の相補性という概念がそのようなものと考えられるのである。言い換えると、端的に、物質的波動空間=量子空間とは、物質論理的には、矛盾を抱えた空間、即ち、不整合な空間であると言えるだろう。本質は不連続でありながら、連続性によって糊塗しようとするのである。当然、これが、量子力学が壁にぶつかっている根因である。標準理論の破綻、ダークエネルギー問題等々も、ここに原因があると言えよう。量子力学、ひいては、自然科学が今日、超越的飛躍(いわば、キルケゴール的飛躍)の実行が切迫していると言えよう。物質からイデアへと超越飛翔する必要があるのである。
 とまれ、ここで、ここで整理するならば、物質的波動空間=量子空間は、メディア・ポイントにおける現象軸空間であり、超越的波動空間=メディア・ポイント空間は、メディア・ポイントにおける超越軸空間(超越軸は虚数軸)であると言えよう。補足するならば、量子論は、超越的波動空間―超越軸空間を導入することで、トランス・量子論へと進展するだろう。PS理論的量子論である。イデア論的量子論である。
| sophiology | 00:37 | comments(0) | trackbacks(10) |
連続的同一性化と差異的同一性化との力学:差異と同一性の連続的混沌と超越的差異即非共振性
先に少し言及したが、途中なので、ここで検討を行う。

これまで、⇒-1と⇒+1とはメディア・ポイントMePoの実数軸において、構造(構造主義の構造)を形成し、そこに極性があると想定してきた。

つまり、-1の極と+1の極があり、近代主義とは、前者へ傾斜した場合と考えたのである。

ここで作業仮説だが、MePoの超越的上層(上部)において、差異即非様相をデュナミス=ポテンシャル・エネルギーとしよう。そして、そこから、エネルゲイアが発動して、MePoの下層(底部)へと螺旋回転するとしよう。

このMePoの下層(底部)が、虚数エネルゲイアと実数エネルゲイアとの中間であると言えよう。つまり、ここでも、即非的一性としてのエネルゲイアがあるのである。

だから、MePoの下層部は、現象化の始点であり、実数エネルゲイア即ち、物質エネルギーの原点である。

しかし、思うに、MePoの底部は、あくまで、虚数エネルゲイアと実数エネルゲイアとの即非的交点であるから、ここは即非的エネルゲイアないし即非的エネルギー又は虚・実即非エネルギーが存すると見ることができよう。

(さて、現象化であるが、明快にするために、MePoの底部を底部MePoないしSub-MePo, Bottom-MePoとしよう。そして、上部を上層MePoないしSupra-MePo, Top-MePoとしようか。正確に言えば、底部は底点であり、上部は上点であるが。)

この底点MePoは、虚数・実数即非エネルゲイア(エネルギー)をもっているというように記述できる。

さて、現象化であるが、それは、この底点MePoの即非エネルギーの発動による。それは、思うに、不思議なエネルギーの発動であり、発現である。

なぜなら、一方では、超越エネルギーであり、他方では、物質エネルギーであるからである。

超越エネルギーを差異、物質エネルギーを同一性と見ることができよう。

差異(超越エネルギー)-同一性(物質エネルギー)-差異(超越エネルギー)-・・・

である。差異をD、同一性をI、超越エネルギーをTE(Transcendental Energy)、物質エネルギーをME(Material Energy)と表記しよう。

すると、

D(TE)-I(ME)-D(TE)-I(ME)-D(TE)-I(ME)-・・・

となるだろう。

もっとも-の記号は即非性であるから、☯を使用するといいだろう。

すると、

D(TE)☯I(ME)☯D(TE)☯I(ME)☯D(TE)☯I(ME)☯・・・

となる。

明瞭にするため、

D-I-D-I-D-I-D-I-・・・

を使用する。

DとIとの即非様態が現象界である。

そして、これは、明確には、i*(-i)⇒+1ないしm(ic)*(-ic)⇒m・(+1)・Eで記述される。

問題は、これを、同一性の連続空間と見る近代主義である。

それは、I⇒I⇒I⇒I⇒・・・

である。即ち、⇒-1である。

これは、現象界を単に物質・機械的世界と見ることである。

現象界の底点MePoに於ける差異性ないし超越性を否定・排除するものである。

この否定・排除の力学を解明したいのである。

私はこれまで、一神教・父権主義における連続性への傾斜を述べてきた。

これは、差異と同一性との関係で言えば、同一性への傾斜と言うことができる。

では、傾斜とは何か。

これは、フッサール現象学で言えば、ノエマと外的対象を同一化することではないだろうか。ノエマという自己内観念を、外的対象へと投影して、一体化することではないだろうか。

これは、先に触れた、遠近法や奥行きや第3次元空間の問題と関係しよう。

ノエマと外的対象とを同一化したものが、同一性である。ノエシス-ノエマの差異と外的対象の差異が否定されるのである。

ここには、明らかに、錯誤・倒錯・狂気があると言えよう。

これは、また、ヘーゲル哲学の問題である。

ヘーゲルの理性は、「全存在であるという確信」である。この全体性が僭越なのである。この全体性は何処から来るのだろうか。

これは、端的に、言えば、内的他者・ノエマの否定からだと思う。本来は、超越性があるのである。ノエシス-ノエマは超越性であると思うのである(超越論的主観性)。しかし、この超越性を否定して、全体性を形成すると考えられるのである。

内的他者との共振を否定して、主体が全体化するのである。

そう、ここには反動があるのである。思うに、現象界において、なんらかの苦の経験をする。それに対して、主体は身構えるのである。これが、内的他者との共振性の否定ではないだろうか。

外的対象に対して、主体は身構える。攻撃態勢と取るのである。それは、内的他者を否定して、形成される態度だろう。

つまり、外的対象への反感・反動が、共振的超越性の否定であり、全体性を発現させると思われる。

これが、連続的同一性の起源であろう。

即ち、i*-(-i)⇒-1である。

この反感・反動であるが、これは、どこで形成されるのだろうか。それは、思うに、原-身体と思われる-iが苦を感じて、それに対して、原-主体であるiが反感・反動化するというように考えられるならば、それは、-iとiとの相互作用であるが、反感・反動の主体は、iであると言えよう。

有り体に言えば、苦に対する否定として、連続的同一性が発生すると言えよう。-iの苦の様態の否定としての連続的同一性である。

否定様態としての連続的同一性である。

即ち、マイナスの《力》である。即非共振の力学を太極力学と言うならば、これは、太極力学におけるマイナスの《力》である。この場合は、iを陽、-iを陰とすれば、陽*陽⇒-1である。

結局、本来、陽*陰⇒+1であるが、陰を否定した様相になっている。

当然、否定された陰が潜在することになる。これは、いわば、潜在エネルギーである。そして、これは、本来、陽*陰のエネルギーであると考えられる。

そして、この、いわば、塞き止められた陰・陽エネルギーは、連続的同一性に対して、反作用するだろう。しかしながら、連続的同一性(自我)が強固である場合、それは、分裂性という様態を取るだろう。連続的同一性と陰・陽エネルギーの分裂である。そして、後者が前者に対して、非合理主義的な情動・衝動となって発動するだろう。これが、私が以前執拗に理論化しようとしてきた近代的自我の狂気ということであろう。パラノイアであり、「精神分裂症」である。

近代主義の問題を考えると、この連続的同一性が近代合理主義、唯物論となったのである。それは、陰・陽エネルギー、超越エネルギーの反作用を非合理主義としてもっているのである。

しかし、連続的同一性を単純に否定して、陰・陽エネルギー、超越エネルギーだけを肯定するならば、それは、ポスト・モダンとなるあろう。ドゥルーズやデリダとなるだろう。

なぜなら、それは、iという原-主体性を否定することになるからだろう。ドゥルーズが超越論性ないし特異性とは非人称的且つ前-個体的なものと述べたように、主体性の基盤が消失してしまうだろう。

端的に言えば、連続的同一性の単純な否定は、同一性自体を否定することになるのである。そうすると、陰・陽エネルギー、超越エネルギーの現象化である、本来の差異的同一性⇒+1が消失するのである。

つまり、連続的同一性の単純な否定は、底点MePoにおけるエネルギーの肯定ではあっても、現象化を否定することになると考えられる。何故なら、現象化、自己現象化とは、主体の能動性が必要だからである。即ち、i*(-i)の共振エネルギーは底点MePoにあるだろう。しかし、これは、原主体iの能動性があって、自己現象化が真に発現するのである。

即ち、⇒+1の形成には、原主体iの能動性が必要なのである。それが、連続的同一性にはあると考えられる。だから、連続的同一性を乗り越えて、差異共振化を能動的に認識して、差異的同一性という自己認識現象が生起すると考えられるのである。

だから、トランス・モダンとは、実に的確な命名である。モダンの行き着いたところを乗り越える(トランス)ということであるからである。

これは、現象学的還元であり、また、スピノザの能動的観念と関係するだろう。

以上から、整理すると、連続的同一性という反動的能動性に対して、超越エネルギーの反作用が生起する。

即ち、連続的同一性⇔超越エネルギー

である。これが、末期近代主義の様態である。

そして、この混沌した様態において、連続的同一性を不連続的超越性によって切断することで、連続化が解体して、同一性と超越性とが調和するのである。即ち、差異的同一性⇒+1が形成されるのである。

言い換えると、末期近代において、連続的同一性と超越エネルギー(差異エネルギー)の混淆様態が発現する。これは、混沌・混乱である。

しかし、連続的同一性の連続性を切断すること、即ち、同一性と差異性を不連続化することで、両者の調和への一歩が形成されるのである(不連続的差異論の段階)。そして、切断されて生起した、不連続的差異を即非・共振化することが、次のステップである(プラトニック・シナジー理論の第一歩)。そして、さらに、共振化した差異を超越性・虚数として認識することが到達点とほぼ言えよう(プラトニック・シナジー理論の成就)。

結局、以上から、末期近代において、一種、同一性と差異との連続的混淆様態における極性が生起すると言えよう。そう、連続的極性である。しかし、ここから、超越的差異へと飛翔するのは、必然的ではない。

確かに、そこには、可能性はある。そして、経験的にそのような心性を無意識的に形成するかもしれない。しかしながら、近代主義の枠組み・パラダイムにある限り、その経験的無意識的な心性は、独立できないだろう。

ここにプラトニック・シナジー理論のトランス・モダン哲学・理論としての創造的意義があるのである。

この理論を契機にして、近代主義の悪魔の牢獄世界から脱出することができるのである。

この理論は、二千数百年の叡知の眠りから人類を覚醒させることになる。
| sophiology | 19:48 | comments(0) | trackbacks(221) |
形相の問題:イデア的形相、又は、内在的超越的形象:虚MP⇒実MPの形相変換力学構造について
イデアの結界―西欧的感性のかたち (単行本)
田淵 安一 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%B5%90%E7%95%8C%E2%80%95%E8%A5%BF%E6%AC%A7%E7%9A%84%E6%84%9F%E6%80%A7%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A1-%E7%94%B0%E6%B7%B5-%E5%AE%89%E4%B8%80/dp/4409040294
を拾い読みして、形相の問題も未解決であると思った。

著者は、プラトンのイデアとアリストテレスの形相に関連して、ネオプラトニストのプロチノスのイデア的形相のようなものを説いている。

これは、内在的超越形式というものではないだろうか。

簡単に言うと、超越論的(内在的超越的)形態・形象である。

この空間を求めたいのである。

プラトンのイデアは、一面として、この元形態・形象性をもっている。

先に、形態に関しては、対称性の破れで説明できると考えたが。

直観で言えば、メディア・ポイントがこの超越論的形態の空間であろう。

例えば、朝顔の元形態はここにあるということになる。

思うに、種子・種ないし卵、あるいは、遺伝子やゲノムという形態の起源は、メディア・ポイントMPではないだろうか。MPは、確かに、イデア界的即非様相が「縮限」される空間のように思えるのである。

元形態が、いわば、折り込まれる、折り畳まれるのがメディア・ポイントであり、その現象態が、種子、卵、遺伝子、等々ではないか。

i*(-i)⇒+1は、このことも表象しているのではないだろうか。iが元雄であり、-iが元雌であり、*がメディア・ポイントであり、受精・生殖等を意味するのではないか。

さて、問題は、元形態である。ここでは、限定して、簡単に考えたい。すなわち、たとえば、花の元形態、馬の元形態、木の元形態、等について解明したいのである。

これは、プラトンのイデアの一様相である。

ここで、上述した著書で引用されているヒルデガルド・フォン・ビンゲンの言葉を引用しよう。

《その形は、神の予定知が、時間が存在するより以前に非肉体性のうちに熟視されたものです。まことに、鏡のまえに置かれたすべての物がそこに自らを映すのとおなじく、神の創造物のすべては、聖なる神性のみ胸に、非時間性のなかにおいて姿を現わすものなのです。・・・光線が被造物の形を照らしだすとおなじく、神の純粋なる予定知は、被造物の形を肉体が包むそのまえに熟視されるのです。ということは、それぞれの物は神の御予定にしたがって、肉化に先立ち、予定知のただなかにおいて似像として燦然と輝いているのです。」pp. 96~97

「予定知」とは摂理providenceということであろう。

この箇所において、元形態の問題点は、神が熟視する元形態であるということである。当然、神と元形態はことなっているのであるが、神の内部に元形態があるのである。「被造物の形を肉体が包むそのまえ」という点について言うと、「肉体がつつむ」とは現象化である。だから、現象化あるいは物質化以前に、元形態があるということで、PS理論的には、元形態空間は、メディア・ポイントではないかと思われるのである。

しかしながら、問題は、メディア・ポイントから実数軸上への展開である現象化の構造である。

先に、+1ないし⇒+1がメディア界ではないか、また、-1ないし⇒-1が現象界ではないかと示唆した。

これらをどう整理するのかである。

端的に言えば、元形態空間は、メディア・ポイントなのか、+1なのか、それとも、メディア・ポイントから+1の過程、等にあるのかである。

思うに、実数軸は、これまで、現象界と考えたのだから、+1が元形態空間とするのは、明らかに、不合理である。

少し議論が外れるが、メディア・ポイントと+1について考察すると、不連続的差異論におけるメディア界に相当するのがメディア・ポイントであると言えよう。だから、先に、+1をメディア界と考えようとしたのは、誤りである。ただし、+1は、メディア・ポイントとの関係が、-1よりも強いと思われる。というか、メディア・ポイントは、エネルギー変換点である。ここで、イデア・エネルギー(元エネルギー)が、同一性エネルギーへと変換されるのである。ここに分極化があり、+1の同一性エネルギー(差異的同一性エネルギー)と-1の同一性エネルギー(連続的同一性エネルギー)へと分化(分相化)すると考えられるのである。

差異即非様相から同一性様相への変換点がメディア・ポイント(メディア界)であり、ここにおいて、既に、元形態が生成していると言えよう。

というか、実際は、精妙である。すなわち、メディア・ポイントの二相性に注意しないといけない。虚数軸上のメディア・ポイントと実数軸上のメディア・ポイントを理論的に区別する必要があると考えられる。

前者を、とりあえず、虚メディア・ポイント(虚MP)、後者を実メディア・ポイント(実MP)と呼び、区別したい(MP・0iとMP・0?)。

思うに、虚MPと実MPとの重なりの様相に重要な問題があると言えよう。また、それらと±1の関連の問題がある。

とまれ、虚MPは、イデア界にあり、思うに、これが、元形態空間ではないのか。ここに超越的形相(いわば、エイドスeidos)があるのではないのか。そう考えると、本件の問題が解明されることになるだろう。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの言葉にある「被造物の形」は、虚MPに存しているということになるだろうし、「神のみ胸」とは、イデア界で、虚数軸空間のことであると言えよう。確かに、虚数軸上に虚MPは存するのである。

すると、虚MPから実MPへの変換が《天地創造》ということになるだろう。「光あれ」である。(因みに、ハイドンのオラトリオ『天地創造』を聴いていたのである。偶然の一致であるが、思うに、天地創造のことが無意識にあったので、この曲を選択したのかもしれない。)

では、虚MPから実MPへの変換とは何か。それは、既述済であるが、同一性化である。現象化である。おそらく、単純に物質化とは言えないと思う。なぜなら、+1が精神ないし自己であり、-1が物質ないし自我であると考えられるからである。つまり、同一性化とは、+1の精神・自己化と-1の物質・自我化の両面・両義性があると考えられるのである。

いろいろ細かな問題があるが、それは置いて、ここでは、同一性化の力学構造を考えたい。虚MPから実MPへの変換力学構造を考えたいのである。

思うに、虚MPにおいて、元形態があるならば、それは、ここには、元1の形態があるということではないのか。つまり、元±1の形態ないし元形態があるということではないだろうか。

そうならば、元±1としての虚MPであろう。では、実MPとの関係はどうなのかである。思うに、実MPは、種子、卵、遺伝子等であろう。だから、元±1としての虚MPと見ていいだろう。(メルロ・ポンティは、身体的現象学において、虚MPと実MPを混合していると思うのである。)

問題は、やはり、虚MP(iMP)と実MP(rMP)との変換構造である。

この変換力学とは何か。

やはり、回転ではないだろうか。ベクトルiとベクトル-iとの1/4回転が発生して、±1が生起するのではないだろうか。

つまり、iMP⇒rMPの⇒とは1/4回転を意味するということになる。

つまり、イデア界的内在的エネルギーによって、iMP⇒rMPの変換が生起するということになる。この点は再考したい。

とまれ、以上から、元形態は、iMPにあることになった。ここが、イデア的形相(エイドス)の空間ということになった。(今、地震がある。14:06pm)

ついでに、プラトンのいうコーラのことを考えると、それは、いわば、形態発生空間であるから、端的に言えば、MPのことであり、より精緻に言えば、iMP⇒rMPのことであると言えよう。

さらに言えば、プラトンのいうイデアとは、以前述べたように、少なくとも二種類あるのである。それは、差異共振シナジーとしてのイデアである。それは、 i*(-i)としてのイデアである。もう一つは、ここで述べた元形態としてのイデア(エイドス)である。すなわち、iMPとしてのイデアである。

さらに展開して、アリストテレスの形相についていうと、それは、iMPを否定して、rMPだけを取りだしたものであろう。rMPは確かに、個物・個体内的元形態と考えられるのである。

PS理論は、フッサール現象学の意味において、超越論的理論であるから、内在的超越性としての「イデア」を現象における分有として見ている。それは、私の言葉では、特異性である。九鬼哲学の言葉では、偶然性である。ドゥンス・スコトゥスでは、存在の一義性である。スコラ哲学のhaecceityである。ライプニッツのモナドである。

内在的超越性において、内在性とはrMPであり、超越性がiMPであると言えよう。因みに、ポスト・モダンないしポスト構造主義の誤りは、両者を混同したことになる。典型がドゥルーズであり、フッサールの超越性を否定して、内在性に限定してしまったのである。また、デリダについて言うと、彼の誤りは、ドゥルーズの正反対で、超越性のみを肯定して内在性をロゴス中心主義として否定したことにあろうだろう。言い換えると、デリダ(初期デリダ)は、同一性をロゴス中心主義として否定して、超越性のみを肯定して、それを示唆・暗示するしかないという袋小路に陥ったのである。
 
即ち、デリダは、同一性には、連続的同一性と差異的同一性の二つがあることを知らずに、すべて同一性を否定したために、いわば、不可知論に陥ったのである。それで、あのようなエッセイ的な論述となったと言えよう。

ドゥルーズは、差異を内在性に見て、デリダは差異を超越性に見たのである。両者、正反対で、また、一面的であった。両者とも、フッサールを把捉できなかったと言えよう。やはり、繰り返すが、ハイデガーによるフッサール現象学破壊が要因だと思うのである。ハイデガーの理論は、超越性を否定した内在性の理論なのであるからである。

以上の解明を簡単にまとめると、PS理論において、メディア・ポイントMP空間に虚MP(iMP)から実MP(rMP)への変換力学構造を見て、元形態が虚MPにあり、それが、実MPへと変換されて、現象化が生起すると考えたのである。実MPは、具体的には、種子、卵、遺伝子等々である。言い換えると、プラトンのイデアがより明確化されたのである。差異共振シナジーとしてのイデアと元形態(エイドス)としてのイデアを分明できたのである。

ついでながら、PS理論は、西洋哲学における二元論的分裂、プラトン的観念論とアリストテレス的実在論を形態論的に統一したと言えよう。既に、この統一は、一般理論的には為されていたのではあるが。

最後に、敷延して言うと、素粒子や量子であるが、それは、ここでの形態論が適用できると思われるのである。即ち、元素粒子ないし元量子は、虚MP にあり、それが、観測においては、実MPに空間化されると思うのである。真空というは、実MPであろう。量子力学は、虚MPを見ていないと考えられるのである。唯物論なので、イデア界の虚MP空間に進展できないのである。それで、非局所性の問題等があると思うのである。有り体に言えば、元素粒子、元量子とは、虚MPにおける差異共振シナジー=イデアなのである。差異即非共振シナジー=イデアなのである。虚MPにおける元粒子・即非・元波動のイデアが元素粒子・元量子と考えられるのである。

これが、実MPにおいては、粒子と波動との相補性として理解されていると思うのである。つまり、物質論的に、「素粒子」と「量子」は、一方では、粒子であり、他方では、波動であるということである。

しかしながら、「素粒子」や「量子」の実体は、虚MPの差異即非イデアである。無時間的イデア界にある「素粒子」や「量子」、即ち、元素粒子、元量子を素粒子論や量子論は唯物論に囚われているので、認識理解できないと考えられるのである。

わかりやすく言うと、素粒子や量子は、虚MP⇒実MPの変換力学構造における、イデアの影像であると考えられる。
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自己と他者の問題:連続的同一性は自己から他者への志向性のみか、それとも、双方向志向性なのか
問題提起:自己と他者の問題:連続的同一性(連一性)は、自己から他者への志向のみなのか、それとも、双方向性があるのか。

どうも、この問題は、まだ、解決されていないと言うべきである。これまでの経緯を言うと、初めの考えは、i*(-i)⇒+1の自己認識方程式において、i を自己、-iを他者として、i→(-i)=i*-(-i)⇒-1とし、また、i←(-i)=-i*(-i)⇒-1として、自己の連続的同一性と他者の連続的同一性を認めたものであった。

 しかし、最近は、自己の連続的同一性のみを認めて、他者の連続的同一性を否定したのである。

 ここで、サルトルの他者は地獄であるという比喩的表現を考えてみよう。このときの他者は、自己に連続的同一性を強いているように見える。つまり、なにか暴力的に、自己を否定して、他者の権力を押しつけようとしているというようなことになるだろう。そのように見ると、確かに、他者の連続的同一性があるように考えられるかもしれない。

 しかしながら、よく考えてみると、サルトルの場合の他者とは外的他者であり、これは、実際は、自己内において否定された内的他者の外部への投影であると見るべきであると考える。即ち、i*-(-i)⇒-1という自己連続的同一性事象が発生し、そこに生じた自我(連続的同一性自己)によって、対象たる外的他者を観察していると考えられるのである。当然、これは、否定的観察眼である。外的他者に投影した連続的同一性自己を観察することになるのだと思う。つまり、他者とは地獄とであるという比喩的意識は、自己連続的同一性の自我意識の倒錯であると言えるだろう。自我意識がそもそも倒錯的であるのだから、これは、二重の倒錯となるだろう。
 
 ということで、外的他者の連続的同一性とは、自己内における内的他者を否定した連続的同一性認識の投影であることが確認できたであろう。

 では、問題は、内的他者の連続的同一性があるのかどうかである。内的他者とは、有り体に言えば、身体である。それも、内的身体である。すなわち、内的他者=内的身体である。だから、その連続的同一性があるのか否かである。
 
 直観で考えよう。内的他者=内的身体(以下、内的他者・身体)は、確かに、ある種の同一性志向をもつだろう。たとえば、木を見ているとしよう。それに対して、内的他者・身体は、木と一体化するのではないだろうか。「わたし」は、木である、と意識するのではないだろうか。あるいは、鳥を見て、「わたし」は鳥であると、意識するのではないだろうか。

 この内的他者・身体の同一性と自己の連続的同一性は異なるだろう。後者は、あくまで、他者を否定して、自己同一性化するのであるから。それに対して、前者は、いわば、自己を否定するようにして、他者と同一性化するのであるから。そうすると、やはり、内的他者・身体の連続的同一性があることになるだろう。

 そうすると、最初の考えに戻ることになる。一応、そういうこととしよう。

 問題は、そうしたとき、結果は、⇒-1となるが、様相・様態が異なっていることである。自己の連続的同一性は、自我を形成するが、内的他者・身体の連続的同一性は、言わば、他我を形成するのではないだろうか。i→(-i)が自我形式であり、i←(-i)が他我形式と言えるのではないだろうか。

 さらに内的他者・身体の連続的同一性の様態について考察してみよう。直観では、ここには、いわゆる、コスモス的一体性が喚起されるのである。神秘主義的意識である。これをどう考えるのかである。先に、身体的霊性ということを言ったが、それに通ずるものがここにはあるだろう。

 自己の連一性と内的他者・身体の連一性は、結果は、-1で等価であるが、どうも様態が決定的に異なっていると思えるのである。やはり、iと-iとは非対称なのではないのか。自己内において、自己と他者があるが、当然、論理的に、他者とは自己ではないものである。だから、自己のもつ連一性と他者の連一性とは異なるはずである。

 いったい、他者の連続的同一性とは何だろうか。これは、正に、他者自体になることではないのか。これは、これで、倒錯である。自己否定であるからである。自己喪失であるからである。しかし、この自己喪失には、自己連続的同一性にはない何かがあると思う。一種、カオスモス的意識があるように思えるのである。即ち、超越性に触れているような様態があるように思えるのである。そう、いわば、宗教的感情に近いものがあると思うのである。これをどう見るのか。

 そう、内的他者・身体とは何か、ということになるだろう。自己・心的主体性とは知的認識主体性である。それは、言語を形成して、感覚的知覚認識を行うのである。それに対して、内的他者・身体は、そのような知的認識性をもたない。直観では、ここには、ゼロ・ポイント、原点、如来蔵があるように思えるのである。

 これが、自己と他者との違いではないだろうか。自己には、言語的合理主義があるが、他者には、原点的即非認識の可能性があるのではないだろうか。

 これは、身体、とりわけ、内的身体とは何か、という問題になるだろう。直観では、内的身体とはイデア界を内在しているのである。つまり、内在的超越性の空間、「場所」である。あるいは、原点である。原点としての内的身体である。そして、ここから、自己の連続的同一性が発生するのである。つまり、身体こそ、根元・基盤であり、ここから、自己の連一性が発生するのである、と思われるのである。

 ゼロ・ポイント(0, 0)としての身体である。即ち、i*(-i)の現象的顕現の空間としての身体である。そうすると、心であるiは、身体の内包されていることになるだろう。つまり、身体内部において、心iが存在するのであり、これが、内的他者-iともともと関係しているのである。そのように見ると、-i=i*(-i)となってしまう。この齟齬を解決しないといけない。

 思うに、自己iが連続的同一性・自我化すると、内的他者-iが否定され、即ち、自己iと内的他者-iが分離する。主客二元論の開始である。しかしながら、本来、自己iと内的他者-iを即非的一如、即非的一体である。

 問題は、連続的同一性の意味である。内的身体から自己的連続的同一性が立ち上がるのである。このとき、自己iは、内的他者-iを分離するのである。そして、主客二元論の基礎を形成するのである。

 ということは、連続的同一性の志向とは、自己に限定されているものであり、内的他者には、本来、そのような作用はないのではないだろうか、と思えるのである。

 つまり、内的他者-iにおいては、連続的同一性は積極・能動的には不在であり、ただ、自己の連続的同一性の投影として、内的他者の連続的同一性が形成されると思えるのである。

 そう考えると、二転三転することになり、他者の連一性志向性は否定されることになるのであるし、また、他者と身体との考え方を変更する必要があるのである。

 そう、内的他者・身体とは、本来、原点の即非性(如来蔵)を内包しているのである。それは、いわば、前意識・無意識である。この「闇」=原光から、自己の連続的同一性の「光」が発生するのである。この「光」は、-1である。i*-(-i)⇒-1なのである。

 そして、-iは、もともと、i*(-i)における-iであり、即非様相なのである。以上で私が他者の一如性・コスモス性と言ったは、この即非様相の反映であると言えるだろう。だから、他者自体による連一性は存在しないことになる。自己の連一性の投影としての他者の連一性の幻像・妄像は生起するだろうが。

 以上のように考えると、父権神話やニーチェ/ロレンス哲学・思想の意味が明快になるだろう。

 即ち、父権神話では、本来、女神である母神が、怪物(例えば、フンババ)として表象されて、英雄神がそれを征伐して、それを二分化して、天地創造を行うが、女神・母神に相当するのが、身体・内的身体である。そして、それを二分化(二元論化)する英雄神(男性神)が、自己の連続的同一性=自我である。これが、主客二元論を発生されるのである。身体が邪悪視されて、二元論的知識が肯定されるのである。

 また、ニーチェ/ロレンスであるが、彼らは、身体・大地を肯定したが、これは、正に、女神・母神の身体、即非身体の肯定と言えよう。彼らは、現代の新母権制を提示しているのでもある。また、永遠回帰やコスモスは、当然、超越界=超越的差異共振界=イデア界を指していると考えられるのである。

 以上のように考えると、東洋的身体論はまったく正鵠を射ているだろう。身体とは内在的超越性の空間なのである。

 さて、では、やや飛躍するが、カントの純粋理性は、どういう位置にあるのだろうか。

 超越論的形式は、自己の連続的同一性構造と考えていいだろう。(時空間が主観的形式であるという点は後で考察。)では、純粋理性はどうだろうか。

 思うに、カントの悟性は、連続的同一性の形式であり、純粋理性は、実は、身体・内的身体の様相を知性化したもののように思えるのである。身体の様相は、即非様相であるから、当然、同一性の論理では、矛盾が発生せざるを得ないのである。それが、アンチノミーの意味ではないのか。カントの純粋理性は、本来、身体の内在的超越性、超越的即非性を対象化していたのであるが、同一性の論理に囚われていたのである。それを差異即非の論理として展開できなかったと言えるだろう。
 
 換言すると、カントの純粋理性批判は、身体の即非論理に対する同一性論理を基準とする規定と言えるだろう。後に、ウスペンスキーが『ターシャム・オルガヌム』で、即非論理とほぼ等しい第3の論理学を提起して、カント哲学の乗り越えを行ったのである。

 このように考えると、鈴木大拙の般若即非の論理学の意味が明瞭になるだろう。これは、至高の大乗仏教の内在超越的差異共振シナジーの論理表現なのである。そして、PS理論は、これを現代化・総合化したものである。以前、不連続的差異論を最勝超至高と呼んだが、超最勝超至高のPS理論と呼ばなくてはならないだろう。
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「暗殺リスト」:末世と神のヴィジョン・エネルギーの交替
フィクションで、私の「暗殺リスト」があるが、その中には、たくさんの人間が入ることになる。否、人間だけでなく、神も入る。この世、この人間界を造った神は暗殺するに値するだろう。狂気のリア王が、恩知らずの娘を生んだ自然の鋳型を破壊してしまえ、絶叫するが、その破壊的衝動は、理解できるものである。愚劣な人間を造った神は破壊するに値するだろう。
 とまれ、この思想は、まったく新しくなく、グノーシス主義である。それは、この世を邪悪な神が造ったと考えたのである。グノーシス主義が発生するときは、当然ながら、末世、「カリ・ユガ」である。思えば、聖書にも、創世記にも、邪悪な人間を滅ぼすために、大洪水を起こしたという有名なノアの箱船の話がある。人間が駄目になるのは、神の原因というよりは、原点にあった内的ヴィジョンが衰えるためであろう。内的ヴィジョンとは、エネルギーをもつヴィジョンであるから、創造的である。だから、内的創造エネルゲイア・ヴィジョンである。しかし、このエネルギーは、単に物質エネルギーではなくて、イデア的エネルギーである。造語して、イデルゲイア、イデルジー等を考えよう。もっとも、メディア的エネルギーだから、メデルゲイア、メデルジーでもいい。
 とまれ、この根源的ヴィジョネルギー(ヴィジョン+エネルギー)の喪失が、末世、「カリ・ユガ」を生むと言えるだろう。つまり、これは、神のエネルギーの新陳代謝の問題のように思える。最初は、神のエネルギーは新鮮であり、人間は、その神的ヴィジョンに基づいて、社会・文化等を構築したと考えられる。しかし、この神のエネルギーが衰えるにつれて、社会は堕落し、腐敗するのである。思うに、その末世において、新たな神のエネルギーが発すると言えるだろう。おそらく、ここには、力学があるのである。神のエネルギー力学があるのである。神のダイナミクスである。今日、世界、日本を見ると、これまで、文明を形成した根源的ヴィジョンが衰退・老衰して、カオスとなっている。新しいヴィジョン、新しい神的ヴィジョンが必要なのである。
 もっとも、力学であるから、科学的に説明できなくてはならない。神的科学、神のサイエンスである。これに関しては、これまで、論じてきたが、簡単に言えば、西洋文明の神のヴィジョンが衰退したということだろう。つまり、キリスト教の神のヴィジョンがもう、衰退したということである。というか、とっくに衰退したのである。キリスト教の理性と古代ギリシアの理性が結合して、近代理性が生まれた。しかし、近代理性は、近代合理主義となり、いったんは、薔薇色の未来を約束したが、今日、不信の状態となっているのである。
 理論的には、プラトニック・シナジー理論が明らかにしたように、東西文明は、統一されるのである。西洋は、内在的に否定された東洋を求めてきたし、東洋は、近代西洋文明への不信から、東西超克を希求してきて、東西が一致したのである。
 西洋文明の原理である二項対立・優劣二元論は、連続的同一性の原理であり、それは、差異を徹底的に排除するものである。この差異否定のヴィジョンが西洋文明の原動力であったと言えよう。それは、一神教のヴィジョンである。唯一の神以外の神(差異、他者)は認められないという発想である。この一神教ヴィジョンが、今日、行き詰まり、衰退したのである。
 この連続的同一性の原理であるが、それは、思うに、不連続的差異論で言うメディア界の必然性によって発生すると、今、私は考えているのである。即ち、メディア界は、本来、差異共振シナジー様態であるが、それが、内界から外界へと志向すると考えられるのである。喩えて言えば、種子の中の胚芽が、外部へと展開・発展する様態を考えるといいだろう。英語で言えば、inからoutへの転化である。メディア界が内部であるとすれば、それが、外部化するのが、連続的同一性化である。そして、これは、そのまま、現象化であると考えられるのである。つまり、今の時点では、連続的同一性化=現象化である。しかしながら、要注意なのは、この内部から外部という現象化事象は、単に同一次元で生起するのではないということである。この点が、おそらく、最高最大に注意すべきポイントである。つまり、内部から外部への転化とは、次元変換でもあるということである。プラトニック・シナジー理論は、これが、虚軸から実軸への転換であると明らかにしたのである。虚数から実数への変換なのである。虚次元から実次元への変換なのである。これを、私は、内在超越性という視点で述べているのである。一番、分かり易いのは、ガウス平面で、実軸と虚軸の直交座標を考えることである。だから、精緻に言うならば、内部は、超越的内部、超越的内界ということになるだろう。
 だから、連続的同一性化とは、超越的内界から時空間的外界への転化ということになるだろう。この時のエネルギーが、つまり、連続的同一性のエネルギーが、現象界の物質エネルギーではないだろうか。先の考察から言えば、否定的志向性である。⇒(-)である。これは、差異・他者を否定するエネルギーである。そして、心身二元論が生起するのである。心と身体の二元論である。そして、一神教、ユダヤ/キリスト教(イスラム教の一部)は、この現象化の終局と言えるだろう。
 ところで、遺伝子とは、この連続的同一性の多種多様な原型のことではないだろうか。これは、巨視的に見れば、生物に限らないだろう。鉱物の原型があるのであり、それも鉱物の遺伝子と言えると思うのである。結局、形相の問題である。形質も形相に入るだろう。つまり、超越的内界に、「遺伝子」・原型・形相があるのであり、それが、否定エネルギーの対発生によって、現象様態化するのではないだろうか。つまり、超越的内界における対・連続的同一性エネルギーの発生が現象化を施行するということである。そして、帰結的に一神教が生まれるのである。【では、多神教・自然宗教の発生は、どういうことなのか考える必要があるだろう。多神教は、一神教の発生させる基盤であるように思えるのである。イシス・オシリス神話(神話もかつては、宗教であったと考えられる)から、太陽崇拝が生まれて、ファラオー崇拝が発生したと考えられるのであるし、また、古代オリエントの神話にも、同様なことが確認できるだろう。】
 では、先にも考察したが、脱現象化、差異への回帰、トランス・モダンの力学の発生原因は、どこにあるのかということになるだろう。
 ここでは、連続的同一性・対エネルギーの発生領域である超越的内界空間次元を考えればいいだろう。ここは、零度共振領域である。ここには、零度のエネルギーがあると考えられるのである。この零度のエネルギーが、対の連続的同一性エネルギーへと転化するのであり、これが、言わば、エネルゲイアと言えるだろう。零度のエネルギーとは、デュナミス(可能態)と言えるのではないだろうか。
 さて、発生した連続的同一性の対エネルギーであるが、当然、それは、消耗して、消滅するだろう。そう、現象界に見られる、生成消滅(生死・死生)は、このエネルギーの生成消滅によると言えるのではないだろうか。すると、理論的には、当然、再び、零度に回帰するだろう。このゼロ度回帰が、差異共振シナジー様相の形成を意味するのではないのか。
 思うに、連続的同一性エネルギーが作用とすると、それに対する反作用があるだろう。それが、差異エネルギーではないだろうか。これは、単純な力学ではないだろうか。連続的同一性エネルギーが消費される。すると、否定・排除・隠蔽・抑圧されていて差異のエネルギーが発動するということではないのか。数式で考えよう。
 i*(-i)が超越的内界の差異共振シナジー様相である。そして、i→(-)(-i)⇒−1となる。これが、連続的同一性の現象化である。ここで、*を零度ないし零度差異共振様相と考えると、*が→(-)となるのが、連続的同一性のエネルギーないし否定志向性である。それに対して、当然、反作用的に、→ (+)の動態が発生すると考えられるのではないだろうか。この→(+)は、肯定的志向性、即ち、差異エネルギーであり、結果として、差異共振シナジー事象を形成するのではないか。
 では、もしそうならば、どうして、最初に、→(-)の否定的志向性が発生し、次に、→(+)の肯定志向性が発生するのだろうかという疑問に対する解明が必要である。思うに、これは、内界から外界への転換力学の必然ではないだろうか。内界の様相を否定して、外界が発生するのではないだろうか。i*(-i) という内界の様相に対して、→(-)という否定的志向性が発生して、他者・差異を否定して、連続的同一性の外界・現象・物質が発生するということではないだろうか。内界を否定しなければ、外界である現象は発現しないと考えられるのである。
 では、さらに、どうして、外界・現象化する必要があるのか、ということになる。永遠・無限の世界からどうして、有限の世界に移行する必要があるのかである。というか、有限化の力学の問題である。
 ここで、フッサールの志向性の理論を敷延的に援用して考察しよう。主体から他者への志向性とは、実際は、主体の連続的同一性の投影であるということである。(これが、フッサール現象学の一つの側面である。)結局、志向性においては、他者・差異は、他者・差異自体としては、認識されずに、主体の連続的同一性のおいて認識されるということである(参照・カントの超越論的形式と物自体)。そして、これが、現象化である。そして、自我(無明)の発生である。自然は、思うに、人間を愚者fool(タロット・カードで、ゼロがフールなのは、意味深長である)として創造したことになるのである。知的盲目として人間を創造したのである。(おそらく、これは、他の生物にも言えそうである。ただし、言語を使用している分、人間の方が、さらに愚者・痴愚者である。ホモ・サピエンスという言葉は、恥ずかしいほどの傲りの命名であろう。)
 とまれ、自然的志向性は、連続的同一性の志向性であり、他者・差異は否定されるのである。そう、ここで、有名なプラトンの洞窟の喩えを想起してもいいだろう。洞窟のスクリーンに投影される影像は、連続的同一性としての現象と考えられる。これは、光や視覚の問題でもあろう。とまれ、自然的志向性は、連続的同一性志向性である。だから、初めから、倒錯していることになるだろう。つまり、他者・差異の外界的認識は、倒錯しているのである。自然の、一種、悪意、意地悪さではないだろうか。自然状態(フッサールの自然的態度)では、自然の真相は認識できないのである。それは、いいとしよう。
 では、ここで、先の問題の差異エネルギーの発生について考察しよう。自然的志向性は、結局、連続的同一性エネルギーであり、差異を否定した。しかし、力学的には、差異が反発して、差異のエネルギーが発動するはずである。しかし、問題は、差異は、連続的同一性のエネルギーを帯びるのではないかということである。先には、ソのように考えたが、ここでは、発想を変えて、思考実験したい。
 思うに、超越的内界において、主体と他者が零度共振しているのである。つまり、主体のエネルギーと他者のエネルギーとの均衡が取れて、零度になっているのではないだろうか。しかるに、主体のエネルギーが発動して、現象化が起こる。しかし、そのときは、他者のエネルギーが隠蔽されることになるだろう。しかしながら、主体のエネルギーが消費されれば、当然、隠蔽された他者のエネルギーが発動されるだろう。これが、差異エネルギーではないのか。すると、主体の連続的同一性エネルギーが、連続的同一性構造の形成に機能したとすれば、他者の差異エネルギーは、脱構造エネルギーではないだろうか。主体は、他者の差異エネルギーを受容することで、新たに、差異共振シナジー様相を構築するのではないだろうか。そして、これが、脱近代、トランス・モダンの事象を意味するのではないのか。そう、仏教が初めの脱近代、トランス・モダン理論であろう。そして、ほぼ同時代のプラトン哲学もそうであろう。悟りとは、この差異エネルギーの肯定である。つまり、不連続な差異エネルギーの肯定である。釈迦牟尼やプラトンは、内界に視線を遣ることで、瞑想することで、あるいは、秘儀参入すること(参照:エレウシスの秘儀)で、これを成就したのだろう。
 そうならば、自然は、親切ということになるだろう。最初は、自然は、意地悪であるが、その後は、親切になると言えよう。ただし、自然の事象を正に、自然(じねん)に受け取る必要があるのである。つまり、肯定的に受容する必要があるのである。後にこれを理論化したのは、スピノザであろう。能動的観念とは、この自然の肯定のことであろう。
 では、差異エネルギーとは何なのであろうか。あるいは、どうして、即非性や共感性が発生するのだろうか。思うに、差異エネルギーとは、逆志向性なのではないのか。それで、原点にもどるのではないだろうか。最初、主体は、他者を志向したが、それは、連続的同一性であった。その後、他者のエネルギー、差異エネルギーが発動する。そのとき、他者から主体への志向性がある。これは、主体への回帰である。主体への回帰とは、差異共振シナジー界への回帰ではないか。零度への回帰ではないのか。そう、考えてみれば、差異エネルギー、逆志向性とは、主体にとっては、差異の受容である。連続的同一性を+のエネルギーとすれば、差異は−のエネルギーである。そして、プラスマイナス=零度を帰結するのではないのか。−のエネルギーは、力であり、差異共振シナジーへと主体を駆動させるのはないだろうか。
 いちおう、以上の思考実験を作業仮説して結論すると、自然は、志向性を確かにもつのであるが、それは、初めは、主体から他者への志向性であり、次に、他者から主体への志向性へと交替する力学があるということになる。簡単に言えば、連続化のエネルギーが最初にあり、次に、相補的に、脱連続化のエネルギーが発生して、零度に回帰するということである。
 では、この順番は何を意味するのか。この順番の力学は何か、となる。これは、自然志向性力学としか言い様がないのではないだろうか。連続から脱連続へという自然力学である。しかし、何故、連続化するのか、ということに答えていないだろう。否、答えている。それは、志向性とは、最初が、連続的志向性であるということである。主体から他者への志向性とは、連続的志向性であるということである。
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二項対立・優劣性の発生原因について:否定原因の飢えと差異共振様相の回帰としてのトランス・モダン
二項対立・優劣性の発生原因について:否定原因の飢えと差異共振様相の回帰としてのトランス・モダン

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

先に、陽主体iによる連続的同一性の優越意識認識は、基盤として、陰他者-iにおける劣等意識があるというようなことを簡単に触れたが、この点について、詳論したい。
 問題は、受動的感覚のことである。また、感覚と感情と意識と認識と知性のことである。ここでは、受動的感覚を考えたい。先ず、心身を根源に置く必要がある。さらに言えば、心身より先に、差異を原根源に考える必要があるだろう。差異とは、この場合、即非関係にある差異である。即非差異ないし対極差異と呼んでおこう。つまり、i*(-i)が原根源にあるということである。自己やその倒錯である自我の起源はこれであると考えられる。
 では、この原自己ないし元自己(元己、元個、原己、原個)の進展のことを考えると、現象界において、この原自己が剥き出しで置かれると考えられる。誕生以前は、子宮内で、差異共振様相であったと考えられる。胎児と母体との差異共振様相である。両者、個でありつつ、同時に共振しているのである。両者の即非・対極関係があるということである。
 しかし、出生後は、新生児は、子宮内とは全く異なる環境に置かれる。子宮内を、メディア環境と呼べるならば、出生後の環境は、当然、現象環境である。この現象環境において、新生児は、メディア環境においてと同様に、最初振舞うだろう。つまり、有り体に言えば、新生児の感覚意識する現象界とは、メディア環境的現象界、あるいは、差異共振的現象界となるのである。そして、これが、「コスモス」である。メディア環境における「コスモス」と現象界における「コスモス」があるのである。前者を即自態とすれば、後者は対自態である。(思うに、空海の両界曼荼羅であるが、金剛界曼荼羅が前者で、胎蔵界曼荼羅とは後者ではないのか。後で、検討。)
 しかしながら、当然、現象界は、メディア環境ではありえないのであり、新生児は、ここで、苦を感じることになるのである。スピノザ的に言えば、悲しみを覚えるのである。これは、イデア力学(イデア科学)的にはどういうことなのであろうか。それは、簡単に考えれば、差異共振性の不成立であり、そのために、原初・無垢の歓喜が、経験の悲しみとなるのであるが、この差異共振性の不成立とは、差異共振性の否定態と言えるのではないだろうか。差異共振性が、肯定態とするならば、その不成立とは、否定態と言えるだろう。差異共振性i*(-i)⇒+1で、この+を肯定態とするならば、不成立は、−1の様態であると言えるだろう。つまり、-{i*(-i)}⇒−1と考えられるのではないだろうか。これは、当然、-(i)*(-i) か、又は、i*-(-i) のことと展開できるだろう。前者が、宗教ないし信仰的様態であり、後者が、自我様態であろう。(思うに、史的に見ると、中世までは、前者の様態が続き、近代は、それが、いわば、反転して、後者の様態になったと言えるのではないだろうか。)
 とまれ、この二つの否定的様態が、進展した現象的様態となるのだろう。つまり、出生後の原初においては、子宮内におけるメディア環境を継続した様態であるが、その後の「経験」によって、新生児は、否定的様態を獲得すると言えるだろう。問題は、この否定的様態への対処法である。このことに関して、確認しておくべき事象は、言語獲得の意義である。ここでは、二通りの言語獲得があると考えられるのである。一つは、差異共振的歓喜ないし共感的言語形成である。「わたし」と他者Aとは、一体である。しかし、同時に、「わたし」は「わたし」であり、他者Aとは異なるのである。正に、即非様態の言語形成があると考えられるのである。他者Aは、「花」となるのである。他方、否定的様態における言語形成があるだろう。「わたし」の差異共振性を否定する対象に対する言語形成である。ここで、自然を考えよう。自然は、「わたし」の食べ物をもたらしてくれる。しかし、あるときは、自然は、無慈悲であり、食べ物を「わたし」に与えない。この場合、自然は、「わたし」にとり、快・不快の対象である。しかしながら、問題は、単純ではない。新生児にとり、自然は、本来、メディア環境である。「わたし」は自然と差異共振様相にあると言えよう。「わたし」と自然との即非・対極様相である。だから、食べ物に取得に関する快・不快の「弁証法」が、「わたし」を絶対的に支配することはないのである。
 とまれ、問題は、言語形成ないし名付けの意義である。他者Xを「何か」Nと呼ぶとき、差異共振環境ならば、他者Xは、主体iにとて、差異共振的他者であり、他者の名前(言語)Nは、差異共振様相を指していることになるだろう。つまり、i*(-i)における-iとしての他者であり、他者の名前Nである。これは、差異共振言語と呼んでいいだろう。つまり、i*(-i)⇒+1の名・言である。+1を確定する言語である。おそらく、この言語がなければ、差異共振様態のままであり、認識には進まないだろう。そう、差異共振様態は、いわば、直観様相なのであり、それだけでは、知的認識にはならないと考えられる。差異共振性に言語を与えることで、+1の認識となると考えられるのである。だから、⇒は、言語構築性を意味していると言えるだろう。だから、+1とは、差異言語であると言えるだろう。
これに対して、否定様態の言語があるだろう。−1の言語である。これは、連続的同一性言語(簡単に、同一性言語)と呼べよう。
 問題は、この同一性言語の力学である。二項対立言語の力学である。ライオンと鹿がいるとしよう。「わたし」にとり、ライオンは「強い」、鹿は「弱い」のである。後者を取って、食べ物にできるのである。狩りを行ない、鹿を仕留めて、「わたし」は勝利することができるのである。ここに強弱ないし優劣の観念の萌芽があるだろう。「わたし」はライオンに対しては弱いが、鹿に対しては強いのである。ラインに対しては、劣等であるが、鹿に対しては、優越するのである。ここにある意識様態の力学は何だろうか。もし、差異共振認識があれば、ライオンと鹿は、自然の両極であり、両者必要なものであり、強弱・優劣の差別は生じないだろう。鹿には、鹿の存在意義があるのである。あえて言えば、「弱い」、「劣等」には、それの積極的意義があるのである。
 では、強弱・優劣の二項対立的価値観はどこから生まれるのだろうか。当然、差異共振的価値観の喪失後である。ライオンと鹿の両面に積極的意義を認める差異共振・共立的価値観の喪失後である。このためには、絶対的二元的区別の世界観が必要だろう。「わたし」と他者とが、絶対的に分離しているという世界観である。
 とまれ、ここで、以前のアポリアにもどると言えよう。結局、差異共振様相を否定する事態とは何なのか、ということになるだろう。ここで、直観で考えよう。それは、差異共振様相を否定する事態とは、孤独である。あるいは、孤立無援の状態である。絶対的孤独である。これは、わかりやすい例をあげれば、飢え、飢渇であろう。自然は、「わたし」に食べ物を与えてくれない。植物は枯れ、雨は降らない。祈っても、食べ物が得られないのである。いわば、差異共振の神に見放された様態である。自然の神に見捨てられた様態である。「わたし」は「わたし」であり、絶対的な「わたし」である。思うに、ここにおいて、一神教が発生があるだろう。絶対的な「わたし」である神である。絶対的な「わたし」を保証する神である。それは、当然、自然を超越した神である。超越神である。否定様態だるから、「わたし」は悲しみの様態にある。つまり、ルサンチマンである。(ニーチェのキリスト教批判が正しいだろう。しかし、ニーチェ自身、旧約聖書を肯定しているので、分裂しているだろう。晩年の「力の意志」の思想は、分裂しているだろう。)ここには、反差異・連続的同一性となった自己即ち、自我があると言えるだろう。ルサンチマンの連続的同一性の主体があるのである。−1である。(ヤハウェとは、この否定様態の名前であろう。ラカンの父の名は、これではないのか。)ここにおいて、他者は否定されるしかないのである。「わたし」は絶対であり、他者は否定されるべきである。「わたし」は自然を超越した存在であり、他者に優越しているのである。これが、優越性の発生の原因であると考えられよう。つまり、絶対的超越性である。そして、これは、差異共振様相の否定態であり、実は、差異共振性を反転的に指示しているのである。つまり、メディア空間を指しているのである。
 思うに、差異共振的現象性は、メディア空間と現象空間が未分化である。つまり、連続化しやすいと言えるだろう。メディア即現象空間だろう。つまり、内在空間である。連続的な差異の共存がここにはあるのである。(ベルクソン/ハイデガー/ドゥルーズ、等)
 しかし、絶対的孤独の絶対的自我によって、すべては、超越的同一性化されるのである。差異共振様相の否定としての超越的絶対的同一性である。−1である。ヤハウェである。ルサンチマンである。専制である。父権制である。
 結局、絶対的孤独による絶対・超越的主体が、優劣的二元論、二項対立の発生であったと考えられるのである。
 しかしながら、これは、差異共振様相の否定態であるから、当然、肯定態に変換しうるのである。否定態から肯定態への転換は、スピノザの能動的観念の発想、フッサール現象学、聖霊主義、仏教、他に見ることができるだろう。しかし、この力学は何か。この肯定力学とは何か。肯定回帰的力学とは何か。キリストは愛を説いたが、もう、愛ではないだろう。否定の否定である。「父」が、新たな「母」になることだろう。新たな差異共振。それは、再び、絶対的孤独から生まれるだろう。以前は、飢え・飢渇から発した。しかし、今度は、それではありえないだろう。近代科学・技術・産業とは、物質的飢渇を満たす方法ではあった。しかし、今や、それは、過飽和である。もっとも、ここで、根本的に考えれば、飢えや飢渇による否定とは、差異共振性に対する否定なのであり、いわば、裏返しの差異共振性なのである。つまり、連続的同一性とは、裏返しの差異共振性なのである。それが、西欧において、帰結的に、近代主義を生んだのであり、今日、ポスト近代主義の事態となっているが、それは、差異共振性への否定の原因であった物質的飢え・飢渇が克服された様態である。つまり、ポスト近代主義とは、差異共振様相を否定した物質的飢え・飢渇が解消された事態を意味しているのであり、それは、当然ながら、差異共振様相の回帰であり、ポスト連続的同一性、ポスト一神教を意味すると考えられるのである。物質的飢え・飢渇の解消は、否定性の解消であり、否定の否定で、肯定が回帰するのである。
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合理主義、合理性は、どこから生まれるのか:デカルトとポスト・モダン
合理主義、合理性は、どこから生まれるのか:例えば、近代合理主義の近代合理性とは、何であり、どこから発したのか。あるいは、知性とは何なのか。どこから、知性が発するのか。
 近代的自我は、(i)*-(-i)⇒-1 であるが、やはり、最初のマイナスの発生が問題である。具体的に確認していこう。眼前に、カップがある。同一性(同一性体)である。しかし、眼前のカップは、実際は、差異的同一性であるが、物質的知覚は、それを、反差異・連続的同一性として捉える。ヘーゲルの個別性である。差異的同一性(=特異性)が捨象されているのである。あるいは、差異が排斥されているのである。
 近代的自我とは、この差異を消去した認識、反差異・連続的同一性認識をもつものと言えよう。もし、差異的同一性=自己であれば、自己と他者であるカップの間に、なんらかの共振性が生起するのであるから、カップは、差異的同一性として認識されるだろう。しかし、反差異・連続的同一性=近代的自我であれば、自我と他者を絶対的に二元論的に区別して、カップは、カップであり、それ以外の何ものでもないと判断するだろう。A=Aであり、A≠非Aである。そして、このカップは、他のカップと同様に、カップとして、連続的同一性である。これが、ヘーゲル的個別性=一般性の考え方であるが、これは、とりもなおさず、言語観念形式の考えた方であろう。名詞のカップは、反差異的同一性として、観念体系の中で、一般性をもっているのであるから。つまり、言語観念形式は、反差異的同一性形式をもっているということになるだろう。【ここで、ヨハネの福音書の冒頭「初めに、ロゴスありき」を、近代西欧は、「初めに、言葉ありき」と訳した(誤訳した)ことを想起するのである。】
 近代的自我=反差異・連続的同一性=言語観念形式という図式がほぼ形成されるだろう。そして、これを数量化して、近代合理主義が成立する。つまり、物質の誕生である。差異を排除した同一性の徹底化である。そして、この数量化された反差異・連続的同一性、即ち、物質的合理性が、近代合理性であり、その知が近代知性である。ここには、差異に対する絶対的否定性が作動しているのである。-(-i)の最初のマイナスである。
 とまれ、これで、近代合理性について解明できたといえるが、一般に合理性とは、なんらかの同一性の論理であると言えるのではないか。例えば、即非の合理性とは、差異的同一性の論理であると言えるのである。
 これで当初の問題をクリアしたが、やはり、否定の期限の問題が残っている。これまで、キリスト教的二元論に否定性の起源を見てきたのではあったが。しかしながら、キリスト教文化をもたない場所においても、否定性が出現するのであるから、この説は普遍的説得力をもたない。
 やはり、その説以前に述べた、不安・恐怖説の方が的確ではないだろうか。差異は、本来、単独性・特異性であり、孤独である。これが、近代初頭に出現したのである。ルネサンスがそうであるし、それ以後、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、パスカル等にあったものである。でも、何故、差異は不安なのか。その理由は、人間は、受動性をもっているので、差異の様相にあるときに、支えが無くなるから不安になるということと考えられる。つまり、単独性・特異性に、自己がさらされるのであり、受動的自己は、どこにも、支えを見つけられないのである。つまり、ここにおいて、外在的な支えはすべて崩壊したと言っていいのである。デカルトのコギト哲学とは、正に、単独性の自己の哲学であり、単独性に自己確認を見出したものである。しかし、この単独性から、デカルトは、明晰な観念=合理性を求めていくのである。しかし、この合理性が、反差異・連続的同一性、近代合理主義につながったと考えられるのである。というのは、デカルトは、あいまいなものを能動的に排除して行ったのである。そして、このあいまいなものに、感覚性が入ったのである。この結果、身体が排除されることになったと考えられるのである。あいまいなものを排除するという合理主義は知性としては、正統的であるが、その中に感覚性を入れたことが、近代的合理主義の誕生となったと言えるのである。心身二元論である。思惟と延長との二元論である。
 思うに、感覚ないし身体と観念・知性との関係の中に、差異があるのである。私は、精神とは心身であると考えている。単に、心だけでは、単に、身体だけでは、精神はないと考えられるのである。そう、差異の発現としての、心身であるからである。差異の発現として、心があり、身体があるのであり、どちらか一方ということではないのである。正に、心と身体とは、一如である。心身一如である。だから、感覚・身体を排除したデカルト合理主義とは、当然、否定性を帯びて、反差異的合理主義になったと言えるのである。単独性から出発していながら、デカルトは、正反対の近代合理主義に帰結したのである。デカルト哲学は、絶対的矛盾を内包していると言えるのである。(このデカルトの矛盾をほぼ解決したのが、スピノザであるが、これについては、既述である。)
 では、デカルトの感覚・身体否定は、どこから発しているのか。何を意味しているのか。思うに、ここには、感覚・身体に対する観念・知性側の切断があるだろう。この切断には、不連続性には、意味があるのである。これは、おそらく、超越性、内在超越性の意味があるのである。現象的感覚・身体性を捨象うするということは、超越性を志向していると考えられるのである。極言すれば、「イデア」性を志向しているのである。宗教的に言うと、一神教とパラレルと考えられる。神=「イデア」の次元とすれば、ほぼ等価である。
 だから、デカルト合理主義の合理性とは、超越次元にあると考えられるのである。故に、近代合理主義の合理性も超越的であるということになるのである。つまり、近代合理主義とは観念的なのである。そして、これをカントは、超越論的形式と呼んだと考えられるのである。デカルトとカントは、当然ながら、直結しているのである。さらに言えば、近代合理主義の合理性とは、構造であるということである。構造主義は、デカルト/カントから発していると言っていいだろう。
 だから、近代主義とは構造主義なのである。近代科学は構造主義なのである。問題は、脱構造主義である。ポスト・近代主義である。なぜなら、近代主義は、差異を内包しているから、当然、差異の進展が帰結するからである。つまり、脱構造主義、ポスト・モダンは必然なのである。
 では、差異の内包について考察しよう。コギト哲学は、単独性・差異哲学であるから、当然、差異が前提にあるのである。これが、近代合理主義によって、隠蔽されているのである。ちょうど、ルネサンスが、プロテスタンティズムによって隠蔽されているように。問題は感覚・身体否定にある。そして、知性の問題である。そして、観念の問題である。そして、言語の問題である。また、数学の問題である。おそらく、明晰な思考とは、言語観念形式や数学を必要とするのである。言語観念形式や数学がなければ、思考は、不分明なままである。あるいは、ヴィジョンのままである。直観のままである。おそらく、ここに人間の知性形式の問題があるのである。なんらかの観念形式によって認識するのである。観念媒体と言ってもいい。おそらく、デカルトは、明晰な観念を求めて、感覚・身体を否定したのである。これが、近代の否定性である。
 ここで図式化してみると、(i)*(-i)は、(i)⇒(-i)であり、これが、単独性・特異性である。しかし、この ⇒は、+エネルゲイアと考えられるから、反転して、−エネルゲイアと発生させるのである。つまり、反作用である。だから、(i)←(-i)であり、結局、 (i)*(i)⇒−1である。これは、意味のある反転・反動である。
 しかし、問題点は、原点を喪失することである。超越性、超越論性、内在超越性という原点・次元の喪失・忘失である。構造主義とは、この意識化であろう。つまり、構造主義とは近代主義そのものの意識化・理論化である。そして、それに対して、キルケゴール、ニーチェ、フッサールが脱構造の志向を提起したのである。これは何を意味するのか。当然、ポスト近代主義であるが、これは、どういうことなのか。近代主義のもつ超越次元喪失に対する批判である。あるいは、反差異的同一性へと帰結した近代主義運動への批判である。
 メディア空間の差異共振は、いわば、永久運動であるから、閉じられることはないのである。しかし、近代主義運動は、反差異的同一性に閉じられてしまっているのである。これは、フッサールの自然的態度と言っていいだろう。これは、反差異的同一性という物質や貨幣が、経済的現実を支配していることに起因があるように思える。つまり、生存の恐怖から、反差異的同一性の態度を反動的に保持すると考えられるのである。ということは、高貴な精神をもっている人格において、当然、一般に隠蔽された差異が活動しているのである。ニーチェが言った「貴族」的精神をもった人間が、現実にある差異を肯定するのである。デカルト哲学の未熟性・不十分性を克服すべく、スピノザ、カント、キルケゴール、ニーチェ、フッサールと西洋哲学の天才たちが、差異の哲学、ポスト近代主義の哲学を開拓していったのである。しかし、これに対する近代主義的折衷が生まれる。つまり、連続論的哲学である。ライプニッツのモナド哲学、ベルクソンの持続論、ホワイトヘッドの有機体論、ハイデガーの存在論、ドゥルーズの連続的差異論等である。そして、フランス・ポスト・モダンは、初期は、そのようなものであったが、後期デリダにおいて、正統なる差異哲学/ポスト・モダン哲学が、復帰したのである。
 ということで、近代とは、必然的に、ポスト・モダンなのである。出発点が、差異であるからである。これが、怯懦によって、近代主義となったのである。近代は、構造主義であり、且つ、脱構造主義なのである。
 結局、プラトニック・シナジー理論が、このポスト・モダンの問題を解明したことになるだろう。そして、それは、内在超越次元であるメディア空間の発見である。
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合理主義、合理性は、どこから生まれるのか:デカルトとポスト・モダン
合理主義、合理性は、どこから生まれるのか:例えば、近代合理主義の近代合理性とは、何であり、どこから発したのか。あるいは、知性とは何なのか。どこから、知性が発するのか。
 近代的自我は、(i)*-(-i)⇒-1 であるが、やはり、最初のマイナスの発生が問題である。具体的に確認していこう。眼前に、カップがある。同一性(同一性体)である。しかし、眼前のカップは、実際は、差異的同一性であるが、物質的知覚は、それを、反差異・連続的同一性として捉える。ヘーゲルの個別性である。差異的同一性(=特異性)が捨象されているのである。あるいは、差異が排斥されているのである。
 近代的自我とは、この差異を消去した認識、反差異・連続的同一性認識をもつものと言えよう。もし、差異的同一性=自己であれば、自己と他者であるカップの間に、なんらかの共振性が生起するのであるから、カップは、差異的同一性として認識されるだろう。しかし、反差異・連続的同一性=近代的自我であれば、自我と他者を絶対的に二元論的に区別して、カップは、カップであり、それ以外の何ものでもないと判断するだろう。A=Aであり、A≠非Aである。そして、このカップは、他のカップと同様に、カップとして、連続的同一性である。これが、ヘーゲル的個別性=一般性の考え方であるが、これは、とりもなおさず、言語観念形式の考えた方であろう。名詞のカップは、反差異的同一性として、観念体系の中で、一般性をもっているのであるから。つまり、言語観念形式は、反差異的同一性形式をもっているということになるだろう。【ここで、ヨハネの福音書の冒頭「初めに、ロゴスありき」を、近代西欧は、「初めに、言葉ありき」と訳した(誤訳した)ことを想起するのである。】
 近代的自我=反差異・連続的同一性=言語観念形式という図式がほぼ形成されるだろう。そして、これを数量化して、近代合理主義が成立する。つまり、物質の誕生である。差異を排除した同一性の徹底化である。そして、この数量化された反差異・連続的同一性、即ち、物質的合理性が、近代合理性であり、その知が近代知性である。ここには、差異に対する絶対的否定性が作動しているのである。-(-i)の最初のマイナスである。
 とまれ、これで、近代合理性について解明できたといえるが、一般に合理性とは、なんらかの同一性の論理であると言えるのではないか。例えば、即非の合理性とは、差異的同一性の論理であると言えるのである。
 これで当初の問題をクリアしたが、やはり、否定の期限の問題が残っている。これまで、キリスト教的二元論に否定性の起源を見てきたのではあったが。しかしながら、キリスト教文化をもたない場所においても、否定性が出現するのであるから、この説は普遍的説得力をもたない。
 やはり、その説以前に述べた、不安・恐怖説の方が的確ではないだろうか。差異は、本来、単独性・特異性であり、孤独である。これが、近代初頭に出現したのである。ルネサンスがそうであるし、それ以後、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、パスカル等にあったものである。でも、何故、差異は不安なのか。その理由は、人間は、受動性をもっているので、差異の様相にあるときに、支えが無くなるから不安になるということと考えられる。つまり、単独性・特異性に、自己がさらされるのであり、受動的自己は、どこにも、支えを見つけられないのである。つまり、ここにおいて、外在的な支えはすべて崩壊したと言っていいのである。デカルトのコギト哲学とは、正に、単独性の自己の哲学であり、単独性に自己確認を見出したものである。しかし、この単独性から、デカルトは、明晰な観念=合理性を求めていくのである。しかし、この合理性が、反差異・連続的同一性、近代合理主義につながったと考えられるのである。というのは、デカルトは、あいまいなものを能動的に排除して行ったのである。そして、このあいまいなものに、感覚性が入ったのである。この結果、身体が排除されることになったと考えられるのである。あいまいなものを排除するという合理主義は知性としては、正統的であるが、その中に感覚性を入れたことが、近代的合理主義の誕生となったと言えるのである。心身二元論である。思惟と延長との二元論である。
 思うに、感覚ないし身体と観念・知性との関係の中に、差異があるのである。私は、精神とは心身であると考えている。単に、心だけでは、単に、身体だけでは、精神はないと考えられるのである。そう、差異の発現としての、心身であるからである。差異の発現として、心があり、身体があるのであり、どちらか一方ということではないのである。正に、心と身体とは、一如である。心身一如である。だから、感覚・身体を排除したデカルト合理主義とは、当然、否定性を帯びて、反差異的合理主義になったと言えるのである。単独性から出発していながら、デカルトは、正反対の近代合理主義に帰結したのである。デカルト哲学は、絶対的矛盾を内包していると言えるのである。(このデカルトの矛盾をほぼ解決したのが、スピノザであるが、これについては、既述である。)
 では、デカルトの感覚・身体否定は、どこから発しているのか。何を意味しているのか。思うに、ここには、感覚・身体に対する観念・知性側の切断があるだろう。この切断には、不連続性には、意味があるのである。これは、おそらく、超越性、内在超越性の意味があるのである。現象的感覚・身体性を捨象うするということは、超越性を志向していると考えられるのである。極言すれば、「イデア」性を志向しているのである。宗教的に言うと、一神教とパラレルと考えられる。神=「イデア」の次元とすれば、ほぼ等価である。
 だから、デカルト合理主義の合理性とは、超越次元にあると考えられるのである。故に、近代合理主義の合理性も超越的であるということになるのである。つまり、近代合理主義とは観念的なのである。そして、これをカントは、超越論的形式と呼んだと考えられるのである。デカルトとカントは、当然ながら、直結しているのである。さらに言えば、近代合理主義の合理性とは、構造であるということである。構造主義は、デカルト/カントから発していると言っていいだろう。
 だから、近代主義とは構造主義なのである。近代科学は構造主義なのである。問題は、脱構造主義である。ポスト・近代主義である。なぜなら、近代主義は、差異を内包しているから、当然、差異の進展が帰結するからである。つまり、脱構造主義、ポスト・モダンは必然なのである。
 では、差異の内包について考察しよう。コギト哲学は、単独性・差異哲学であるから、当然、差異が前提にあるのである。これが、近代合理主義によって、隠蔽されているのである。ちょうど、ルネサンスが、プロテスタンティズムによって隠蔽されているように。問題は感覚・身体否定にある。そして、知性の問題である。そして、観念の問題である。そして、言語の問題である。また、数学の問題である。おそらく、明晰な思考とは、言語観念形式や数学を必要とするのである。言語観念形式や数学がなければ、思考は、不分明なままである。あるいは、ヴィジョンのままである。直観のままである。おそらく、ここに人間の知性形式の問題があるのである。なんらかの観念形式によって認識するのである。観念媒体と言ってもいい。おそらく、デカルトは、明晰な観念を求めて、感覚・身体を否定したのである。これが、近代の否定性である。
 ここで図式化してみると、(i)*(-i)は、(i)⇒(-i)であり、これが、単独性・特異性である。しかし、この ⇒は、+エネルゲイアと考えられるから、反転して、−エネルゲイアと発生させるのである。つまり、反作用である。だから、(i)←(-i)であり、結局、 (i)*(i)⇒−1である。これは、意味のある反転・反動である。
 しかし、問題点は、原点を喪失することである。超越性、超越論性、内在超越性という原点・次元の喪失・忘失である。構造主義とは、この意識化であろう。つまり、構造主義とは近代主義そのものの意識化・理論化である。そして、それに対して、キルケゴール、ニーチェ、フッサールが脱構造の志向を提起したのである。これは何を意味するのか。当然、ポスト近代主義であるが、これは、どういうことなのか。近代主義のもつ超越次元喪失に対する批判である。あるいは、反差異的同一性へと帰結した近代主義運動への批判である。
 メディア空間の差異共振は、いわば、永久運動であるから、閉じられることはないのである。しかし、近代主義運動は、反差異的同一性に閉じられてしまっているのである。これは、フッサールの自然的態度と言っていいだろう。これは、反差異的同一性という物質や貨幣が、経済的現実を支配していることに起因があるように思える。つまり、生存の恐怖から、反差異的同一性の態度を反動的に保持すると考えられるのである。ということは、高貴な精神をもっている人格において、当然、一般に隠蔽された差異が活動しているのである。ニーチェが言った「貴族」的精神をもった人間が、現実にある差異を肯定するのである。デカルト哲学の未熟性・不十分性を克服すべく、スピノザ、カント、キルケゴール、ニーチェ、フッサールと西洋哲学の天才たちが、差異の哲学、ポスト近代主義の哲学を開拓していったのである。しかし、これに対する近代主義的折衷が生まれる。つまり、連続論的哲学である。ライプニッツのモナド哲学、ベルクソンの持続論、ホワイトヘッドの有機体論、ハイデガーの存在論、ドゥルーズの連続的差異論等である。そして、フランス・ポスト・モダンは、初期は、そのようなものであったが、後期デリダにおいて、正統なる差異哲学/ポスト・モダン哲学が、復帰したのである。
 ということで、近代とは、必然的に、ポスト・モダンなのである。出発点が、差異であるからである。これが、怯懦によって、近代主義となったのである。近代は、構造主義であり、且つ、脱構造主義なのである。
 結局、プラトニック・シナジー理論が、このポスト・モダンの問題を解明したことになるだろう。そして、それは、内在超越次元であるメディア空間の発見である。
| sophiology | 21:10 | comments(0) | trackbacks(0) |

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