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不連続的差異イデアと「心」と唯物分子生物学:差異共振シナジー様相としての自己・人間種
以下の本は、toxandoria氏のサイトの一つ(『レンブラントの眼』
http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/ ?)に紹介されていたもので、未読であるが、プラトニック・シナジー理論から「心」や心身や分子生物学(唯物生物学)を考察する上で、指針の一つになりそうである。
 プラトニック・シナジー理論(プラ・シナ理論、PS理論)では、当然ながら、差異、不連続的差異、絶対的差異、特異性、単独性を根源に見ている。これは、イデア界においてそうであるし、また、メディア界の共振シナジー界においては、共振シナジーの根源素である。だから、これと、「心」や心身や分子生物学の関係を構築しないといけない。
 今、ふと想起したのは、「心」とは、現象であり、フッサール現象学が説くように、その直接態(直接様態)のままでは、問題があるだろう。「心」は、自然的態度のままでは、ほとんど自我になるだろう。つまり、同一性的自己=自我になると思うのである。利己主義である。今日・現代の社会風潮は、利己主義・自我中心主義であるが。
 これまで、差異と同一性との関係で、自己/自我の問題、心身の問題を扱ってきた。ここでの問題は、差異と「物質」、即ち、分子、DNA、ゲノム等との関係である。ここで、問題を簡潔なものにするために、生命とは、なんらかの差異共振シナジー様相形態(差異シナジー形態)としよう。これは、エネルゲイアであり、プラスの時が、生命発生志向であり、マイナスの時が生命消滅を志向すると考えよう。つまり、生命とは、差異シナジー・エネルゲイアとなる。これは、明瞭・明晰・明確である。そして、思うに、これが、原ゲノムないしゲノム・イデアではないだろうか。つまり、生命の原設計図、イデア設計図である。
 では、そのように作業仮説して、「心」とは何か、ということになる。これまで、プラトニック・シナジー理論では、差異=志向性(フッサール)と考えてきた。当然、「心」も、そのようなものと考えられるのである。そうならば、差異=志向性=「心」と、原ゲノムはどう関係するのだろうか、ということになる。
 ここで、簡単に、感覚・知覚・意識身体(心身)から考えよう。常識的に、五感があり、それらを統合するようにして「心」がある。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚である。精緻に言えば、さらにあるだろう。とにかく、多元的感覚があり、それを介して統合的な「心」・意識・精神が存している。整理すると、諸感覚の「調和」、「統合」、「統一」ということになるが、思うに、諸感覚の共立様相ではないだろうか。つまり、諸感覚の共立シナジー様相ではないだろうか。感覚共立シナジーが「心」・意識・精神ではないだろうか。一(いつ)ではなく、一如(いちにょ)である。
 もしそうならば、差異についても、再考が必要になるだろう。私は、これまでは、一つの差異が自己意識を形成していると仮定してきたのであるから。感覚共立シナジー=差異的自己論が成立するならば、差異的自己は、多元的差異シナジーとしての存するのである。あるいは、多種多様な差異の共振シナジーとしての差異的自己=特異性=単独性=不連続的差異である。(ここで、用語を整合化しよう。差異的自己は、とりあえず、「差異」的自己と表記して、差異という術語を、根源的差異、不連続的差異に限定しよう。すると、「差異」的自己=特異性=単独性=「不連続的差異」という表記になる。)
 この問題は、以前、ずいぶん悩んだ問題で、自己を一つの差異イデアと見ることで、解決しておいた問題であるが、ここで、また、問題化したと言えよう。以前の問題を振り返ると、「わたし」・自己は、「全体」としてある特異性=不連続的差異であると思われた。図式化すれば、

差異1/差異2/差異3/・・・/差異n

を全体すれば、「わたし」=自己は、この中の差異kである。そして、差異総体の共振シナジー様相においては、「わたし」=自己は、

「全体」(差異1☯差異2☯差異3☯・・・☯差異n)

を共振シナジー(☯様態)感じると考えてきたのである。しかし、新たに、感覚共立シナジー・多種多様差異共振シナジーとしての「差異」的自己を考えると、この図式的思考を修正する必要が出てくるだろう。つまり、これまで、「差異」的自己は差異kであったが、ここでの考え方からすると、「差異」的自己は、差異共振シナジー全体になるのである。これは、大変な転換になるだろう。
 そうすると、一番の問題は、これまで、自己としてきた差異ないし不連続的差異はどういうことになるのだろうか。今考えられることを言えば、差異共振シナジー様態自体が、「差異」であり、「不連続的差異」であるということである。つまり、同一性・自我に対して、差異共振シナジー様相は、「差異」ないし「不連続的差異」であるということである。
 どうも、このように考えた方が、私の直観にまったく適合するように思える。自己の「差異」ないし特異性・単独性=「不連続的差異」とは、差異共振シナジー様相と考えると明晰だと考えられるのである。
 では、そうならば、他者との共振的倫理はどういう仕組みなのだろうか。思うに、差異は志向性なのだから、差異共振シナジーも総体として、志向性をもっていると言えるだろう。なぜなら、多元的差異共振シナジー様相は、多元的志向性が一如化した志向性をもつと考えられるからである。つまり、差異共振シナジーとしての自己の総体的志向性も、共振的志向性をもち、共振的倫理をもつと言えるだろう。
 ということで、まだ検討が必要であるが、以上のように修正してみて、基本的には、これまでの差異、不連続的差異の考え方は、間違っていないことになる。ただ、単位的なものから、共立的なものに変化したと言えるのである。共立差異、共立不連続的差異としての自己なのである。
 では、ここで、さらに議論を展開すると、人間と他の生物との関係はどうなのかということになる。ゲノム的には、人間と類人猿とはそれほど違わないのである。唯物生物学は、この点で、限界があると言えよう。プラトニック・シナジー理論(簡略して、シネルゲイア理論と呼べるだろう)は、人間と類人猿の違いの発生を説明できるだろう。あるいは、人間と他の生物との違いを説明できるだろう。思うに、人間は、差異共振シナジー性が賦活・活性化しているのである。それに対して、他の生物は、差異共振シナジーの同一性化が確定して、それが本能となり反復するだけになっているのである。差異同一性化システムが本能システムとなり、同一性反復になっているのである。それに対して、人間は、差異共振シナジー様態が賦活されているので、同一性反復を破壊・超克して、新しい差異共立連結を創造するのである。これが、人間と他の生物との決定・切断的な相違点であると考えられる。ただし、人間には、他の生物と共通な同一性構造があるので、常に、同一性反復=保守反動の危険があり、劣化・低劣化・劣弱化・退化の危険があるのである。(現代が正にそうである。)
 この視点から、近代主義の問題点が明らかになる。近代合理主義は、「物質」という同一性構造を発見して、唯物科学・技術・産業を発達させたのである。しかし、これは、人間本性である差異共振シナジー性を否定・排除・隠蔽しているのである。つまり、人間本質否定としての近代主義、近代合理主義なのである。問題は、結局、近代とは何かになるのである。原近代・プロトモダンは、イタリア・ルネサンスから始まったと考えている。しかるに、その反動として、宗教改革・プロテスタンティズムが生起したと考えている(実際は、複雑であるが、単純化して考えている)。これと、デカルト哲学/科学が近代主義を決定するのである。しかし、原近代・プロトモダンは、差異共振シナジー様相の新たな賦活であると考えられるのである。だから、「近代」とは、基礎に差異共振シナジー様相があるのである。しかし、近代主義的反動によって、同一性構造的反動が支配的になり、原近代・プロトモダンを抑圧するのである。「近代」は捩れがあるのである。このような経緯で、近代主義、近代合理主義は、人間本性否定になったのである。現代日本は、この同一性反動の極致とも言える状況になっている。とりわけ、東京がそうである。悪魔的首都東京である。伏魔殿東京である。悪魔的知事が鎮座している。
 後でさらに検討したい。
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心の起源―生物学からの挑戦 (新書)
木下 清一郎 (著)

心の起源

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| sophiology | 17:37 | comments(0) | trackbacks(0) |

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