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東京父権的近代主義批判:一神教的父権主義日本と「縄文」的母権主義日本の分裂二重性の超克
東京父権的近代主義批判:一神教的父権主義日本と「縄文」的母権主義日本の分裂二重性の超克

テーマ:ポスト・ニッポン/太陽国ルネサンス

一つ日本社会における問題点を指摘すると、現代日本人の殺伐とした攻撃的な精神性は、上述した超越的同一性構造に拠るとは言えるものの、それだけでは、不十分だと考えられる。現代日本人、とりわけ、東京人の殺伐さは、近代的自我に拠るとは言え、極めて極端なものに思えるのである。つまり、差異の否定・排除・隠蔽の度合が極めて強く、病理的になっているのである。近代的自我そのものが、病的であるが、それが、徹底していると思うのである。近代的自我病理に、東京人が集団的に染まっているように思えるのである。そして、これは、日本人全体に感染するのである。
 この原因は、思うに、東京における生活の、過度の同一性自我意識にあると思う。一種過度の競争心であるが、病的な競争心である。己の差異を忘失しての病理的な競争心である。これが、どこから生まれたのか。つまり、ここには、個がないのである。単に、近代的自我が、個・差異・特異性を暴力的に排除している社会様態がここにはあるのである。
 この問題は、とても本質的な重要さをもっていると思う。何故、東京社会において、近代的自我意識が跋扈して、個・差異・特異性を攻撃的に否定・排除・隠蔽するのか。東京の問題点がある。これは、日本人の個・差異・特異性にも、当然、関係する重大の事柄である。何故、東京社会には、近代的自我、近代的合理主義、近代主義が、跋扈するのか。直観では、マインドコントロール・洗脳があると思う。また、何か、地方出身者の精神の有り様にも関係していると思う。現代、江戸っ子の精神がほぼ消えている。(漱石が『坊ちゃん』で問題化したのは、ここに何か関係するようにも思えるが。)
 とまれ、近代的自我として、攻撃的であること、マッチョ的であることが、東京において、ステータスの有り様となっているのだ。これは、一体どこから生まれたのか。私に言わせれば、このような無粋さ、野蛮さを価値としている起因は何であるのか。ひとことで言えば、ここには、父権主義がある。もっとも、近代的自我が、父権主義的である。いくら、民主主義云々と説いてもそうである。
 何か、東京社会には、根本的な倒錯があるのだ。それは、何か。父権主義と結びついた近代的自我である。これは、欧米の個人主義とは異なるのである。何故なら、欧米は、ルネサンスに発する個人主義・差異主義がベースにあるからである。他方、その反動としてのプロテスタンティズム的同一性自我ある図式である。日本の近代的自我には、このルネサンス的個人主義・差異主義が欠落している。ルネサンスとは、換言すると、母権的個人主義だと、私は考えている。そう、差異共振主義があると思うのである。日本、とりわけ、東京社会には、これが、欠落している。これは、いったい何なのか。狂気の社会なのである。
 考えられるのは、日本の父権主義と欧米の近代的自我主義とが結びついたものが、この東京近代的自我である。では、日本の父権主義とは何だろうか。私は、ここに、日本社会の元凶を見ている。西洋の近代主義も、狂気的ではあるが、日本の父権主義も狂気的である。狂気+狂気の、二重狂気である。私は、以前に、日本の父権的部族主義という考え方をした。これは、先には、豪族主義と呼んだ。(思うに、ヤクザ社会に共通する何かがあるのではないだろうか。)
 この父権的部族主義、豪族主義とは何か。また、病的な競争心とは何か。深い精神病理・社会病理・狂気の病巣がある。差異を徹底して憎悪して排除する「精神」が、東京社会を、支配している。差異への狂気的な憎悪、これは、何か。これが、東京、日本を、狂わせている元凶だと思う。
 ここでは、直観で述べよう。一つは、日本のナショナリズムがあると思う。国学から発するナショナリズムである。これは、連続・同一性主義であり、差異を排除している。一つは、・・・。
 そう、どうも、バビロニア神話他におけるような父権神話と同質の純粋な父権主義があるのではないだろうか。それは、言わば、純粋父権主義、絶対的父権主義である。二項対立暴力である。差異である母権主義を完全否定する父権主義である。どうも、これが、日本社会にあると思う。二年前に、日本の母権主義と父権主義の分裂的二重性について言及した。前者は、「縄文」文化であり、後者は、「天皇族」文化である。そして、これが、不連続であると私が、その時、考えたのである。つまり、差異と同一性との分裂があるということになるだろう。今考えても、日本の社会の歴史は、この母権的差異と父権的同一性の分裂的二重社会の歴史と言えよう。これは、現代においても、まったく変わらない。自民党/公明党は、これを利用しているのである。小泉/安倍自民党は、この二重性に立っているのである。

火焔土器

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Jomon_vessel_3000-2000BC.jpg

 ようやく、見え始めてきたようだ。思うに、日本社会には、ユダヤ・キリスト教と共通するような父権主義をもつ部族(「天孫降臨族」)がある時代に到来して、伝統的であった母権的社会(「縄文」的母権社会)を支配するようになった。しかし、その支配のために、後者の宗教文化を前者は利用したのである。それが、「天皇制」である。「天皇(日御子)」信仰とは、本来、イシス・オシリス宗教、聖母子・聖母マリア信仰、等に通ずる宗教であると考えられる。それを、父権主義が利用して、天皇制に祭り上げたのである。原日本人は、「天孫降臨」父権民族に、いわば、騙されているのである。この構図は、現代の自民党/公明党支配でも、まったく、変わらないと考えられるのである。

王冠型土器

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Oukankeidoki.jpg

 ということで、私が問題にした、日本の父権主義、父権的部族主義とは、純粋・絶対父権主義であったという仮説になったのである。(もっとも、今の段階では、作業仮説であるが。)つまり、ユダヤ・キリスト教的一神教的父権的民族が、古代日本に到来して、強力な父権主義を、世界的に稀な母権社会である日本に、分裂的にもたらしたのである。これが、日本社会の、日本人の、本質的構図・構造であると考えられる。

遮光器型土偶

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:JomonStatue.JPG

 だから、日本近代とは、きわめて、異常な社会なのである。つまり、欧米の父権的近代主義と日本の父権主義を合わせたものであるからである。過剰な父権主義がここには存しているのである。私が、近代的自我の狂気と考えたもの正体がこれである。結局、ハイパー父権主義、ハイパーな近代主義が、現代日本、東京に存しているのである。私が、東京社会の病的な競争心と見たものの根因とはここにあったと考えられるのである。日本的ユダヤ・キリスト教的父権狂気なのである。それがベースとなり、ルネサンス的個人主義、母権的差異主義を除いた、西洋近代的自我が形成されているのである。
エウレカ!!!


注:本稿は「イデア・共振シナジーと歓喜:極性シナジーと能動/反動」http://ameblo.jp/renshi/entry-10016573185.html
の後記p.p.s.を独立させたものです。
| sophiology | 19:44 | comments(0) | trackbacks(1) |
日本の知性の問題:連続・同一性中心主義の知識が、支配し、差異の合理性が無視される精神風土の問題
日本の知性の問題:連続・同一性中心主義の知識が、支配し、差異の合理性が無視される精神風土の問題


私事を言わせていただくと、私は、生前の亡父に悩まされた。具体的なことは言うまい。ただ、人の話を無視する自己中心主義者であり、多くの人に物心ともに多大な迷惑をかけたことだけは言っておきたい。
 なぜ、こんなことをいうのかと言うと、その亡父の父権主義には、今日の日本を絶望的にしているものに通じるものがあると思われるからである。
 そう、簡単に言えば、差異共振性をまったく否定・無視・阻害・排除した連続・同一性中心主義が両者共通だと思うのである。この狂信的な頑なさが、日本を、どん底に落としているのである。おそらく、この類型は、日本の多くの場所で、見られると思うのである。官僚・役人を初め、マスコミ人、知識人・文化人、その他、このタイプである。
 この日本的父権主義を超克しない限り、日本は、没落するだろう。この恐ろしく傲慢な、狂信的な、連続・同一性中心主義・父権主義は、いったい、どこから、生まれたのだろうか。太平洋戦争の狂気も、ここから発しているだろう。私は、以前、これを、父権的部族主義と呼んだ。
 私なりに、洞察してみよう。この恐ろしい傲慢さ・狂信さには、ルサンチマンがある。陰惨冷酷さがある。深い闇がある。つまり、差異共振シナジーの原光がないのである。一切が闇である。やさしさのかけらもない。酷烈無惨である。そう、D.H.ロレンスが、『黙示録論』の最初の方で述べている自己栄光化の衝動につながるのである。ニーチェが執念深く剔抉した、キリスト教的陰惨な奴隷根性に結びつくだろう。「賎民」の欲望である。この日本的「賎民」が父権主義と結びつき、日本社会を、暗黒にしているのである。そう、精神の虚弱さ、劣弱性である。
 原因は、以前考えたが、暗い精神的環境ではないだろうか。勿論、暗い貧しい環境も一つの要因かもしれないが、それ以上に、暗い精神的環境が根因ではないかと思われるのである。
 そう、彼らは、本当の光に触れたことがないのだろう。闇しか見てこなかったのではないだろうか。だから、闇しか知らないのである。即自的差異共振性、可能的差異共振性に対して、差異共振シナジー・エネルギーが与えられなかったと考えられる。そう、叡知が与えられなかったのだろう。真の教養の欠落があるのではないだろうか。精神の教養に触れていないと思われるのである。だから、成長後、精神教養を忌避するのだろう。俗物である。俗物と言うのも的確だ。
 俗物・没精神教養人・「賎民」、彼らが、父権的部族主義を形成している。一言で言えば、精神の伝統文化の切断・断絶(比較参照:三島由紀夫の「断絃の時」)があったのだろう。私の直観では、これは、意外に明治維新に起こったと思う。西郷隆盛らを見捨てた、明治維新。伊藤博文、山県有朋、福沢諭吉らの明治。ここに、日本精神文化の断絶が起こったのではないだろうか。二つの明治維新があるのではないか。
 独断、偏見、誤解を恐れずに言えば、国学が胡散臭く、怪しいのである。本居宣長が胡散臭いのである。彼の大和心は、実は、漢心である。即ち、二項対立なのである。つまり、日本近代主義の原点がそこにあると思うのである。この二項対立が、日本の根源的な精神文化・差異共振文化(日本母権的多神教精神文化)を否定・排除したと考えられるのである。国学の一神教文化が、明治天皇制を生み、差異共振文化である神仏習合を破壊したと思うのである。国学的日本一神教が、日本の精神文化の破壊をもたらしたと思うのである。小泉首相の靖国参拝は、国学の国粋主義に通じるだろう。そう、やはり、ここである、日本の癌の病巣は。

p.s. もう一点つけ加えると、この連続・同一性中心主義であるが、上述からわかるように、実は、差異共振性がないことはないのである。即ち、即自的差異共振性、可能的差異共振性(=精神の種子・卵)は、本来、誰にでも先天的に備わっていると考えられるのであるが、この精神の種子・卵のための光の教養・知的養分が与えられなかったために、連続・同一性中心主義になったと考えられるのである。だから、ネガティブとなり、自己肯定的になれず、絶対的闇となり、他者を否定する連続・同一性中心主義になったと考えられるのである。自己の絶対的暗黒が、他者への暴力になるのだろう。小泉異常気象首相であるが、やはり、幼いころに、精神の養分を与えられなかったのであろう。精神の闇を抱えてしまったのである。その悲しみが、ルサンチマンとなり、自己中心主義化して、冷酷無残になると言えよう。

p.p.s. 追記から、即自的差異共振性=精神の種子・卵の見方から、光の教養とは、一種、光の精子になるのではないかと思った。即ち、即自的差異共振性=精神の種子・卵は、未受精であり、それが、精神光の精子によって受精して、即自且つ対自的差異共振シナジーになると思うのである。未受精の暗黒精神、これが、日本の闇の真相であろう。
| sophiology | 10:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
 正常な判断能力を失った小泉首相  森田 小泉構造改革は社会的・経済的強者だけに躍進のチャンスを与えました。地域で見ると、東京を繁栄させ、地方を切り捨てただけです。大工業を栄えさ、中小零細企業を衰退させました。国民は少数の成功者と、大多数の不成功
日本国民覚醒ための、森田実氏の日本救世の闘争宣言だ!!!
これは、武士道の森田実氏の日本救世の炯眼の言葉である。
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2006.3.1
2006年森田実政治日誌[115]

小泉首相は直ちに辞職せよ!/小泉構造改革は日本社会を崩壊させる

【『月刊日本』3月号インタビュー記事】



 万死に値する小泉・竹中コンビ



 ―― 小泉政権の推し進めてきた「構造改革」でインターネット社会が急速に進展しましたが、そのアダ花ともいうべきライブドアの堀江貴文容疑者が証券取引法違反容疑で逮捕されました。ホリエモン逮捕で、小泉改革の陰の部分が一気に噴出した感があります。
 森田 ホリエモンを生み出したのは、実は小泉「構造改革」です。小泉政権が推進してきた構造改革路線は、今回のホリエモンの逮捕によって正当性を失った、ということです。
 小泉純一郎首相、竹中平蔵経済財政・郵政民営化担当大臣、武部勤幹事長らが、逮捕されたライブドアの堀江容疑者を昨年の総選挙に立候補させ、応援しましたが、これが小泉政権の本質を象徴的にあらわしています。
 東京地検特捜部が堀江容疑者を逮捕しましたが、この容疑者を小泉首相と竹中大臣、さらに与党の幹事長が積極的に構造改革の旗手として推薦・応援していた。この責任は大変重く、内閣総辞職に値することだと思います。
 ―― 小泉首相ら政府与党幹部は、「ライブドアの実態がわからなかった」などと弁解しています。 森田 証券取引法違反という容疑は総選挙の1年前のことですから、あらゆる情報を収集分析できる立場にある官邸が何も知らなかったということはあり得ません。ホリエモンのやっていることは怪しいと、匂いでわかったはずです。
 ライブドアが市場原理主義を振りかざして、ニッポン放送やフジテレビの買収を仕掛けていた頃から、私はこの人物はおかしいと睨んで、株価を意図的につり上げて違法なことをやっているのではないかと、マスコミを通じて何度も警告してきました。この問題は私だけではなく、多くの評論家も指摘していました。
 そんな人物を政府与党の幹部がこぞって応援し、国会議員にしようとした責任は非常に重大です。
 しかも重要なことは、ニッポン放送株の買い占めが時間外に行われたことで、これは証券取引法に照らして明白な違法行為です。百歩譲っても、道義的に許されざる行為です。その張本人を小泉首相、竹中経済財政政策担当大臣らが擁護し、選挙の応援をしたのです。違法行為、百歩譲っても、道義的に許されざる行為を最高権力者が擁護したということは、許されざることだと思う。
 小泉首相は「事件と選挙応援は別問題だ」と言い逃れをし、さらには「メディアがホリエモンを持ち上げた。逮捕されると、手のひらを返すのはどうか」と、逆にメディア批判を展開しました。国家指導者として、あまりに姑息な対応であり、情けないほどの卑しさだと思いますす。
 こうして儲けるためには法を曲げ、時には法に違反してもいいという無責任な風潮や論理が蔓延していますが、このままでは日本の秩序は崩壊してしまいます。この一点で、小泉内閣は総辞職に値すると私は考えます。
 ―― 自民党はホリエモンを亀井静香さんの選挙区へ刺客として送り込みました。この時、森田さんは「堀江のような男を国会議員にしてはならない」と演説されましたが、このホリエモンを精力的に応援したのが竹中大臣だった。彼は「小泉首相とホリエモン、そして竹中のコンビが、小泉改革を実現する」と叫んでいたにもかかわらず、マスコミの竹中批判の声は小さい。
 森田 おっしゃるとおり、竹中大臣の責任が最も重いと思います。彼は5年間弱の小泉政権で、むしろ小泉首相を引っ張る形で、一貫して金融自由化を推進してきた人物です。ライブドアの主たる業務は金融です。政府の金融問題に関する最高責任者が、ライブドアの支援者という存在ですから、ライブドアはいわば政府が国家保証したようなのです。
 竹中大臣の果たした役割は大変悪質です。彼は政府保証をして株価をつり上げ、大儲したあげく、食い逃げするのを黙認した。竹中大臣の罪は万死に値します。これは、武部幹事長と同等に扱うべきではない。もっとずっと深刻な問題なのです。



 平成版大政翼賛体制を可能にした電通の巨大な影響力



 ―― しかし、野党の竹中追及はきわめて弱い。また、どういうわけか、マスコミも竹中大臣に対しては腰が引けている。
 小泉政権の5年間、マスコミはワンフレーズの小泉言語の幻惑されて、政権批判を避けてきました。とくに昨年の郵政解散をめぐっては、郵政民営化の問題点を指摘した自民党の良識派を徹底して批判し、マスコミから干し上げましたね。
 森田 小泉応援団は、テレビをはじめとするマスコミでした。マスコミは権力者に都合の悪いことは報道しなかった。いわば、テレビ局は「権力の手先」になってしまった。テレビ局も新聞社も上層部が大体において政府に抑えられしまったのです。
 私は昨年の総選挙の前後、テレビで評論活動をしましたが、某テレビ局は、それまで私が一人で解説していた番組に自局の解説者を出演させ、敢えて私の発言を否定するコメントさせるなど、意図的に私の発言を邪魔しようとした。他のテレビ局もほとんど録画取材で、テレビ局の都合の悪い部分、つまり小泉批判の部分をカットして、放映する。テレビ局は完全に小泉政権の手先になってしまいました。テレビ局およびその政治部記者がほとんど権力の「お庭番」になってしまった。実に残念なことです。
 マスコミが報道姿勢を曲げた重要な原因の一つに、「広告」という要素があります。テレビ局は民放の場合、100%広告収入に頼っています。このテレビ局や新聞の広告収入に絶大な影響力をもっているのが、広告代理店最大手の電通です。新聞社の収入も、いまや購読料よりも広告料に比重が移っています。テレビや新聞が広告収入に依存する割合が大きくなった分だけ、電通が強大な影響力を行使するようになってきたのです。 ―― これまで電通を論じることはタブー視されてきました。「電通を批判したら、テレビや大新聞に登場できない」と言われてきましたが、森田さんは敢えて電通を批判しておられます。
 森田 すべてのマスコミは電通の軍門に下ったということです。「電通に睨まれたらオシマイだ」という状況下で、小泉政権は電通と手を組んだのです。小泉政権―電通―大新聞―テレビが一体になった「平成版大政翼賛体制」を可能にしたのは、電通の巨大な影響力です。
 この電通は実は、アメリカ共和党系の広告会社と提携しており、日本政府―アメリカ―電通が一体となって、日本のマスコミをコントロールしているといっても過言ではありません。アメリカは日本のマスコミを使って小泉政権を支え、小泉政権によって日本国民の富をかき集めてアメリカに流し込む、こうした役割を小泉政権に果たさせているのです。
 こうして、小泉政権は巧妙にメディア戦略を駆使しながら、公明党や官僚をも取り込み、「平成版大政翼賛体制」をつくって、国民を収奪しています。これが小泉政権の本質なのです。



 ブッシュのポチに成り下がった小泉政権



 ―― 「光と陰」が、流行の言葉になっています。
 森田 私に言わせれば、「光と陰」ではなく、構造改革を標榜してきた小泉政権は実は「暗黒社会」を日本にもたらしたのです。 光が当たっているのは大資本家やライブドアなど、「国民の大部分が貧困化してもよい。われわれだけが金儲けすればよい」と考えている連中だけです。彼らはリストラやマネーゲームで利益を上げ、大儲けしています。しかし、彼らは愛国心を失った、自分さえよければいいという連中です。大部分の国民は日陰に放置されたままです。
 ここで私が強調したいのは、小泉政権になって一番儲けているのは、アメリカだということです。小泉政権は日本国民の富をアメリカに移転する仕掛けを完成させ、アメリカに貢献してきたのです。
 ―― 「対米隷属政権」の小泉政権は、完全にブッシュのポチに成り下がったということですね。
 森田 そのとおりです。
 アメリカは冷戦時代に、ソビエト連邦に勝つために軍事力を拡大し、同時に国民の支持を得るために巨額の減税をしました。軍事費拡大と巨額の減税で、アメリカの財政は破綻寸前になりました。本来であれば、アメリカは自国民から税金を集めて、自国の国家戦略を遂行すべきです。ところが、レーガン政権はアメリカ国民に減税をする一方、軍事力を急速に拡大した結果、巨額の双子の赤字が出しました。
 実は、この赤字の穴埋めをしたのが日本なのです。
 中曾根政権下の1985年9月22日の「プラザ合意」で、対米従属の第一歩を踏み出しました。プラザ合意で急速な円高になった日本は、ドルを遮二無二買いました。そのドルでアメリカ国債を買った結果、日本の巨額な金融資産はアメリカに流出してしまった。アメリカ政府は「日本の安全はアメリカが保障している」と、このカネを返すつもりはありません。90年代後半期に訪米した橋本首相は「米国債を売ろうという誘惑にかられる時がある」と述べて、アメリカの怒りを買った橋本政権は吹っ飛ばされてしまいました。
 90年代初めにクリントン政権が登場して、「年次改革要望書」が出されれるようになりました。郵政民営化はこの「年次改革要望書」の中で、アメリカが執拗に要求していた問題なのです。クリントン政権下で一時は持ち直すかに見えたアメリカの双子の赤字は、ブッシュ政権になって再び急増して、アメリカの財政は破綻寸前です。そこで郵貯・簡保の350兆円の金融資産をアメリカに移転させ、赤字を埋めようようというのが郵政民営化の本質なのです。つまりアメリカの財政赤字を日本の金融資産で補填させようというのです。
 アメリカは、日本の金融資産による米国財政の赤字補填を露骨にやらずに、「年次改革要望書」という形で日本の構造改革を誘導しようとしました。それが小泉政権のいう「官から民へ」というスローガンで進められた郵政民営化なのです。民営化すれば、自由競争で強い者が勝つのは当然です。このアメリカの遠謀深慮が功を奏して昨年8〜9月に、ついに小泉首相が郵政クーデターをやったというわけです。
 07年10月に郵政公社が完全に民営化するや否や、外資が民営化した会社を買収して、日本人が営々として貯めた富がアメリカに流出することは目に見えています。
 ―― このまま小泉路線が続けば、日本の富は枯渇し、スッテンテンになってしまいますね。
 森田 日本は搾り取るだけ搾り取られて、2015年あるいは2020年頃にはボロボロになる。その時、アメリカはインドと中国を新しいパートナーにするでしょう。アメリカは、こうしたことを見通して、渡り鳥のように次の目標を設定して飛び立つ準備をしているのです。
 小泉首相は唯々諾々と、このアメリカの戦略に従っている。これが小泉政権の本質だと私は見ています。



 小泉構造改革で地域社会は死んだ 



 ――― 小泉構造改革の陰で全国の地方社会が疲弊したと聞きますが、実態は?
 森田 小泉首相は「三位一体改革」と称して、全国の地方自治体に対する補助金を大幅にカットしています。地方の公共事業もどんどん減らしています。公共事業と自治体に対する予算削減額は年間約6兆円に上っています。アメリカに巨額の資産を流出させていながら、地方からは搾り取っている。だから地方はもうカラカラになって、悲惨なものです。
 国庫補助金や公共事業を削減すれば、、公共事業でやってきた地域社会はどんどん疲弊しており、災害が起こっても復興事業を行えない状態になっています。それほど日本の地域社会はガタガタになっているんです。
 政府は「景気は回復した」と言っていますが、地方に行くと、「どこの国のこと?」という感じです。最近、帯広に行きましたが、町は閑散としており、地域経済はメチャメチャだそうです。熊本でも「東京が景気がいいそうだが、この景気が熊本にくるには10年ぐらいかかりますかね」と言っており、地方経済は大袈裟に言えば絶望的です。
 このように小泉構造改革の陰で全国の地方社会が疲弊し、賃金がどんどん下がって、平均年収200万円を割るなど、貧困化が急速に進んでいます。
 さらに小泉政権は政府系金融機関の整理統合を進め、中小零細企業向けの金融機関をなくそうとしています。この結果、今後、中小零細企業の倒産が増大する可能性があります。実はアメリカでは、行き過ぎた自由競争の結果、中小零細企業の倒産が相次ぎ、健全なアメリカ社会と構成していた中間層が崩壊してしまいました。小泉政権の構造改革の名の下に、日本でも健全な中産階級が崩壊するのは目前です。
 行き過ぎた小泉構造改革が作り出した社会の歪みを是正することが、ポスト小泉政権の喫緊の課題です。そのためには経済成長によって全国民の生活レベルを上げる政策をとり、全国民が希望を持てる世の中にすることです。



 正常な判断能力を失った小泉首相



 森田 小泉構造改革は社会的・経済的強者だけに躍進のチャンスを与えました。地域で見ると、東京を繁栄させ、地方を切り捨てただけです。大工業を栄えさ、中小零細企業を衰退させました。国民は少数の成功者と、大多数の不成功者に分かれました。
 つまり小泉改革は強者に光をもたらす反面で、弱者を陰の地帯に放置したのです。
 しかも小泉首相が悪質なのは、マスコミを使って「改革だ。改革だ」と煽りたて、地域社会は火が消えたようになってしまったことです。この結果、生活保護者世帯が急増し、大衆の貧困化がすごい勢いで進んでおり、少数のホリエモンのような、どう考えてもまともな商売ではない手馴れた連中だけが儲かっています。
 去る2月1日の参院予算委員会で小泉首相は「格差は悪いことではない」と答弁しましたが、私はこの答弁は開き直りの暴言であり、内閣総辞職に値するものだと思います。
 さらに小泉首相は「成功者を妬んだり、能力ある者の足を引っ張ったりする風潮」を非難していますが、内閣総理大臣たる者は、このような国民を馬鹿にするような発言は厳に慎むべきだと思います。小泉首相はもはや正常な判断能力を失ったのではないかと思うほどです。9月の任期を待つことなく、いますぐにでも辞任すべきだと思います。
 前述のように、日本の巨額の国富をアメリカに移転させ、その結果、日本の中小零細企業をいじめ、地方を切り捨てて、中産階級を崩壊させてしまいました。小泉首相がやってきたことは、自民党を潰すことではなく、日本社会を潰すことだったのです。
 私は、小泉政権の5年間は「罪と罰」だと思います。「罪」多き者は「罰」を受けなければならないのです。



 日本のマスメディアはインチキだ



 ―― それにしても、マスコミは堕落、腐敗しましたね。
 森田 私は占領下の日本を知っていますが、この7年弱の占領期間中に日本のマスコミは完全にアメリカに骨を抜かれてしまった。終戦後、私のいた日本評論社は『日本評論』という総合雑誌を出版していましが、占領政策批判の記事を掲載したとたん、即刻発行禁止処分を受けました。当時の総合雑誌『改造』も占領政策批判をして同様に発行禁止にされ、結局倒産してしまいました。占領軍は、表向き民主主義を推進・擁護していましたが、裏へ回ると、アメリカや占領政策を批判をするものは容赦なく潰してきたのです。
 ―― 占領軍はプレス・コードを発令し、憲法で禁止さていた検閲を実施しました。

 森田 彼らの巧妙なところは事前検閲をし、検閲事態を闇の中に隠してしまったことです。当時の新聞社はそれに脅えて、「占領軍に睨まれたら終わりだ」「アメリカ批判さえしなかったら生き延びられる」ということで、批判精神を放棄してしまいました。マスコミは、アメリカを批判をせず、ゴマすりをし、さらにはアメリカ賛美の宣伝だけを報道するようになってしまった。これを私は自分で体験してきたからこそ、よく知っています。
 かつて江藤淳さんが、著書『閉ざされた言語空間』の中で、アメリカの資料を駆使してこのことを実証的に検証しています。
 ―― 彼ら大新聞は占領軍に協力して検閲をし、国民の「知る権利」を奪ってきた。しかし、いまだに彼らは自己批判していません。自分たちの都合のいい時だけ、国民の「知る権利」を主張していますが、これは許せない。
 森田 日本のマスメディアはインチキです。自分たちは格好のいことを主張しながら、肝心のアメリカには腰が引け、ゴマばかりすっています。戦後はアメリカで教育を受けた新聞社の編集者・記者が増えて、アメリカの徹底批判を避け、アメリカは日本よりすぐれた国だという幻想を振りまいているのです。アメリカ賛美がマスコミの役割になってしまっているのです。日本のマスコミはこういう状況に置かれてしまい、正当なる批判精神を失ってしまいました。真実を報道するという姿勢すら失ってしまったのです。
 とくに小泉政権になってから、権力によるマスコミの完全支配が確立しました。これに、電通が加わることで、二重三重に小泉政権によるマスコミの支配が確立してしまったのです。そして不思議なことは、誇り高いはずのマスコミ言論人が、権力に唯々諾々と従っていることです。ここが、問題なのです。



 日本人よ、独立心を取り戻せ!



 ―― 最近の日本人には、独立国として生きていく気概が希薄になってしまったのでしょうか。
 森田 日本は独自の歴史・伝統・文化をもった人口1億2700万人の大国です。日本は独立自尊の国家として生きていくしか進路はありません。ところが、私が講演で全国各地に行くと、まったく異人種かと思うような人が時々いるのです。彼らはこう言うのです。「われわれ日本をアメリカの51番目の州にしてもらい、アメリカに全部面倒見てもらった方がいい」
「アメリカ市民として日本人に選挙権を与えてもらえれば、日本人を大統領に選べるチャンスがある」
 はじめは冗談かと思いましたが、そうではないのです。日本国民たる者は独立国日本として生きていくという気概をもっているものだと思ったら、こういう人が出てきたのですから、恐ろしい時代です。
 これは、長年にわたる日米同盟の宣伝のために日本人が独立心を失い、独立国家としての気概を失ってしまったからです。国連加盟国に中で、独立国として生きていくという気概・精神を失ってしまった国は他にあるのだろうかと思うと、情けない。かつてのソビエト連邦下の東欧衛星諸国は傀儡政権でしたが、彼らは厳しい統制下でも民族自決の気概を燃やし、国家独立の機会を虎視眈々と狙っていました。
 1億2700万人の人口を擁する大国の国民のなかから、「アメリカの一員にしてもらいたい」「植民地になってもいい」などと言う者が現れるほど、情けない国になってしまったのか、と言いたくなります。小泉政権になってから、そういう人が増えてきた。実に痛恨の極みです。
 ―― いまの政治家に何を期待しますか。
 森田 私は政界、官界、経済界、マスコミ界の指導者の能力が低く、時代とともに低下していることを本当に残念に思います。とくに政治指導層の力量の低さは深刻です。最近の政治家について言えば、政治能力は20〜30年前までの政治家に比べて著しく低下しています。30年ほど前の政治家には、第1次大戦、第2次大戦を体験した人も多く、高い政治能力をもつ人が多かったと思います。いまの政治家はもっと自己研鑽に励むべきです。
 それらの政治家と今の政治家の違いの一つは、昔の政治家が 「よく考えた」のに対して、いまの政治家はあまり考えません。日本の国のことを真剣に考えない政治家が増えています。古代の政治家キケロは「生きることということは考えることである」と言いましたが、最近の政治家は自分の頭で考えることをしない。もっと考えてほしいと思う。
 もう一つは、昔は長期的に物事を考える政治家が多かったが、いまはほとんどいません。孔子は「遠慮なければ近憂あり」(長い将来のことを考えないでいると、近くでよくないことが起こる)と言いましたが、日本の最近の指導者は遠い将来のことをあまり考えません。
 概していまの政治指導者には、国家の長期戦略がありません。アメリカが日本の基本方針を決定し、日本政府はそれをそのまま実行するというのが実態です。長期的視点に基づく戦略・戦術思考がないから、国際情勢の精密な分析ができない。国際情勢の見方・判断をアメリカに頼りきっています。また彼らは日本自体のことをも真剣に調査・研究していない。日本の指導層は、孫子のいう「彼」も「己」も知らない状態にある。これでは、うまくゆくはずがない。このことを自覚し、反省する必要がありますね。
 私も73歳になりましたが、小泉のような人物に日本を蹂躙され、アメリカの従属国にさせられたままでは、静かにあの世へ行くというわけにはいきません。
 私は最後のご奉公として、「老人パワー立ち上がれ!」「植民地日本を子孫に残せるか」と、立派な独立国としての日本を残すために、残されたパワーを炸裂させようじゃないかと、全国各地で呼びかけているのです。
【以上は『月刊日本』3月号に掲載されたインタビュー記事です。同誌編集部の承諾をいただき掲載しました】


http://www.pluto.dti.ne.jp/%7Emor97512/C02493.HTML
| sophiology | 20:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
神道論:太陽乙女神アマテラスと天皇の関係:不連続的差異論の視点から
イデア界=太陽乙女神アマテラスとしよう。そして、それが、1/4回転して、イザナミ/イザナギの雌雄的ペアの神々が生まれる。イシス/オシリスの神話と同じである。だから、天皇はイザナギであり、オシリスに当たる。イシス/オシリスの神話から見ると、イシスは殺害されたオシリスのばらばらの断片を集めて、復活させるのである。死から生への原理、復活・不死鳥の原理である。このイシスは、実は、イデア界に当たるのではないだろうか。生成消滅がメディア界の原理であって、復活の原理ではない。イシス/オシリス神話というものは、やはり、イデア界とメディア界を混同しているように思う。だから、先に述べたように、ハトホルをイデア界の女神とすべきように思うのである。だから、ハトホル/オシリスの神話である。
 では、極性のイシス/オシリス神話とは、何を意味するのか。また、このメディア界の神話と天皇はどう関係するのか。今、ふと思ったのであるが、太陽乙女神アマテラスとイザナミ/イザナギの双対神話とは、異質なものではないか、あるいは、別の時代や社会のものではないかとといういことである。沖縄の母権的な宗教が、太陽乙女神アマテラス宗教を伝えているのではないだろうか。ヤポネシア宗教である(ここで、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を想起する。)。しかし、男性神が出てくる、イザナミ/イザナギは別の宗教体系ではないのか。ヒミコ(日巫女、日見娘、日巳娘)は、太陽乙女神アマテラスに仕える巫女ではないのか。ならば、アマテラスの巫女としてのヒミコ(日巫女)である。これは、女性・母性・乙女(処女)の宗教的権威を想定させるのである。ここには、男性神は存しないと思う。純粋母権・乙女権的宗教である。
 そうならば、天皇とは何かということになる。おそらく、本来、アマテラスの《力》が付着するのは、巫女、女性祭司である。だから、前天皇とは女性であるはずである。では、どうして、巫女に相当するものが、女性から天皇に変わったのであろうか。日巫女から日御子(ひのみこ)への変化の問題である。これは複雑微妙な問題である。やはり、問題はイザナミ/イザナギ(イシス/オシリス)神話の意味にあると思う。これが、仲介となり、一種父権的な天皇制が生まれたと思うのである。【これは、また、『源氏物語』にも関係する問題である(光源氏が日御子に相当するだろう)。】(p.s. 後述したが、ここでの私の見解は間違っているので訂正する。父権的天皇制は、平安時代には生じていない。父権的天皇制の発想は、江戸時代の国学にあると考えられる。)
 今想像しているのは、ジョセフ・キャンベルの神話学である。そこでは、神話を4種類に分類している。

1)純粋母権・乙女神神話
2)イシス/オシリス型雌雄神話(夫に孕まされた女神から世界が生まれる)
3)父権神話(男神によって、女神の身体から世界が創られる)
4)純粋父権神話(男神単独で世界を創造する)

日本神話は、1と2の結合したものである。ただ、スサノオの八岐大蛇殺戮に3の要素がいくぶん、うかがえるようだが。問題は、2の神話の意味である。狩猟採集文化は、1であろう。農耕文化であるが、それが2ではないだろうか。思うに、前古代日本は、《縄文》文化(東アジア照葉樹林文化と言うべきか)において、1の宗教・神話をもっていただろうし、また、農耕文化性もあるから、2の要素もあったのであろう。すると、1と2の混淆した文化が、前古代日本文化ではなかったか。そして、そこへ、父権的文化が入ってくる。これが、天皇宗教文化をもたらしたのであろう。
 問題は、1と2は、母権神話であるが、日本国が、父権的な国になったことである。もっとも、天皇制は父権制なのであるのかという問題がある。天皇制は母権的だと思うのである。日本国が父権的になったのは、明治においてではないのか。封建制は確かに男女ヒエラルキーがあると思うが、しかし、そこには、母権的宗教が生きていたのではないか。排仏毀釈・神仏分離令は、この母権的宗教を解体して、父権的国家形成の基礎・基盤となったのではないか。すると、やはり、国学の問題がここにある。平田篤胤は、キリスト教の影響を受けて、神道を一神教化したと言うことである。思うに、これによって、神道が父権化したのではないだろうか。そして、これがイデオロギーとなり、明治維新があるのではないか。本居宣長が胡散臭い。大和心と漢心と分離するのがイデオロギーである。もともと、母権的宗教を核として、大陸の文化を吸収したのであるから、純粋な漢心はないはずである。これは、本居宣長のフィクションであると思う。この二項対立的発想は近代的であり、父権的である。やはり、国学に父権化の起源の一つがあるのではないだろうか。国学自体が「漢心」であろう。これは、母権的宗教の衰退があるのであろう。つまり、イデア/メディア的精神の衰退であり、メディア/現象的精神(父権的精神)の強化を意味するのだろう。これが、国学の意味ではないだろうか。この母権的精神の衰退と父権的精神の勃興が、江戸時代に生起して、明治維新の原動力となったのであろう。そして、明治天皇制は、父権制である。根源の母権的精神の衰退があるのである。ここで、折口が日本人は宗教性を久しく失っていると述べていたことを想起するのである。
 思うに、明治維新前後は、古い母権的精神と新しい父権的精神の混淆状態であったように思われるのである。その「カオスモス」、メディア的エネルギーが、明治維新のエネルギーとなったのであろう。そして、極端化して、太平洋戦争となり、敗戦し、米国文明化した。しかし、問題は、古い母権的エネルギーを喪失して、父権的精神を残していることである。これが、現代、靖国問題となっているのだろう。結局、飛躍するが、日本の自立・復活は、母権的エネルギーを再生することである。これは、神道復活であろう。イデア論としての神道・多神教の復活であろう。そう、平明に言えば、日本の女性が、太陽乙女神アマテラスの根源的力を取り戻すことが重要である。新アマテラス、新ヒミコとしての女性の復活である。それは、また、新天皇制ということだろう。新太陽乙女神アマテラス/新天皇をもつ新天皇制である。
| sophiology | 16:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
自由主義と不連続的差異論:能動・歓喜・共生的ポストモダン・ヤポネシア平成維新へ向けて
私が、差異というとき、これは、個の自由ということとほぼ同じことである。そう、不連続的差異論は、一種自由主義である。しかし、通常の自由主義あるいは新自由主義とは決定的に異なる点をもつ。それは、差異の共存・共立・共生をも志向するからである。個の自由が同時に、個と個との共存であることを志向するのである。ここが、決定的に異なる点だと思う。
 イギリスそしてアメリカの自由主義は、簡単に言えば、近代的自我主義であり、個人主義だと思う。では、不連続的差異論から見たら、それは、どのように分析できるだろうか。これは、意外に難しい問題である。自我とは何かという問題があるからである。 
 まず、近代的自我であり個人主義的である自我が近代西欧に誕生する。これは、二重である。近代主義的であり、個人主義的である。しかし、デカルト的な合理的な主体というよりは、特異性をもった自我であると思う。つまり、不連続的差異論から見ると、自由主義の自我とは、不連続的差異性を帯びていると思われるのである。問題は、この不連続的差異の性質である。これは、先に二つのポストモダン(言わば、暗黒ポストモダンと光明ポストモダン)に述べたことと関連がある。即ち、反感的か肯定的かの違いが関係すると考えられるのである。二つの不連続的差異が存するということである。反動・憎悪・利己主義的不連続的差異と能動・歓喜・共生的不連続的差異である。ここまで、言うと、自由主義の自我がどちらであるか、ほぼ明瞭である。これは、前者でしかありえない。ニーチェ的に言えば、ルサンチマン的不連続的差異である。(おそらく、ホリエモン氏や小泉氏や竹中氏がこれである。)これは、極めて、破壊的な個人主義である。アナキストのシュティルナーの唯一者とは、ほぼこれに近いのではないだろうか。
 ということで、自由主義と不連続的差異論の「自由主義」の違いがこれで判明したと言えよう。前者は、イデア界から発しているものの、反動となった、いわば、凶暴な個人主義である。それに対して、後者は、イデア界に能動的に回帰した、差異共生共創的な個人主義である。前者は戦争主義であり、後者は平和主義である。一元論と多元論、一神教と多神教の違いとも言えよう。憎悪的であるか、歓喜的であるか。父権的あるか、母権的であるか。天上的であるか、大地的であるか、等々である。
 日本人は、戦後、USAの半植民地となり、アメリカ化した。それは、自我が反動・憎悪・利己主義を帯びたということである。本来、多神教の日本文化(ヤポネシア文化と言おう)は、差異共存主義の文化である。しかし、自覚乏しく、欧米化されて、自己を喪失しているのである。今、日本の政治・経済は大きく揺らいでいる。カオス状態である。結局、新自由主義的ポストモダン路線は、問題が多いのがわかる。これは、強暴な路線であり、他者を排斥するものであり、社会は荒廃する。確かに、新自由主義の小さな政府という理念は、「社会主義」的資本主義に対する処方箋の意味があることは否定できない。しかし、これは、いわば、副作用が大き過ぎるのである。社会をずたずたにするだろう。勝者と敗者の二極化が徹底するだろう。当然である。そして、今や、ライブドアや耐震強度偽装等で、そのダークさが誰の目にも明らかになったのである。
 今年は、戦後日本社会の一番の転換点となるだろう。アメリカの中国重視・多極化の政策という新たな黒船が来航しているからである。平成維新の可能性があるのである。ここで、ヤポネシア本来の文化の復活と、不連続的差異論が説く能動・歓喜・共生的ポストモダンの創造が、蓋然的になってきているのである。ポスト新自由主義としての能動・歓喜・共生的ポストモダン・ヤポネシア平成維新のエネルゲイアが、ふつふつと滾ってきていると思うのである。
| sophiology | 01:31 | comments(0) | trackbacks(0) |

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