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不連続的差異論は認識哲学、PS理論は物質原理:無双陰陽原理は精神と物質の両者包含原理を目指す

不連続的差異論は認識哲学、PS理論は物質原理:無双陰陽原理は精神と物質の両者包含原理を目指す

テーマ:プラトニック不連続的差異共振理論

今日も森(ゆかし森神社とでも呼びたい:ゆかし森とは私の勝手な名称である)のいつもの片隅(奥の細道参道入り口)で、思索した。
 その前に、『生物と無生物のあいだ』の冒頭を読んで、DNAの複製原理は、先に述べた(連続的)同一性=物質化理論で説明できると思った。同一物のコピーを作るのであるから、それは、同一性原理に拠るのである。

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 そこで、今は離脱したPS理論であるが、それは、物質理論であると考えられる。自己認識方程式i*−i⇒+1は、自己認識理論というよりは、同一性=物 質化理論である。そう、認識的には、それは、自我認識理論であり、自己認識理論ではない。何故なら、それは、自我の反転を他者としているからである。
 つまり、PS理論は、物質理論、自我理論としては正当であるが、認識理論としては、不連続的差異論から後退しているということになるのである。
 私は差異共振を考えるのに、さんざん悩んだが、今にしてみれば、PS理論(ガウス平面付き)では、差異共振は説明できないのである。
 結局、不連続である他者を数学化することが困難だと思われる。私は数学については、素人なので、不連続な他者(不連続的差異)を数学化する方法がわからないのである。
 とまれ、私にとって、数学主導で哲学をすると、数学の形式に振り回されて、哲学的認識が弱くなるのが判明して、私はPS理論から離れた。
 その後、無双陰陽原理を唱えることになったが、プラトンの著作を再読して、プラトン哲学・イデア論が原理的に近いことがわかり、プラトニック陰陽理論と改名した。しかし、無双陰陽原理は括弧に入れておきたい。
 とまれ、同一性=物質化理論にたどり着いて、理論的問題点が明快になった。即ち、精神原理と物質原理が混淆していたことである。
 言い換えると、不連続的差異論に回帰したということである。ここから考え直す必要があるということである。(だから、2004年から2012年まで、約8年迂回したことになる。)
 簡単に言うと、繰り返しになるが、陰陽螺旋的生命形成がある。それを同一性=物質化が装っている。物質装備である。
 それは、気的螺旋が「内部」にあり、外部は物質的螺旋形態であるということである。
 陰陽螺旋であるが、それは、差異共振であると考えている。言い換えると、陰陽共振であり、陰陽同一性=物質化ではないのである。ただし、「外部」は後者である。
 とまれ、ざっとであるが、不連続的差異論に回帰して、同一性=物質化原理と陰陽螺旋=差異共振原理の二つが明確になったのであり、理論的には回帰して、進展したことになる。
 さて、理論名称であるが、新たに、プラトニック陰陽理論(無双陰陽原理)としたが、不連続という言葉は、捨てがたいのである。それを使用するならば、プ ラトニック不連続的陰陽理論Platonic Discontinuous Ying-Yang Theoryとでもなる。(しかし、もう一度、不連続的差異=不連続的他者の意義を考えるべきであるが、これは課題にしておく。)
 最後に簡単に整理すると、陰陽イデアがあり、それが、生命イデアである。それが、同一性=物質化原理によって、生命物質体を形成する。基本的には螺旋形状である。
 しかし、陰陽イデア=精神原理は、向上を目指しているのである。螺旋的回帰という向上を。
 それは、物質化することによって、いわば、汚染されるのであるが、その汚染によって苦悩・苦労するのである。そう、自我の原理、物質の原理を帯びるのである。自我ー物質の原理に陥りつつも、陰陽イデア=精神原理は内在・潜在しているのである。
 ここに矛盾があるのである。
 同一性=物質化して、陰=他者が失われるのである。しかし、陰=他者の肯定によって、再び、陰陽極性が回帰すると考えられる。(なにか、ヘーゲル哲学に似ているが、陰=他者は不連続的差異である点で異なるだろう。この点は要検討。)
 結局、陰陽イデア=精神原理の向上とは、自我原理になった後に、他者肯定を学び、再び、陰陽極性原理へと回帰することと考えられる。つまり、同一性化⇒他者化による陰陽共振原理への回帰である。
 雑駁な感もあるが、ここで留める。
| sophiology | 01:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
キリストの愛とプラトンのエロース:美と他者:キリスト愛的エロース
テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

プラトンのエロース(恋慕)とキリストの愛:無双陰陽原理の気的身体理性:プラトン・ネオルネサンス
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11505093121.html

先に以上で、キリストの愛を批判し、プラトンのエロースを肯定した。
 短絡的な判断だと今思う。キリストの愛は他者の問題が全面にあると思う。それに対して、プラトンのエロースは美が全面にある。
 他者は無双陰陽原理では、陰である。プラトンのエロースは、他者の美、陰の美を問題にするのであり、他者自体ではない。もっとも、究極的には他者の肯定へと帰結するのであるが。
 キリストの愛は当然ながら、エロースではない。返って、アンチ・エロースである。つまり、表面的には、キリストの愛とプラトンのエロースは齟齬を来すのである。
 二つの「愛」の衝突があるのである。これは、人生の矛盾である。
 しかし、今ふと思ったが、キリストの愛の上に、プラトンのエロースを載せることはできるのではないか。
 他者肯定的エロースである。キリスト的エロースである。
 今はここで留める。

追記:詩人ヘルダーリンが、キリストとパン神の融合を詩で述べていたと思う。これは、キリスト的エロースになるのではないだろうか。問題は、キリストをベースにすることである。
 ところで、聖霊の問題であるが、それは、根源のイデアと一致するのではないだろうか。しかしながら、問題は微妙である。エロースとイデアと一致させることはできるのか。できないだろうか。後で検討したい。
| sophiology | 01:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
物質とは何か:その2:気と電磁波は全く別ものである:生命原子(気的原子)と純粋原子
テーマ:science:物質とは何ぞ哉

今日も森の小道を掃除しながら歩き、いつもの、小道の両脇を杉が聳える思索の場で、哲学した。
 今日は、物質についてさらに考察をした。
 陽大化によって同一性=物質化が起きると作業仮説している。ここから考えられるのは、陽大化の同一性化は、原粒子の形成である。それを生命原子ないし気原子と呼びたい。そして、陽が陽子となり、陰が電子となると考えるのである。
 しかしながら、本質的なポイントは、これが単なる原子ではないことである。中核には、陰陽螺旋=気的螺旋ないしそのような原動力が存すると考えられるのである。簡単にざっと言えば、中核には、気が存するのである。(おそらく、気渦流ないし気渦動のようなものである。とりあえず、気渦動と呼ぶ。)
 つまり、原粒子は、生命体を構成する生命原子(気原子)であり、中核に気渦動をもつということになる。(だから、一般の物理学の原子とは、この生命原子から生命・気の脱落したものと考えられる。言い換えると、核心の気渦動が抜けているのである。ということは、気渦動が「魂」、「プシュケー」と言えそうである。)
 さて、陽が陽子となり、陰が電子へと変換する。では、原子核に相当するのは何だろうか。物理学的に言えば、陽子の位置に原子核が来るだろう。
 しかしながら、以上の考えから、原子核とは別に、陰陽螺旋、陰陽原動力、気渦動を中心に見ているのである。それを生命核ないし気核と呼ぶ方が明快であろう。
 このような考え方から、螺旋的生命物質体は、あるいは、生命物質は、生命原子(気原子)から構成されるのであり、生命原子(気原子)のコアには、生命核(気核)があるのであり、それは、気のエネルギーをもっていると思われるのである。
 だから、それは明らかに、電磁波とは異なるのである。電磁波とは、生命原子における物質体(物質外装体)であり原子において発出されるのであり、生命原子の中核の生命核(気核)からは、気波動が発出されると考えられるのである。
 言い換えると、生命体は、中心から生命波動=気波動を、そして、物質体からは電磁波を発生させると考えられる。
 これで、これまで長い間の疑問、気と電磁波の関係の問題の解決に向けて、大きく前進したと考えられる。
 気と電磁波は全く異なるものである。気はオカルティストが言うエーテル体に当たると考えられる。
| sophiology | 01:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
プラトンのエロース(恋慕)とキリストの愛:無双陰陽原理の気的身体理性:プラトン・ネオルネサンス
テーマ:グランド・セオリー:無双陰陽コスミクス

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もう少しで、プラトンの『饗宴』を読了するが、やはり、プラトンのエロース(性愛恋)は、無双陰陽原理の気的身体理性に、また、セクシー・スピリチュアリズムに通じると思う。
 その視点から、キリスト教の愛の問題性が見えてくる。キリスト陽の愛は、確かに、道徳的愛、倫理的愛であるが、恋慕的側面をほとんどもっていず、性愛・性欲的側面を低く見ているのである。
 つまり、道徳的愛と性愛が分裂的になるのである。両者をつなぐべき恋慕的側面がないのである。
 それに対して、プラトンのエロースは恋慕であり、肉体的であり、また、天上的、霊的である。そして、後者は真理や善に通じるのである。
 単純化して言えば、キリスト教的愛は、天と地を切断して、精神的愛と肉体的愛を分離してしまい、両者をつなぐものがないのである。言い換えると、霊的愛が優位であり、肉体的愛が劣位であり、二項対立的なのである。
 それに対して、プラトンのエロース(恋慕)は、地上的エロース(恋慕)と天上的エロース(恋慕)の両面があるものの、キリスト教的愛とは異なり、分離せずに、いわば、階梯になっているのである。
 あるいは、神と人間をつなぐ中間的存在・神霊として、エロースを捉えているのである。
 ここには、性愛と精神愛を融合化しているのであり、過不足ないのである。
 無双陰陽原理の気的身体理性やセクシー・スピリチュアリズムであるが、それらは、プラトンのエロースに通じるのであり、キリスト教的霊的愛にではない。
 いったい、キリスト教は何に役立っただろうか。
 やはり、プロテスタンティズムと資本主義の相関性があり、資本主義の形成に役立ったということかもしれない。
 しかし、今や、ポスト・キリスト教時代である。プラトン・ネオ・ルネサンスの時代である。

追記:D.H.ロレンスの『逃げた雄鶏(死んだ男)』は、意外に思われようが、キリスト教的愛からプラトン的エロース(恋慕)への転回を意味していると言 えよう。そう、地上的エロースと天上的エロースの融合という意味合いが強い。天上のエロースと地上のエロースの融合である。とは言え、やはり、プラトン的 エロースを想起するのである。
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| sophiology | 02:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
陽大化による同一性化=物質化と螺旋的生命物質現象:そして、雌雄分化力学
テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

昨日、以下のように述べたが、今見ると、かなり重要なポイントが提示されているのではないかと思う。特に、物質形成原理における、不連続的差異論の同一性化の視点である。
 結局、螺旋的生命物質体が陰陽共振によって生まれるが、その外面が同一性=物質であると思われるのである。
 つまり、螺旋的生命物質体とは二重構成になっているように思われるのである。即ち、一つは陰陽共振による螺旋体の形成である。
 問題は螺旋力学である。これは、単純に、陰陽の牽引力によって、螺旋的に巻かれていくと考えていいのではないだろうか。
 思うに、陰陽螺旋体があるのであり、それは、実は物質体ではないと思われる。それは、言うならば、陰陽気の螺旋体であるように思われる。
 そして、陽大化という同一性=物質化の力学がその陰陽気の螺旋体に作用して、螺旋体を生命物質体に変容するのではないだろうか。
 故に、陰陽気的螺旋体+陽大化(同一性=物質化)という二重構成が考えられる。
 とまれ、陰陽牽引とは、太一への帰還衝動と考えられよう。
 だから、やはり、+1は天の方向と見ていいのではないだろうか。つまり、+1を物質と見るにしろ、それは、樹木におけるような尖端方向を意味すると思われるのである。
 以上は、植物、とりわけ、樹木や蔓植物のような生命体に当てはまることである。
 では、問題は、生殖の問題である。この力学はどうなるのか。これも太一再帰力動で説明できると思う。
 問題は単性生殖ではなく、有性生殖の方にあるかもしれない。何故なら、後者には、異性の2個体が必要となるからである。
 しかし、原理はそれほど難しくないのではないだろうか。個体における陰陽極性を分離させればいいのではないだろうか。
 では、この陰陽分離力学はどういうものだろうか。
 思うに、同一性=物質力学から考えられないか。
 即ち、陽=同一性が陰=他者に刻印するとき、物質が形成される。このとき境界ないし界面があるだろう。これをとりあえず、陰陽を逆にして、陽陰界面と呼ぶことにする。
 そして、陽陰界面の陽体が分離したのがオスであり、陰体が分離したのが、メスということではないだろうか。
 分離というよりは、陽陰界面の陽体性に傾斜しているのが、オスであり、陰体性に傾斜しているのが、メスと見た方が適切なように思える。
 結局、陽陰界面であるから、オスにしろ、メスにしろ、陰陽両性をもっていると考えられる。
 オスは内在・潜在する欠落的メス性を志向し、逆に、メスは内在・潜在する欠落的オス性を志向するということではないだろうか。(もっとも、欠落性という概念が妥当であるか問題があるが、今は、そう作業仮説する。)
 とりあえず、今日はここで留める。 

**************************

不連続的差異論の無双陰陽原理への適用:PS理論の結論に戻る?

物質とは何か:その1:不連続的差異論の(連続的)同一性の視点から物質原理を考える

今、ふと思ったが、不連続的差異論の段階での視点で、物質形成問題を考えたい。
 主体(主観の方がいいか?)があり、客体(客観の方がいいか?)がある。SとOとする。Sが陽であり、Oが陰である。S=陽は、自我同一性をO=客体に押し付ける。
 このとき、陰陽極性はなくなり、同一性力学が支配する。
 とまれ、この主体=陽中心力学によって、同一性が形成され、それが、物質になるのではないだろうか。
 つまり、陰陽即非力学において、陽の極大化(陽大化と呼んでおく)が生起して、陰を支配する事象が起こり、それが、同一性=物質化ではないだろうか。
 陽大化=同一性・物質化があれば、当然、逆に、陰大化があるはずである。これは、対称的である。
 では、いったい、この陰大化とは何だろうか。ひょっとして、これが、ダークマター(暗黒物質)ではないだろうか。これは措いておく。
 以上のように考えると、物質化は、陽大化であり、同一性原理が成立するのである。これはアリストテレス論理学とも言えよう。
 結局、陽大化による同一性化とは、陰陽即非極性(牽引/離反の矛盾力学)の消失であり、陽同一性による、プラスとマイナスの物質的極性の形成を意味する のではないだろうか。換言すると、陽同一性はプラスであり、否定される陰はマイナスになるということではないだろうか。正に、物質原理、電気の原理、ある いは、NとSに延長すると、磁気の原理、そして、複合すると、電磁波の原理になるのではないだろうか。
 ということで、不連続的差異論の段階での視点で、無双陰陽原理における物質原理を作業仮説的に考えてみた。

直近で以上のように考えたが、それは、結局、PS理論の結論と同じではないかと思った。
 私がPS理論に疑問をもったのは、プラス1とマイナス1の意味の問題であった。私のイメージでは、どうしても、同一性化はマイナス1であり、プラス1は 差異共振を意味したのである。そこで、PS理論と齟齬を来した。そして、オイラーの定理を哲学に主導的に適用することは間違いであると思った。
 結局、その時点では、物質はマイナス1であり、生命体はプラス1である。
 しかし、現時点で、同一性化=物質化をプラス1と捉えたのであり、そうすると、PS理論の考えと同じになるのである。ただし、
そう、PS理論の段階で、私はマイナス1はダーク・マターではないかと言ったが、それも現時点の考えと同じとなる。
 結局、問題は、同一性化のイメージにあったのである。その時の私のイメージでは、同一性化は、他者を否定するものであり、否定はマイナスと考えられるので、マイナスの他者にマイナスを掛けて、プラスになり、それが、虚数の掛け算で、マイナス1になると考えたのである。
 とまれ、現時点では、掛け算、乗法を考えていない。ただ、陰陽即非極性において、陽大化によって、プラス1が形成され、それが、物質(粒子)であると考えるのである。
 もっとも四元数で考えているので、三つの虚数は空間三次元を意味するのである。
 ならば、時間はどうなるのかということになる。
 今、思いつきを言えば、

霊「数」、陽、陰を仮説して、また、陰陽共振を✇で表わし、以下のように公式化する。無双陰陽原理公式である。
✪✇✡⇒a + bi + cj + dk 
or
✪✇✡⇒+1 + i + j + k

の数式における⇒が時間ではないかとしよう。
 では、気はどうなるのだろうか。気は、左辺のに潜在しているのではないだろうか。
 今はここで留める。

追記:陽大化であるが、それは、現時点では、すんなり、プラス1となる。かつて、同一性を他者否定と見ていたが、今は、陽自体の陰への押し付けと見ている。押し付けと否定は異なる。
 押し付けとは、喩えれば、ハンコを押すようなものである。つまり、陽のハンコを陰の紙に押すという感じである。
 それは否定ではない。
 以前は、否定の意味合いがあったが、今は消えている。
 否定は、思うに、病的である。それは、他者を自己から分離させることである。突き放すことである。
 そう、「分裂症」とは、あるいは、精神病とは、そのような力学をもつのではないだろうか。あるいは、パラノイアである。あるいは、父権的自我主義である。
 そう、否定はマイナスではなく、分裂、追放である。排除である。そこには、掛け算もないのではないだろうか。

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11504426011.html
| sophiology | 01:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
不連続的差異論の無双陰陽原理への適用:PS理論の結論に戻る?
テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

物質とは何か:その1:不連続的差異論の(連続的)同一性の視点から物質原理を考える

今、ふと思ったが、不連続的差異論の段階での視点で、物質形成問題を考えたい。
 主体(主観の方がいいか?)があり、客体(客観の方がいいか?)がある。SとOとする。Sが陽であり、Oが陰である。S=陽は、自我同一性をO=客体に押し付ける。
 このとき、陰陽極性はなくなり、同一性力学が支配する。
 とまれ、この主体=陽中心力学によって、同一性が形成され、それが、物質になるのではないだろうか。
 つまり、陰陽即非力学において、陽の極大化(陽大化と呼んでおく)が生起して、陰を支配する事象が起こり、それが、同一性=物質化ではないだろうか。
 陽大化=同一性・物質化があれば、当然、逆に、陰大化があるはずである。これは、対称的である。
 では、いったい、この陰大化とは何だろうか。ひょっとして、これが、ダークマター(暗黒物質)ではないだろうか。これは措いておく。
 以上のように考えると、物質化は、陽大化であり、同一性原理が成立するのである。これはアリストテレス論理学とも言えよう。
 結局、陽大化による同一性化とは、陰陽即非極性(牽引/離反の矛盾力学)の消失であり、陽同一性による、プラスとマイナスの物質的極性の形成を意味する のではないだろうか。換言すると、陽同一性はプラスであり、否定される陰はマイナスになるということではないだろうか。正に、物質原理、電気の原理、ある いは、NとSに延長すると、磁気の原理、そして、複合すると、電磁波の原理になるのではないだろうか。
 ということで、不連続的差異論の段階での視点で、無双陰陽原理における物質原理を作業仮説的に考えてみた。

直近で以上のように考えたが、それは、結局、PS理論の結論と同じではないかと思った。
 私がPS理論に疑問をもったのは、プラス1とマイナス1の意味の問題であった。私のイメージでは、どうしても、同一性化はマイナス1であり、プラス1は 差異共振を意味したのである。そこで、PS理論と齟齬を来した。そして、オイラーの定理を哲学に主導的に適用することは間違いであると思った。
 結局、その時点では、物質はマイナス1であり、生命体はプラス1である。
 しかし、現時点で、同一性化=物質化をプラス1と捉えたのであり、そうすると、PS理論の考えと同じになるのである。ただし、
そう、PS理論の段階で、私はマイナス1はダーク・マターではないかと言ったが、それも現時点の考えと同じとなる。
 結局、問題は、同一性化のイメージにあったのである。その時の私のイメージでは、同一性化は、他者を否定するものであり、否定はマイナスと考えられるので、マイナスの他者にマイナスを掛けて、プラスになり、それが、虚数の掛け算で、マイナス1になると考えたのである。
 とまれ、現時点では、掛け算、乗法を考えていない。ただ、陰陽即非極性において、陽大化によって、プラス1が形成され、それが、物質(粒子)であると考えるのである。
 もっとも四元数で考えているので、三つの虚数は空間三次元を意味するのである。
 ならば、時間はどうなるのかということになる。
 今、思いつきを言えば、

霊「数」、陽、陰を仮説して、また、陰陽共振を✇で表わし、以下のように公式化する。無双陰陽原理公式である。
✪✇✡⇒a + bi + cj + dk 
or
✪✇✡⇒+1 + i + j + k

の数式における⇒が時間ではないかとしよう。
 では、気はどうなるのだろうか。気は、左辺のに潜在しているのではないだろうか。
 今はここで留める。

追記:陽大化であるが、それは、現時点では、すんなり、プラス1となる。かつて、同一性を他者否定と見ていたが、今は、陽自体の陰への押し付けと見ている。押し付けと否定は異なる。
 押し付けとは、喩えれば、ハンコを押すようなものである。つまり、陽のハンコを陰の紙に押すという感じである。
 それは否定ではない。
 以前は、否定の意味合いがあったが、今は消えている。
 否定は、思うに、病的である。それは、他者を自己から分離させることである。突き放すことである。
 そう、「分裂症」とは、あるいは、精神病とは、そのような力学をもつのではないだろうか。あるいは、パラノイアである。あるいは、父権的自我主義である。
 そう、否定はマイナスではなく、分裂、追放である。排除である。そこには、掛け算もないのではないだろうか。
| sophiology | 02:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
物質とは何か:その1:不連続的差異論の(連続的)同一性の視点から物質原理を考える

物質とは何か:その1:不連続的差異論の(連続的)同一性の視点から物質原理を考える

 

テーマ:science:物質とは何ぞ哉

 

今は、ざっと述べる。

 オカルティストのルドルフ・シュタイナーは、彼のアントロポゾフィー(人智学)の究極的目的は、物質とは何かを探求することだと言っていた。

 霊学の探究者がこのように述べるのは、意味深長である。

 無双陰陽原理(無双PS原理の方が適切な名称かもしれない)は、思うに、精神原理をこれまで探求してきて、物質形成については、勿論、探求してきたが、精神原理の追求に比べると、弱いところである。

 これまで、四元数(しげんすう)を用いて、三つの虚数i、j、kによる空間三次元を物質体と見てきたが、そうではなく、実数1が物質ではないのかとふと思った。

 陰陽から物質への転換は質的転換であり、両者は不連続であると思われる。

 先に、陰陽結合が物質化であるという作業仮説を立てた。このとき、陰陽力の反発力が排除されて、陰陽は陽電子、陰電子になると言った。(陽電子、陰電子ではなく、電子と原子核と考えた方が適切かもしれない。陽が電子となり、陰が原子核になるのか。それとも逆か。要検討である。)

 つまり、この考え方は、陰陽の牽引/相反力において、相反力が排除されて、牽引力だけとなり、陰陽結合が為されて、物質(粒子)になるというものである。

 これは、言い換えると、陰陽エネルギーが物質(エネルギーを含めて)に変換したということと考えられる。

 陰陽エネルギーとは言い換えると、即非エネルギーである。この即非性が次元転換で消失して、プラスとマイナスの力学(物質の力学)へと転換すると思われる。

 今、ふと思ったが、不連続的差異論の段階での視点で、物質形成問題を考えたい。

 主体(主観の方がいいか?)があり、客体(客観の方がいいか?)がある。SとOとする。Sが陽であり、Oが陰である。S=陽は、自我同一性をO=客体に押し付ける。

 このとき、陰陽極性はなくなり、同一性力学が支配する。

 とまれ、この主体=陽中心力学によって、同一性が形成され、それが、物質になるのではないだろうか。

 つまり、陰陽即非力学において、陽の極大化(陽大化と呼んでおく)が生起して、陰を支配する事象が起こり、それが、同一性=物質化ではないだろうか。

 陽大化=同一性・物質化があれば、当然、逆に、陰大化があるはずである。これは、対称的である。

 では、いったい、この陰大化とは何だろうか。ひょっとして、これが、ダークマター(暗黒物質)ではないだろうか。これは措いておく。

 以上のように考えると、物質化は、陽大化であり、同一性原理が成立するのである。これはアリストテレス論理学とも言えよう。

 結局、陽大化による同一性化とは、陰陽即非極性(牽引/離反の矛盾力学)の消失であり、陽同一性による、プラスとマイナスの物質的極性の形成を意味するのではないだろうか。換言すると、陽同一性はプラスであり、否定される陰はマイナスになるということではないだろうか。正に、物質原理、電気の原理、あるいは、NとSに延長すると、磁気の原理、そして、複合すると、電磁波の原理になるのではないだろうか。

 ということで、不連続的差異論の段階での視点で、無双陰陽原理における物質原理を作業仮説的に考えてみた。

 まだ言い足りないが、ひとまず、ここで留める。

 

 

 

 

 

太一から陰陽分極へ、陰陽分極から再・新太一へ:太一と全一

 

テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

 

今日も森の参道口で思索した。
 始めに、太一ありき。(太一は西洋哲学の全一と共通するかもしれない。)
 太一(これは、点=1である)から陰陽分極化(線=2)が起こる。
 これは、xy直交座標を考えると、原点(=太一)から、y軸の方向に陰と陽が形成されるとみればわかりやすいだろう。

         陽
         ↑
         |
         |
         |
      原点 ・(太一)
         |
         |
         |
         ↓
         陰


(・が原点=太一である。)

陰陽分極化とは、言わば、対極への離反作用と考えられるのではないだろうか。これを、相反(そうはん)作用と呼べるだろう。これが、太一⇒陰陽分極の力学である。太一を気箸垢譴弌陰陽分極化は兇任△襦B┐繊

機太一
供П⇒枴極化

さて、兇料衄榛醉僂紡个靴董太一は吸引作用、牽引作用を次に引き起こすと考えられる。これは、作用と反作用の力学に近いだろう。あるいは、離と合、膨張と収縮の力学である。この吸引・牽引作用を合結作用とも呼ぼう。
 即ち、太一⇒陰陽分極⇒再太一の運動が生じる。

機太一
供П⇒枴極:相反作用
掘П⇒杠胴膂譟Ч膩觝醉僉ΑΑΑ弊弧進質現象化)

と序数化できる。(そう、一見、ヘーゲル弁証法に似ているが、似て非なるものである。違いの説明は今はしない。)
 思うに、靴虜胴膂貂醉僂砲いて、陰陽共振螺旋が発生するのではないだろうか。つまり、生命物質現象化が起こると考えられるということである。
 アリストテレス哲学で言えば、兇デュナミス、靴エネルゲイアとなるのではないだろうか。そして、靴竜結がエンテレケイアということではないだろうか。
 靴鮖邑疑堯覆靴欧鵑垢Α砲嚢佑┐襪函⊆多遙韻エネルゲイアで、三つの虚数i, j, kによる三次元がエンテレケイアではないだろうか。
 とまれ、靴留⇒杠胴膂譴任△襪、それは、原理は太一力学であるから、根源の太一への回帰を意味するのである。この再合一の牽引力がプラトンのエロースに当たると考えられる。
 しかしながら、陰陽次元にとっては、この牽引力は太一次元から発生するものなので、超越的な力ではないだろうか。そう、陰陽内在だけでは説明できないだろう。
 つまり、原点である太一であるが、それは、陰陽次元に作用するものの、陰陽界だけでは説明できない存在と考えられる。
 つまり、原点(太一)であるが、それは、言わば、超越点ではないだろうか。この超越点であるが、原点をどう理解するのかであるが、いわば、不連続点(特 異点)と見るのがいいのではないだろうか。それは、原点でゼロであり、陰陽の軸(y軸)に含まれると同時に、含まれない点と考えられる。陰陽に内在すると 同時に、超越している点、つまり、内在超越点(不連続的超越点)である。
 言い換えると、陰陽次元世界においては、再合一の力は感じられるが、その根源は説明できないということになる。だから、再合一の力(衝動)を生殖本能とかで説明することになるだろう。
 ここで、齟齬が生じている。再合一を螺旋的生命物質現象と考えたが、それを生殖作用とも見ているからである。
 今の段階では、再合一作用であるが、一つは、螺旋的生命物質現象、一つは生殖的作用と見ておくのに留めたい。(詳しい検討は、後日にしたい。思うに、太一の振動、リズムによって、螺旋的生命物質現象や生殖衝動現象は説明できるかもしれない。)
 とまれ、簡単に整理すると、内在超越点である太一から、陰陽分極化が起こる。それは、次元的下降である。即ち、太一次元から陰陽次元へと降りているのである。
 次に、再合一化であるが、螺旋的生命物質現象化の場合は、さらに次元が下降しているように思われる。
 そして、生殖作用であるが、それは、再合一化内部におけるさらなる再合一化と考えられよう。
 ここらへんの問題は複雑なので、今の段階では説明できないが、作業仮説として、第一の再合一化とは、同時に、陰陽分極を内在しているのではないだろうか。
 そう作業仮説すると、第一の再合一化内部の陰陽分極性であるが、それは、当然、それ自体の再合一作用をもつだろう。それが、生殖的衝動ではないだろうか。言うならば、再合一の再合一である。
 とまれ、蟻整譬有怯⇒枴極⇒訓⇒杞膂譬有険⇒杠胴膂譴醗楾圓垢襪里任△襪、気ら靴泙任麓仝飢執澆噺られるが、犬呂匹Δ世蹐Δ。靴らの次元下降なのだろうか。
 確かに、太一の原運動が超越的力学(原理)として気ら犬泙悩醉僂靴討い襪噺世┐茲Α
 しかし、直観では、靴ら犬悗琉楾圓蓮下降というより、上昇である。ここらへんの事象は複雑で、説明しにくいのである。つまり、靴麓仝飢執澆任△襪汎瓜に、次元上昇的である。そして、犬呂気蕕房仝犠緇催と考えられる。
 だから、正に、陰陽現象は次元的にも螺旋的であるということになろう。
 思うに、靴留篦垢箸靴董↓犬鮃佑┐譴弌¬簑蠅呂覆なろう。ならば、

 蟻整譬有怯⇒枴極⇒訓⇒杠胴膂譬有限整

となる。しかしながら、先にテトラクテュスで触れたように、兇鉢靴隆屬肪羇嵳彖任鯑れるべきである。つまり、気的身体理性、プラトンのエロースである。すると、

蟻整譬有怯⇒枴極⇒系孫膰桐⇒険⇒杠胴膂譬有溝整

となる。
 問題は形而上学と形而下学である。そう、太一陰陽原理は形而上学であり、思うに、気ら垢泙如形而上学である。超越原理である。
 思うに、この形而上学、超越原理による現象論理がここにはないのである。
 後で、それについて叙述したい。

 

 
| sophiology | 01:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
気的身体理性とプラトンのエロース(愛)
テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

今、数十年ぶりにプラトンの『饗宴』を読んでいるが、直観では、プラトンのエロースとは、私が先に唱えた、陰(身体)と陽(自我)を結ぶ第3のもの、即ち、気的身体理性と合致するのではないかと思い始めている。
 有名な事柄であるが、パウサニアスは、アフロディテには、二種のエロースがあると言い、天の娘(ウラニヤ)と万人向きのもの(パンデモス)と呼んでい る。しかしながら、勘違いしてはいけないのは、この二種のエロースをプラトンは、二項対立させてはいない。確かに、ヒエラルキーはあるが、差別はしてな い。
 つまり、言わば、天のエロースと地のエロースを結びつけて、前者への移行を説いていると言える。
 そして、両者の接点にもエロースが存すると考えられる。それが、私の説く第3のもの、気的身体理性と重なると思われるのである。
 私は、セクシー・スピリチュアリズムを説いているが、それは、正に、天のエロースに通じるのであり、また、地のエロース的要素も昇華的にもっているのである。また、そこには、気的身体理性が働くのであるから、正に、プラトンの接点のエロースに通じると思われるのである。
 読後に、詳述したい。

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饗宴


饗宴』(きょうえん、古希 : Συμπόσιον、Symposion、シュンポシオン)は、プラトン の中期対話篇 のひとつ。そのイデア 論を代表する著作の一つである。トラシュロス による伝統的副題は「恋について」。恋とはエロース( )である。

構成 [編集 ]

パレロン の位置。図の中央下。

登場人物 [編集 ]

後代話者 [編集 ]

回想部話者 [編集 ]

時代・場面設定 [編集 ]

紀元前400年 [1] 頃のアテナイ 。アポロドロスは友人に、紀元前416年 [1] にあった饗宴の話を教えてほしいとせがまれる。

アポロドロスは、ついこの間も、別の知人からその話をせがまれたことを明かしつつ、その饗宴は自分達が子供の頃のかなり昔の話であり、自分も直接そ こにいたわけではないが、そこに居合わせたキュダテナイオン区のアリストデモスというソクラテスの友人・敬愛者から、詳しい話を聞いて知っていること、ま た、その知人にパレロンの自宅からアテナイ市内までの道を歩きがてら、語って聞かせたので、話す準備はできていることを述べつつ、アリストデモスが述べた ままに、回想が語られる。

回想内容は、アテナイの悲劇詩人アガトン が悲劇のコンクールで初優勝した翌日、その祝いに友人を招いた饗宴での会話として設定される。ソクラテスはこの出席者のひとりである。標題『饗宴』はこのアガトンの祝賀饗宴を指す。

内容 [編集 ]

あらすじ [編集 ]

対話篇は大きく三つの部分にわかれる。

  1. エロス賛美の演説 - アガトンの祝宴に招かれたソクラテスとアガトンの対話から、ソクラテスの提案で、愛の神エロス を賛美する演説を行うこととなる。パイドロス、エリュクシマコス、アガトン、アリストパネスが演説を行う。[要検証 ]
  2. ソクラテスの演説 - ソクラテスは自分の説ではなく、マンネンティア出身の婦人ディオティマに聞いた説として、愛の教説を語る。
    愛(エロース)とは欠乏と富裕から生まれ、その両方の性質を備えている。ゆえに不死のものではないが、神的な性質を備え、不死を欲求する。すなわち愛は自 身の存在を永遠なものにしようとする欲求である。これは自らに似たものに自らを刻印し、再生産することによって行われる。このような生産的な性質をもつ愛 には幾つかの段階があり、生物的な再生産から、他者への教育による再生産へと向かう。愛は真によいものである知(ソピアー)に向かうものであるから、愛知 者(ピロソポス)である。愛がもとめるべきもっとも美しいものは、永遠なる美のイデア であり、美のイデアを求めることが最も優れている。美の大海に出たものは、イデアを見、驚異に満たされる。これを求めることこそがもっとも高次の愛である。(以上、ディオティマの説)
  3. アルキビアデスの乱入 - ソクラテスの信奉者である若いアルキビアデスが登場する。アルキビアデスはすでに酔っており、ソクラテスが自分をいかに愛さなかったか、自分がソクラテスを愛者(当時のアテナイでは、パイデラスティアー(paiderastia少年愛 ) という年齢が上のものが下のものを愛人とし、さまざまな庇護や社会についての知識を与えるのが通例であった)にしようとしていかに拒まれたか、また戦場で ソクラテスの態度がいかに立派なものであったかを語る。これはいままで抽象的に展開されてきた愛を体現した人として、プラトンが師の肖像を描こうとした部 分といえる。

アルキビアデスの乱入のあと饗宴は混乱し、夜通し騒いだ後みなが宴席で寝静まったところに、ソクラテスは酔い乱れることもなく、体育場へ出て行く。

補足 [編集 ]

人間の起源 [編集 ]

エロスに関する演説では、ソクラテスの同時代人の文体と思想がさまざまに模倣されている。特に有名なものは、アリストパネスのくだりである。

男と女はもと背中合わせの一体(アンドロギュロス)であったが、神によって2つに切り離された。このため、失われた半身を求めるのだ、というもの。この部分はテクストの文脈を離れてしばしば参照される有名な部分である。配偶者のことをone's better half, one's other half というのは、この説話に由来する。

『ヒュペリオーン』への影響 [編集 ]

ソクラテスが言及するディオティマは、「恋のことでもその他のことでも、何にでも通じる知者」とされる。ヘルダーリン の『ヒュペリオーン』に登場するディオティーマの造形はこれに多く拠っている。ディオティマは紀元前430年頃にはアテナイにいた実在の人物のように書かれているが、一般にプラトンの創作の人物であると考えられている。ただしフェミニズム 哲学では、ディオティマの実在性を主張し、女性哲学者としての地位を与えようとする試みがある[要出典 ]

訳書 [編集 ]

脚注 [編集 ]

  1. ^ a b c 『饗宴』 久保勉岩波文庫 p45

関連項目 [編集 ]

| sophiology | 02:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
検討問題:太一気の生命物質化の力学:陰陽共振四元生命物質体と三次元純粋物質:+1が気エネルギー?

テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

先の検討で、太一が気=生命(生命イデア)であるという作業仮説に達した。だから、太一気=生命イデアである。
 では、これが、どのように現象物質化するのか、その力学を考察しないといけない。
 これまでの考え方に拠れば、太一気=生命イデアが陰陽分極化
し、それが、太一気の存在によって、再度、太一へと復帰するように動くのが生命である。
 理論的には、陰陽分極様態において、太一気によって、太一気へと復帰するという考えは、まだまだ、弱い点である。が、今はおいておく。
 根本的に重要なのは陰陽分極が螺旋体を形成するとき、その螺旋生命物質体の力学である。その解明が必要なのである。
 これまで述べたように、生命物質と純粋物質は異なるのであり、前者は後者を包含すると考えられるのである。
 端的に、生命物質とは、気的物質である。気がそこには、存しているのである。これが、気のない純粋物質との根本的違いである。
 直観で言えば、陰陽共振による現象形成において、四元数(しげんすう)のプラス1が時間ないし気であり、三つの虚数による空間三次元であるが、それが純粋物質に通じるのでないか。
 生命物質体は、プラス1の気(時間と関係する)を基軸、中心軸にもつのであり、その周囲に三次元空間、あるいは、三次元物質体をもつということではないだろうか。
 そして、プラス1はエネルギーであり、それは、生成消滅するのであり、その消滅によって、空間三次元物質、つまり、純粋物質が残るということではないだろうか。純粋物質とは、「死体」・「遺体」である。生命は抜けているのである。
 後でさらに叙述したい。

<無双陰陽原理概念座標:Ver.14.1.0>

         陰陽軸(円)

          陽():自我
          |
          |
          |
          |
          |
          ★
_______・______実軸(時間・気=天地軸)+1
          ☆
          |
          |
          |
          |
          |
         陰():他者

【但し、・は太極点(内在的超越点、MP: Media Point)、★は陽における陰点、☆は陰における陽点である。
 そして、陰陽軸(円)は多次元、無限次元、無次元と思われ、陽=自我=知(認識)陰=他者=存在で、意識、精神、魂、自己=個を形成し、生命気螺旋とは区別される。
尚、実軸は時間軸=気軸=天地軸とし、太極点から発出する生命気螺旋における四元数(1, i, j, k)の三つの虚軸(空間三次元)は記入していない。時間は実数1に相当する。⇒は、気と見ることができるかもしれない。
 霊「数」、陽、陰を仮説して、また、陰陽共振を✇で表わし、以下のように公式化する。無双陰陽原理公式である。
✪✇✡⇒a + bi + cj + dk 
or
✪✇✡⇒+1 + i + j + k
 
| sophiology | 01:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
緑の聖霊:気とは太一の聖なるコスモス・エネルギー:植物的気認識による陰身体と陽自我の和合的浄化
テーマ:無双陰陽原理/トランス・サイエンス

今日も森の小道の角で、切られた杉の幹に座して考えた。
 
 陰と陽の和合において、気が存する。陰と陽の両極・両面をもった第3の中間的存在であるが、しかし、一者である。(キリスト教三位一体で言えば、聖霊に相当する。)
 気は直観では、太一に一致・合致する。聖なる気である。太一気である。ここにおいて、陽の智と陰の身体が一体化するのである。
 気的陽智性であり、気的陰感性である。
 超越性はこの気を介するのである。
そう、この気において、即非が為されるのである。陽智性と陰感性は別々であり、且つ、一体化されるのである。
 そう、この気は、植物的である。樹木的である。それは、緑の血液のようなものである。
 動物的な陰の場合、例えば、動物的性欲のような場合、それは、聖なる気のバランスを破壊するのである。
 それは、「アポロ」の領域を破壊するのである。
 植物的気となって、陽のアポロと陰のディオニュソスが和合するのである。
 シュタイナー的に言えば、エーテル体が陽の自我と陰のアストラル体を和合させるのである。
 植物的であるエーテル体=気が陰のディオニュソスを陽のアポロと一体・秩序化させるのである。ディオニュソスのカオスがアポロ的自我と植物的な気と結び、秩序=コスモス化するのである。
 性愛は動物的から植物的へと転移するのである。
 そう、エーテル体的な精神があるのである。気的「愛」の精神があるのである。気的共振の精神があるのである。植物的「愛」の精神である。
 思うに、これがキリストの精神(精霊・聖霊)ではないのか。天照大神、アフラ・マズダ、ミトラスではないか。
 気=エーテル体=太一の精神によって、陰と陽が和合する、コスモス化するということであり、植物的精神が平和な世界を構成するということと考えられる。
 とまれ、そうならば、陰陽世界とは何だろうか。
 太一精神が植物的気的精神ならば、陰と陽もその分化・分極化と考えられよう。
 太一気、太気があり、それが、陰陽分極化する。陰魂と陽霊に分極化する。
 陽霊が自我を、陰魂が感性・動物的身体を形成する。
 結局、当然ながら、緑の聖霊が、陽の自我を、陰の動物存在を形成するのである。始めに、緑ありき、となる。
 そう、緑の聖霊、緑のコスモスがあり、それが、自我と動物をも形成するのであるが、自我と動物は、いわば、緑の聖霊の鬼っ子となるのである。
 しかし、進化、宇宙進化は、陰陽宇宙を緑の宇宙・コスモスへと改新させると考えられる。
 シュタイナー的に言えば、陽自我のアーリマンと陰動物のルシファーの対立を調停するのは、緑の聖霊のキリストである。緑の太陽であるキリストである。
 植物的聖霊が二つの悪魔を調停して、陽自我と陰存在を気緑化するのである。
| sophiology | 22:01 | comments(0) | trackbacks(0) |

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