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日本の大地とは何か:縄文的自然:地霊の波動


日本の大地とは何か:縄文的自然:地霊の波動


テーマ:森の哲学:気超科学:ゼロ地場と聖地

今日、最近見つけた貯水池(沈澱池)の畔で過ごした。
 折りたたみアームチェアで、ボーっと過ごした。
心地よい風に吹かれ、また、近くの畑地や遠くの山を見て過ごした。
 弛緩して、半意識状態であった。
 さて、その後、近くのスーパーに行って来たが、途中、地霊ということを考えた。確かに、私が今日過ごした緑濃き土地一帯には、地霊と呼びたいものを感じたのである。
 そう、なにかこわいものである。怖いもの。畏怖すべきものだろう。分厚い強い波動、霊気のようなものを感じた。
 とまれ、緑の大地のこのような力への畏れは、思うに、かつて、奈良の吉野で感じたものに近いかもしれない。吉野では、山地に蠢く龍のような、不気味なものを感じたのである。それは、確かに恐怖であった。
 しかし、今日感じたものは、恐怖というよりは、畏れである。
 合理的知性では捉えられない力の存在である。思うに、これが、縄文の霊なのではないだろうか。
 大陸の合理的精神をもった渡来人は、恐怖を感じたと思う。
 それは、古事記に書かれているだろう。
 また、それは、ゲルマンの暗い森に遭遇して感じた古代ローマ人の恐怖に近いかもしれない。
 とまれ、大地の霊、濃い緑の大地の霊力と言いたいような波動である。気という言葉では弱すぎる。地霊というより、大地霊である。土霊である。

参照:

第25 国譲りという名の侵略を考える前提問題 - point.ne.jp


鈍感な人たちがいまだに国譲りと言う

 さてさて,やっと,国譲りという名の侵略です。実際には,天菩比神(あめのほひのかみ),天若日子(あめわかひこ)が役立たずだったので,建御雷神らを派遣して侵略となるのですが,私は,その全体を,国譲りという名の侵略といいます。

 ところで,一般には「国譲り」という文言が使われています。しかし誤りです。私は,「国譲りという名の侵略」という言葉を使います。 その,叙述と文言にあまりにも鈍感な精神が許せないからです。さらに,時代精神にも鈍感だからです。さらに,そうした鈍感さは,世の中に害毒をまき散らす からです。

 古事記にも日本書紀にも,「国譲り」という文言はありませんし,そんなお話など,どこにも書いてありません。

 日本書紀を見てみましょう。そのころ葦原中国は,「多に(さわに)蛍火(ほたるび)の光く(かがやく)神,及び蠅声なす(さばえな す)邪しき神(あしきかみ)あり。復(また)草木咸に(ことごとくに)能く(よく)言語有り(ものいうことあり)」。すなわち葦原中国は,蛍火が輝くよう な多くの神がおり,蠅のように小うるさい邪神がたくさんおり,草木さえもものを言って人を脅かすような国だったのです。
 そこで高皇産霊尊は,「八十諸神(やそもろかみたち)を召し集へて」,「吾(われ),葦原中国の邪しき(あしき)鬼を撥ひ(はらい)平け(むけ)しめむと欲ふ(おもう)」と述べ,誰を派遣したらよかろうかと問うたのです。

 まるで,鬼ヶ島の鬼退治ですね。未開の地に対する軍事的侵略。キリスト教の看板を掲げたヨーロッパの植民地主義みたい。人類共通のお約束の構図。人間ふぜいがやることは,1000年たっても同じなんですね。

 古事記を見ましょう。天菩比神の次に派遣される天若日子は,天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)という武 器を携行します。次の建御雷神(たけみかづちのかみ)は,武神であり雷神です。この神は,大国主神に対して,十拳劔(とつかのつるぎ)を逆さまに立て,胡 座をかいて,「汝がうしはける葦原中国は,我が御子の知らす国と言依(ことよ)さしたまひき。故,汝が心は奈何(いか)に。」と問いかけます。お前が治め ている葦原中国はわが皇子が治める国との命令があったが,お前はどうするんだ,なんていう意味です。内容は,日本書紀も同じようなもんです。

 恫喝そのものですね。現代なら強盗か恐喝か。もっと大きなことを言えば,一方的な宣戦布告です。イラク戦争前夜のアメリカの態度と同じです。

 逆らった建御名方神(たけみなかたのかみ)は,腕をへし折られ,諏訪湖まで逃げていき,生涯そこから出ないと,誓わねばなりませんで した。「恐し(かしこし)。我をな殺したまひそ。」というのが,彼の命乞いです。建御雷神は,高天原に帰り,葦原中国を「言向け和平(やわ)しつる状」を 「復奏」したのでした。将軍の凱旋と申せましょう。

http://www3.point.ne.jp/~ama/old/25.html

日本書紀を読んで古事記神話を笑う初版 - point.ne.jp

by 天 語 人 (あまがたりびと)

日本書紀を読んで古事記神話を笑う - point.ne.jp


今回の改訂新版は,「古事記神話を笑う」という点から,「日本神話を解明する」という点に,軸足が移っている。
 我田引水かもしれないが,論述は,より体系的で,全面的になっている。

 古事記の「へんてこりん」を訴えた初版と違い,日本神話を,ほぼ全面的に論じたものになっている。

 そんなわけで,この改訂新版には,「物語読者として日本神話を解明する」という副題をつけた。


改訂新版の読書案内(1)

 初めて読む方は,

「第19 日本神話の故郷を探る」
「第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)」
「第24 日本神話の構造と形成過程」
「第30 日本神話のコスモロジー」
「第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)」
「第70 古事記独特の三種の神宝」
「第77 日向神話の体系的理解」
「第79 三種の宝物再論」
「第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)」

を,まず最初に読んでいただきたい。

 これで,日本神話の全体像が得られるだろう。

 次に,

「第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない」
「第26 日の神の接ぎ木構造」
「第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語」
「第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ(日本書紀を中心に)」
「第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)」
「第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係」
「第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)」
「第49 オオクニヌシの王朝物語」
「第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)」
「第59 『皇祖』『皇孫』を奪い取る『皇祖神』タカミムスヒ(国譲りという名の侵略の命令者)」
「第61 古事記における命令神(国譲りという名の侵略の命令者)」

 これで,日本神話のたて軸が理解できるだろう。

 古事記に対する批判はいらない,日本神話の全体像をとりあえず知りたい,という方にもお勧めしておく。

http://www3.point.ne.jp/~ama/

| sophiology | 20:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本新多神教へ向けて:日本の部族主義の思考構造について:いかに部族的盲目思考から脱するのか
脱亜入欧で、様々な欧米の思想を取り入れてきた日本ではあるが、一つ取り入れていないものがある。それは、個の思想である。近代主義を取り入れたが、デカルトの個の思想は取り入れていない。欧米の強さは、エゴイズムと同時に、この個の思想にあると私は考えている。後者が、前者の行き過ぎに対して、批判的機能を果たすのである。
 しかし、日本の場合、部族主義があるために、個の思想が排除されるのである。部族主義は、二元論であり、部族への同一性か、部族による他者差別かである。もっとも、日本のよさは、この部族主義をもたない、ほのぼのとして「庶民」の個が生きていることだろう。これは、日本多神教の末裔であろう。この点については、後で述べるとして、今や日本の未来にとっての害悪となっている部族主義を批判的検討しないといけない。
 日本の部族主義とは、一言で言えば、父権主義的部族主義である。これに西欧の近代主義が重なっているのである。つまり、近代主義的父権的部族主義、これが、日本社会の諸権力を構成しているのである。問題は、上述したように、ここでは、欧米文化の根底にある個の思想が欠落していることである。これが、いわば、日本の「権力」の致命的欠陥である。そのために、事象を分析的に知解できないし、また、個の思想のもつ内省・省察・自己考察性が欠落するのである。これは、はっきり言えば、愚である。盲点である。ここで、想像をたくましくすれば、日本が、太平洋戦争という大愚行を犯した精神的要因はここにあると思うし、バブルを生み出したのもこれであろうし、また、今問題の耐震強度偽装の問題にも、これがあると思われるのである。
 この近代的父権的部族思考から脱却しないと、日本は没落・滅亡するだろう。ここで、この思考の欠点を詳述しよう。実は、近代主義批判で、ほぼ済んでいるのであるが、ここで、確認しよう。
 近代主義思考とは、叡知の裏返しのような知である。ここでは、知覚は主に外界に向けられているのであり、自己内界は排斥されるのである。外界知覚が、意識の基盤となるのである。また、言語もそれへ向けられる。問題は、この主客二元論は、主観性に対して盲目で、客観性志向である点である。そして、主観性とは、自然的態度では、否定的なものである。つまり、受動的な感情・欲望によって作動しているのであり、簡単に言えば、反感によって作動しているのである。スピノザの『エチカ』から言えば、「悲しみ」の感情から発しているのである。この反感は、反動となるのであり、これによって、近代主義が形成されるのである。反感・反動的主客二元論である。D.H.ロレンスは、知性の基底には、憎悪があると言ったのは、この意味である。もっとも、知性は近代的知性である。
 結局、近代主義は、主観の反感・反動性に盲目であるのである。自己暴力性に盲目であるのである。他者に対して、攻撃的になるのである。そして、この自己盲目性が、いわば、狂気である。無知である。無明である。近代主義は、このように極めて欠陥のある思考である。
 ということで、この近代主義と父権的部族主義が結びついているのが、日本の権力・支配層である。 極めて危険であることがおわかりになるであろう。ここでは、父権的部族に属さないものを差別し、暴力的に排除する体制があるのである。これは、また、天皇制をイデオロギーとして、日本国家ナショナリズムを形成しているのである。(そして、これが、靖国神社と関係するのである。)
 この近代的父権部族主義は、欧米の個の思想を欠いている、一種全体主義である。これが、日本国民に、とりわけ、子供に破壊的な影響を与えるのである。学校問題、ニート・引きこもり・精神問題、幼児殺害等々の、社会問題の元凶はここにあると見ていいだろう。この日本の権力・支配の近代父権部族主義から脱しない限り、日本は、沈没するだろう。結局、日本の個の思想を肯定していかなくてはならないのである。
 日本の個の思想は、実は、日本多神教に本来潜んでいると思われるのである。森羅万象を肯定する日本多神教は、個的であり、同時に、多元的であると考えられるのである。つまり、日本的個の思想は、他者との共存・共生性を本来もっているのである。これは、日本文化・社会の本当の美点であると思われるのである。おそらく、イギリスにおけるケルト文化、北アメリカにおけるインディアン・「ネイティブ・アメリカン」の文化、イタリアにおけるエトルリア文化、ラテンアメリカにおけるインディオの文化、等に相当するものではないだろうか。日本の先住民文化が、日本多神教・庶民文化の基底・原基ではないのか。「縄文」(東アジア照葉樹林帯)・アイヌ・沖縄等々の文化につながる日本の根源・基層的文化が、無意識裡に、庶民層に、底流しているのではないのか。日本多神教文化が、近代父権部族主義の日本権力とは、異質なものとして存していると見なくてはならないだろう。(『古事記」の大国主は、日本的個の思想を体現している人物のように思える。)
 結局、これからの日本の針路とリンクして、日本人の個の思想を展開するには、この根源的な日本多神教(おそらく、東アジア、アジア、ユーラシア、アフリカ、オセアニア、南北アメリカの土着的多神教、そして、グローバルな多神教に通ずるだろう)を復活させなくてならないと考えられる。この日本多神教は、日本の大地・風土に根差したものであり、同時に、普遍的なものと考えられるのである。不連続的差異論的に言えば、特異性としての日本多神教である。そして、これが、普遍・叡知界であるイデア界に通じているのである。

Let Japanese polytheism resurrect! 
Let new Japanese polytheism be your singular thought!
Let Japanese fundamental culture awaken in your minds!
Awake, awake, Japan!
Tremendous danger threatens us.
The sun is fresh and new everyday.
Wake up to the dawn of New Japan!
| sophiology | 13:45 | comments(3) | trackbacks(0) |

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