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不連続陰陽イデア論の基礎構築へ:太陰的内在三次元と陽的外在三次元
 

不連続陰陽イデア論の基礎構築へ:太陰的内在三次元と陽的外在三次元


テーマ:不連続太陰イデア論:無双太陰原理

直近において、以下のように述べて、不連続陰陽イデア論における空間論の弱点を解消し、基本理論の記述が可能になったと考えられる。
 哲学領域では、これまで太陰を原点として、説明してきた。
問題は不連続太陰論と不連続陰陽空間論の整合性である。つまり、哲学と空間論、あるいは、哲学と科学の整合性である。
 思うに、太陰的内在(内在超越)領域と陽的外在領域に区別すれば、整合性ができるだろう。両者は当然、不連続関係である。
 近代科学は後者を中心として、前者をも説明しようとしたことに大欠点があると言えよう。
 また、いわゆる、神秘主義は前者におおまかに言及して、空間論的には説明してこなかった欠陥があるだろう。
 簡単に言えば、内在三次元と外在三次元の相違がこれまで認識されなかったということになる。前者はイデア虚数次元ということになる。後者は物質的次元ということになる。
 そう、これで、内在コスモスと外在コスモスとの関係・相違も説明できるようになったと言えよう。
 いよいよ不連続陰陽イデア論を祖述する段階になったのである。

球は中心点に直角三角形をつくり出すだけではなく、天球周縁にも直角三角形をつくり出す
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11572239757.html

追記3:
私は時間軸・天地軸を他の二つの軸とは異質のものとして、特別視しているが、アダムズの考え方によれば、直角三角形のそれぞれの辺が、天地軸(時間軸は除いておく)になるのであるから、特別視する必要はないだろう。
 そうすると、四元数の視点が有力になってくる。三つの虚数i, j, kは三つの直交軸、直角三角形の三つの辺となる。
 そして、実数1であるが、それは、確かに、時間の量でいいのかもしれない。あるいは、光速である。
 私の陰陽渦巻円の視点は、もっと現象的かもしれない。つまり、三つの直交軸であるが、そのうち二つが陰陽渦巻円を形成し、残りの一つがいわば、天地軸となることになろう。
 そう、だから、最初は三つの直交軸、三つの虚数と考えた方が適切であり、その次の展開として、二つの直交軸・虚数に拠る陰陽渦巻円と天地軸の形成を考えた方が妥当のように思えてきた。


| sophiology | 15:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
球は中心点に直角三角形をつくり出すだけではなく、天球周縁にも直角三角形をつくり出す
 

球は中心点に直角三角形をつくり出すだけではなく、天球周縁にも直角三角形をつくり出す


テーマ:不連続太陰イデア論:無双太陰原理

以下の考え方はきわめて興味・意義深い。
 これまで、陰陽円(陽円)ということを述べたが、以下の視点からすると、陰陽球(陽球)が問題になる。
 また、以下、直角三角形というのは、三角錐のことのように思える。とまれ、中心点に直交する三つの座標を見る視点と言えよう。
 後で、検討したい。

追記:先に次のように書いた。

陰陽円(陽円)は、回転しているとする。そのため、陽=円周の太陰回帰は渦巻になるのではないだろうか。
 そして、この渦巻力学が中心点に直交するエネルギーを産み出すのではないのか。そして、結果、螺旋形状、螺旋生命有機体を産み出すのではないのか。
 そうならば、中心点に直交するエネルギーとは何かとなる。
 直観では、時間エネルギーである。(時間をエネルギーと考える。)
 そして、時間エネルギーは垂直軸となり、それは天地軸ではないのか。そして、時空四次元現象を形成するのではないのか。この四次元であるが、時間軸と垂直軸が一致するのである。
 だから、時空三次元と呼ぶ方が的確であろう。
 今はここで留める。

追記:あるいは、以前考えたように、ここで四元数(しげんすう)を取り入れて、三つの虚数(虚軸)と一つの実数(+1)を考えるべきなのか。
思いつき:太陰⇒陽円⇒渦巻⇒螺旋:陰陽円から螺旋生命有機体へ?
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11572125364.html

以上の三次元の考え方は、基本は平面、陰陽渦巻円である。そこに中心点(太陰、太陰点)に直交する垂直軸(時間軸、天地軸)が発生するというもので、二次 元から三次元へと展開する発想であり、以下の最初に三次元が存する視点とは異なる。(しかし、連関させることはできるかもしれない。)
 しかし、私の陰陽渦巻円(陰陽円、陽円)であるが、私は円と球をほぼ同等と見ているので、基本に立体、球を考えることは齟齬ではない。
 立体、球を考えたとき、基本に直角三角形、三角錐を見ることは可能である。
 しかし、今は、陰陽渦巻円の中心点(太陰点)に直交する時間軸・天地軸を考えたい。そして、それによって、螺旋体が形成されるのである。これで、渦巻星雲等は説明できようし、螺旋生命有機体も説明できよう。
 思うに、陰陽円、陰陽渦巻円の円周は実は球面と考えてもいい。だから、球面上の平面と中心点と直交する時間軸・天地軸で三次元空間、三次元時空間ができる。
 そして、この球面(円周)の三次元空間(時空間)を、収縮・還元させて、中心点に引き戻すことはできよう。
 そうすると、中心点・太陰点において、陰陽円があるというより、直角三角形、三角錐があると見た方がいいのかもしれない。
 そう、もともと、中心点と円は別々である。しかし、中心点・太陰点から円周、球面が形成されるとするならば、中心点・太陰点のいて、二次元(平面)、三 次元(立体)の基本ベクトルはあってもおかしくないだろう。それが、根源的な直角三角形や三角錐として、表現されてもおかしくないだろう。
 このように見ると、Kaisetsu氏が展開されているNew Platonic Synergyの視点と共通してこよう。
 とまれ、私の陰陽渦巻円と時間軸・天地軸による三次元時空間の考え方とシュタイナー関係のオカルト空間論とNew Platonic Synergyと共通性が考えられると言えよう。
 今はここで留める。

追記3:
私は時間軸・天地軸を他の二つの軸とは異質のものとして、特別視しているが、アダムズの考え方によれば、直角三角形のそれぞれの辺が、天地軸(時間軸は除いておく)になるのであるから、特別視する必要はないだろう。
 そうすると、四元数の視点が有力になってくる。三つの虚数i, j, kは三つの直交軸、直角三角形の三つの辺となる。
 そして、実数1であるが、それは、確かに、時間の量でいいのかもしれない。あるいは、光速である。
 私の陰陽渦巻円の視点は、もっと現象的かもしれない。つまり、三つの直交軸であるが、そのうち二つが陰陽渦巻円を形成し、残りの一つがいわば、天地軸となることになろう。
 そう、だから、最初は三つの直交軸、三つの虚数と考えた方が適切であり、その次の展開として、二つの直交軸・虚数に拠る陰陽渦巻円と天地軸の形成を考えた方が妥当のように思えてきた。



note23:
・球は中心点に直角三角形をつくり出すだけではなく、天球周縁にも直角三角形をつくり出す
・プロセスとしての球形形成運動
・球形形成原理は、虚数に関わり、数エーテル(化学エーテル)として現象界に現れる

note23:
・球は中心点に直角三角形をつくり出すだけではなく、
 天球周縁にも直角三角形をつくり出す
・プロセスとしての球形形成運動
・球形形成原理は、虚数に関わり、数エーテル(化学エーテル)として現象界に現れる

<ジョージ・アダムス 『エーテル空間』からの引用>

 空間の無限遠点は球面との関係において、球の中心点を通る平面をもたらします。こ
の平面は、無限遠点がどの方向にあろうとも、無限遠点へ向かう半径に対してつねに直
角を成します。そしてこれは球の場合にのみ生じます。このことを最後まで考えていけ
ば、球の中心点で互いの直角を成す“三つ組”の半径が得られます。すなわち三つの直線の
各々が、他の二つの直線を含む平面に対して直角を成す、三つ組が見られることになりま
す。これは、この三つ組の直線を球の中心点からあらゆる方向へ向かわせることのできる、
いわゆるデカルト座標系です。デカルトの座標系はこのように、球のなかに一種の形態原
理を持っていますが、たとえば人間の頭蓋骨の形態はこの原像の現れのひとつです。さて
しかし、球はその中心点だけではなく、無限遠平面にもこのような三つ組をつくり出しま
す。球は天球周縁に直角三角形をつくり出すのです。この三角形は、デカルトの座標系が
三つの直線と三つの平面から成っているように。三つの直線と三つの点から成っています。
球はこのように、地上にも天上にも三つ組をつくり出しますが、地上では諸半径を構成要
素とする中心点をつくり出し、天球では天球諸直線を構成要素とする“周縁中心”をつくり
出します。
(P.47-48)
 近代幾何学の原空間において私たちがまず第一に理解しなければならないのは、直角が
つくり出す硬い形態ではなくその根底にある数の動力学、完成された円形ではなくプロセ
スとしての循環運動、完成された球形ではなく丸みをつくり出していくプロセスとしての
球形形成運動です。それというのも私たちは、中心点と宇宙の拡がりとの対極性のような、
地上的なものと天上的なものとのあいだに永遠に作用している呼吸する対極性とかかわっ
ているばかりでなく、このような二極間に自らの存在を主張している球形形成原理にも、
つまり静かに自足している有限の球形に見られるような球形形成原理にもかかわっている
からです。
(P.48)
 この原理を数学的に述べるなら、それはその具体的ー霊的な背景をアストラルと呼ばれ
るものの内に持つ、謎に満ちた虚数(√-1)にかかわる原理です。この原理はもはや空間的
なものではありません。しかしそれは、特に循環するものの内に現れる数のリズムの響き
をとおして、空間のなかへ形成的に作用しています。この原理は、エーテル的なものの内
に作用していることから、数エーテル(化学エーテル)として現象界に現れます。
(P.48)

<note23>
◎直角三角形が円に内接するように、円や球の形態は密接に「直角」と結びついている。
◎note19で説明したように、空間の無限遠点は、球の中心点を通る平面をもたらすが、
この平面は、無限遠点へ向かう半径に対してつねに直角を形成する。
球の場合、中心点を通る平面と中心点から球面に延びる半径とが直角になっているイメージ。
◎そうすると、球の中心点で互いの直角を成す「三つ組」の半径が得られる。
つまり、この球の中心点を中心とした(x,y,z)座標(デカルトの座標系)のイメージ。
◎球は、この「三つ組」を無限遠平面にも形成する。
つまり、球は天球周縁に、三つの直線と三つの点から成る直角三角形をつくり出す。
◎近代幾何学の原空間においては、そうした直角がつくり出す硬い形態ではなく、
その根底にあるプロセスとしての球形形成運動を理解しなければならない。
これは、完成されたスタティックなものとしてではなく、それが形成されるプロセスが重要になる。
◎私たちは、地上的なものと天上的なものとのあいだの対極性だけではなく、そうした球形形成原理にも関わっている。
◎この原理は、ー霊的な背景をアストラル的なものに持っている「虚数(√-1)」に関わっているが、
呼吸するように循環するものの内に「数のリズムの響き」を通して、空間のなかへ形成的に作用し、
数エーテル(化学エーテル)として現れる。
◎「反空間」である「エーテル空間」は、物質空間に対して、
もはや空間的なものではない「虚」の空間として表現されるが、
その「虚」つまり、「虚数(√-1)」の原理はアストラル的なものを霊的背景としてもっている
ということはチェックしておく必要があると思われる。
というのも、シュタイナーは、物質界、エーテル界、アストラル界・・・というように、
世界を多次元構造としてとらえているからである。
そして、「反空間」である「エーテル空間」は、この物質空間に対する「虚」の空間として位置づけられている。
◎ちなみに、シュタイナーはエーテル的な力を、
生命エーテル、化学エーテル、光エーテル、熱エーテルの四つに分けてとらえている。
ここで「数のリズムの響き」である「数エーテル」としているのは、そのうち「化学エーテル」である。
◎参考までにいえば(この『エーテル空間』とは直接関係しないが)、
電気、磁気、原子力の深部に潜んでいるエネルギーのことを、
シュタイナーは《堕落したエーテル》と呼んでいるそうである。

http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/aetherischenRaum/ar23.html
シュタイナー研究室
| sophiology | 13:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
思いつき:太陰⇒陽円⇒渦巻⇒螺旋:陰陽円から螺旋生命有機体へ?
 

思いつき:太陰⇒陽円⇒渦巻⇒螺旋:陰陽円から螺旋生命有機体へ?


テーマ:不連続太陰イデア論:無双太陰原理

以前は陰陽共振が螺旋生命物質体を形成すると考えた。
 現在の仮説では、太陰が中心点であり、円周が陽である。そして、これを陰陽円と考えるのである。(陰陽円という視点は以前もあったが、もっと漠然として いた。つまり、陰陽共振のベースに陰陽円があると考えただけであり、中心点が太陰、円周が陽という現段階の考えはなかった。ただ、陰陽共振というか陰陽共 立が陰陽円を形成するような漠然とした発想であった。)
 思うに、太陰⇒陽⇒太陰という力学が考えられよう。陽⇒太陰において、螺旋力学が発生するのではないだろうか。
 今の思いつきでは、中心点を直交するエネルギーが発生しているのであり、そのため、円は螺旋を描くのではというものである。
 あるいは、こう考えたらどうだろうか。陰陽円(陽円)は、回転しているとする。そのため、陽=円周の太陰回帰は渦巻になるのではないだろうか。
 そして、この渦巻力学が中心点に直交するエネルギーを産み出すのではないのか。そして、結果、螺旋形状、螺旋生命有機体を産み出すのではないのか。
 そうならば、中心点に直交するエネルギーとは何かとなる。
 直観では、時間エネルギーである。(時間をエネルギーと考える。)
 そして、時間エネルギーは垂直軸となり、それは天地軸ではないのか。そして、時空四次元現象を形成するのではないのか。この四次元であるが、時間軸と垂直軸が一致するのである。
 だから、時空三次元と呼ぶ方が的確であろう。
 今はここで留める。

追記:あるいは、以前考えたように、ここで四元数(しげんすう)を取り入れて、三つの虚数(虚軸)と一つの実数(+1)を考えるべきなのか。

追記2:

《間奏あるいは幕間狂言》
note23:
・球は中心点に直角三角形をつくり出すだけではなく、天球周縁にも直角三角形をつくり出す
・プロセスとしての球形形成運動
・球形形成原理は、虚数に関わり、数エーテル(化学エーテル)として現象界に現れる

note24:
・霊的ー魂的な三つ組は、地上でと同じように天上でも作用し、
 宇宙の霊的根源においては思考、感情、意志の三つ組と関連している
・数学的に述べられてきた事柄は、超感覚的作用に関連して「質的ー理念的」に理解する必要がある
・「彫塑的空間」としてのエーテル空間
・形成諸力体としてのエーテル体
・人間を全宇宙から形成されているものとしてとらえる必要性

「IV.物質とエーテルの力と実体」
note25:
・物質空間:ポジティヴ(プラス)な実体とエーテル空間:ネガティヴ(マイナス)な実体の対極性
・空間世界に作用している物質的なものとエーテル的なものの諸力の対極性:重さと光の軽さ
・重さと光の軽さは、エーテル体と物質的体は互いに均衡を保っているが、死の際にはそれぞれの領域へと向かう

note26:
・ポジティヴな物質空間とネガティヴなエーテル空間の質的反転
・物質空間の容積としての球(点)とエーテル的な球の内部空間としての平面
・物質空間における球面外部の無限空間=エーテル空間の容積
・物質空間における球面内部の容積=エーテル空間的には空っぽ・内への空虚

note27:
・中心点から外へ向かい希薄になっていく物質的作用
・天球周縁から宇宙点に達し無限に拡がる球面面積を持つ点となるエーテル空間の作用

note28:
・エーテル空間においては、中心点(宇宙点)へと向かう規則正しい成長を
・物質的に見れば、宇宙点に向かって密集していくように見える。
・物質的表象としては、∞,1,1/2,1/3,1/4,1/5,・・・
(エーテル的感情としては、無限に続く規則正しいリズム:0,1,2,3,4,5,・・)
・物質的な成長像は、“相反半径による変換”を用いることでエーテル的な成長像へと変換することができる。

note29:
・物質的なものとエーテル的なものの振幅運動の理念
・内へと成長し宇宙点へと到るエーテル的なものはその瞬間に、その物質に新しい始まりをもたらす
・その点のなかで熱が放射し無限平面へ到りまた再びエーテルの活動力へと反転していく

note30:
・物質的なものとエーテル的なものにおける圧力及び吸引力
・エーテル球における「ネガティヴな重さ」と「空間をネガティヴに満たそうとする傾向」とのあいだのバランス

note31:
・エーテル空間の観点から観たホメオパシー作用
・物質を希釈すればするほどエーテル球面の力が周縁的に凝縮しエーテル作用が高められる
・質的な意味での純粋幾何学による「空間知の霊化」という課題

http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/Steiner.html
シュタイナー研究室

参照画像:スライブのトーラス像。

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:不連続太陰イデア論と心智学(psychosophy)

スライブ5分間バージョン:トーラス - YouTube

http://www.youtube.com/watch?v=DIAG1KNYe1M

www.youtube.com/watch?...2012年4月27日 - 5分 - アップロード元: 信二 田中
(THRIVE Japanese) スライブ―いったい何が必要になるのか 2時間12分 から、特に ...

Thriveを観る、トーラス、フリーエネルギー、舞踊による一体感|卵の中の ...

http://haitaka.blog19.fc2.com/blog-entry-1235.html

haitaka.blog19.fc2.com/blog-entry-1235.html - キャッシュ
2012年2月21日 ... 話題になっている『THRIVE』の日本語版をyoutubeで見た。 最初にトーラスが出てきた
ので、これは最後まで見ねば・・・と思った。 トーラスとは、↓こういう形の内側と外側が
つながったような形状のもの。 081113_1326~02 これについては ...
| sophiology | 11:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
不連続陰陽イデア論の新たな概念作図の必要:ポストPS理論としての不連続無双陰陽イデア論

不連続陰陽イデア論の新たな概念作図の必要:ポストPS理論としての不連続無双陰陽イデア論


テーマ:不連続的無双太陰ヴィデア論:新陰陽論


以下の概念座標は今やまったく不正確なものになった。
 根源は太陰であり、それが陽を形成する。だから、以下の原点、MPはまったく不要である。
 MPである原点を必要とする考え方は、二元論を前提にしたものである。しかるに、不連続陰陽イデア論は一元論、無双論である。
 作図するなら、原点、中心点が太陰であり、円周、球面が陽となるのである。だから、まったく以下とは異なった図となるのである。今は余裕がないので、作図できない。
 思うに、不連続的差異論から出発して、その後、数学をベースにしたPS理論(プラトニック・シナジー理論)が形成され、長い間、不連続的差異論の視点が十分に進展できなかった。
 不連続的差異論が2004年9月に形成され、PS理論は翌年か翌々年に形成されたと思う。2006年ならば、約6年間、PS理論によって、理論の新たな 進展が阻害されてきたことになる。そう、今の不連続陰陽イデア論は、いわば、不連続的差異論に先祖返りして、その展開と考えられるのである。つまり、不連 続的差異を太陰として、発展させた理論ということになる。PS理論は、物質原理の理論としては、簡潔で優れているが、二元論を保持してしまい、画期的な不 連続的差異の視点の進展を阻害してしまったと考えられる。
 

<不連続的陰陽イデア論(不連続的差異共振論)概念座標:Ver.17.0.0>

    陰陽メビウス(陰陽渦円)

       陽イデア():自我
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_______・______実軸(時間・光・物質)+1
          ☆
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      陰イデア():他者

【但し、・は太一点(太極点、内在的超越点、MP: Media Point)、★は陽における陰点、☆は陰における陽点である。
 太一点において、直交する太一軸が考えられる。太極軸を1次元、陰陽メビウス(陰陽渦円)を内在超越的2次元、そして、現象界を時空四次元と見る。
 そして、陰陽軸(陰陽渦円)は陰陽メビウスの輪を形成していると思われ、陽イデア=自我=知(認識)陰イデア=他者=存在で、陰陽メビウスが陰陽イデアで、意識、精神、魂、自己=個を形成し、生命気螺旋とは区別される。
 尚、実軸は時間-光-物質の系列軸とし、太一点から発出する生命気螺旋における四元数(1, i, j, k)の三つの虚軸は記入していない。
 霊「数」、陽、陰を仮説して、また、陰陽共振を✇で表わし、以下のように公式化する。不連続的陰陽イデア論公式である。
✪✇✡⇒a + bi + cj + dk 
or
✪✇✡⇒+1 + i + j + k
| sophiology | 10:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
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太陰と陽と自我の連関の考察:原初母権的太陰ー陽自我識と極大陽父権超越性ー全体自我識


テーマ:不連続的無双太陰ヴィデア論:新陰陽論

先に以下のように問題提起した。

太陰は全体の面と一の面があり、一の面が陽と結んで、自我・超陽となるのではないのか。太陰の二面性:全体の相と一の相:多神教と一神教:初めに、太個ありき  
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11560750193.html)

この問いかけは、それまでの不連続陰陽イデア論(この呼び方がいちばん明快であろう)における自我・超陽の発生の考え方とは別のものである。
 つまり、それまでは、陽の極大的なものを超陽として、それが自我となると考えたのである。
 それに対して、先の、上記の考えは、太陰自体に自我の根源があるというものである。
 この問題は、不連続陰陽イデア論にとって、根本的なものであり、精緻厳密な検討が必要である。
 陰陽性について、復習すると、陰が中心であり、陽が円周、あるいは、球面である。当然、陰は闇であり、陽は光である。
 しかし、主体は陰、つまり、太陰である。陽はその展開、周縁である。ウィリアム・ブレイクの言葉では、circumferenceである。言い換えると、陰主陽従である。
 とまれ、陰から陽が生まれるのであり、陰の「意識」と陽の「意識」は区別される。
 つまり、陽の「意識」(陽識と言おう)は、現象意識であり、物質的意識となる。それは、根源の陰の「意識」(陰識ないし太陰識と呼ぼう)を感じるが、認識することはできないと考えられる。
 太陰から陽が生まれるのであるから、陽はなんらか根源の太陰との結びつきを感じるはずであるが、陽自体は太陰の一部であるから、十全には、太陰を認識できないと考えられる。
 とまれ、初期における太陰識ー陽識においては、中心性は太陰識にあり、陽識は従属的である。これを原初的母権識と呼ぶことができよう。
 この太陰識ー陽識において、自我とは陽識と考えられ、それは、当然、太陰識とは未分化様態にあると考えられる。つまり、自我はまだ、自立・独立していないのである。
 さて、そのような視点から、先に、太陰の一(いつ)の面が陽と結合して自我・超陽となると述べたことを考えると、どうなるだろうか。
 私は陽ないし陽識において、同一性ないし同一性識が存すると考えている。
 思うに、先に、太陰に全体の面と一の面の両面があると述べたが、基本は太一性、全一性である。全体と一とが一体となっているのが基本様態である。だか ら、全体の面と一の面の両面に分けるのは、二元論であり、間違いのように思える。根源的太一性・全一性を確認する必要がある。
 この太陰性に対して、陽・陽識であるが、それは、個体的一性を志向するのではないだろうか。円周ないし球面であり、それは、根源・中心の太一・全一性と対比的である。
 では、陽・陽識の個体的一性であるが、それが自我ということになるが、それでいいのだろうか。
 直観では、陽識には、太陰識が作用しているのであり、そこに自我識が生じるように感じられるのである。
 つまり、個体的一性である陽識と太一・全一性である太陰識・陰識との結びつきにおいて、自我が生起するように思えるのである。
 言い換えると、自我とは、二つの極の間に生起する、いわば、実存態ということになる。
 宗教的に言えば、神と個体の両極実存態である自我ということである。
 この太陰・太一・全一と個体的同一性との両極実存態としての自我は現時点で確認すべき点である。
 そのように自我を捉え直した上で、父権化、近代的自我化の問題を考察すべきである。
 その前に、もう一点確認すべきことがある。それは、原初的母権識においては、自我とは、あくまで、根源の太陰・太一・全一性に服している、従属しているという点である。自我は根源(「神」)から独立していないということである。
 即ち、太陰と個体との両極態としての自我、太陰に従属するものとしての自我、原初的自我識をもつ原初的母権識を踏まえた上で、父権化、近代的自我の意味を考察することができると言えるのである。
 父権化は明らかに、原初的母権識からの独立として見ることができる。
 これは、原初的自我識が太陰・太一・全一に従属していることから脱して、自我識が主体的になることを意味すると考えられる。つまり、自我識が主となり、太陰・太一・全一識が従となる事態であり、さらに前者が後者を支配・破壊する事態を意味すると考えられる。
 つまり、自我識が支配的、独裁的になり、原初的母権識を破壊する志向をもつということになる。これは父権的自我識の誕生と見ることができる。
 では、その力学はいかなるものなのだろうか。この問題を先鋭化すれば、それは、一神教の誕生の力学の問題である。あるいは、父権神の誕生の力学の問題である。又は、端的に、「父」の誕生の問題である。
 原初的母権識において、根源は「母」であり、陽は「子」である。母主子従の世界である。
 その世界とは異質な「父」とは何であろうか。
 これまでの考え方、単純な考え方によれば、陽の極大化という力学が原因で「父」が誕生したことになる。
 そう、陽の極大化とは、精神と物質の二元論の発生と同期であると考えられる。
 つまり、陽極大化とは、まったき陽の事象が生起するのであり、根源の太陰が隠れることになるのである。その結果、極大陽識は自己を「精神」とし、そして、外界現象を「物質」と見ることになるのである。
 しかしながら、時間的に、原初的母権識は当然、存続しているのであり、それに対して、新しい極大陽の父権自我識はそれを否定すべく攻撃し、破壊しようとするのである。
 何故、父権自我識が原初母権識を攻撃するのかと言えば、前者にとり、後者は理解不可能であり、あってはならないものだからである。言い換えると、前者にとり、後者は悪、邪悪なものであり、当然、否定され、破壊消滅されるべきものである。
 そう、ここに西洋文明の広義の東洋文明に対する攻撃・破壊・支配性が生じるのである。植民地主義、帝国主義はここから生まれるのである。
 聖ゲオルギウスの龍退治とは、これを象徴したものと言えよう。(龍とは、太陰・太一・全一、原初的母権識を意味しよう。)
 もう少し、極大陽の父権自我識について述べる必要がある。問題は、超越神の力学である。
 いったい、その超越性はどこから生まれるのだろうか。思うに、極大陽=父権自我識であるが、それは、根源の太陰・太一・全一から切り離され、分離独立する。
その父権自我識が形成される以前は自我識(母権的自我識)は、内在超越的に太陰と接続していた。しかし、父権自我識において、そのような内在超越的繋がりは消えている。そう、いわば、根源との絶対的分離が成立するのではないか。
 つまり、原初母権識とその自我識は全体識をもっていた。しかし、そのような全体識が父権自我識においては消えるのであるが、思うに、消えた太陰・太一・全一性であるが、それが、父権自我識にとって、超越性、超越神として、捉えられるのではないのか。
 言い換えると、母権識においては、内在超越である太陰と自我識との「繋がり」(臍の緒)があったが、父権自我識において、それが切断され、太陰は、超越性、超越神として、感知されるということではないのか。
 感知という言葉は適切ではないかもしれない。暗示されるが適切ではないだろうか。
 とまれ、父権自我識とは絶対分離した超越した「父」が考えられることになると考えられる。
 さて、次に、近代的自我識を考えると、それは、父権自我識の知性、自我知性の徹底化と考えることができよう。
 これは同一性主義であるから、物質知性でもある。
 そして、自然科学、唯物論的科学・技術が誕生する。これが、資本主義と関係して、近現代世界を形成するのである。
 とまれ、この父権自我識である近代的自我識について、明確にする必要がある。というか、父権自我識の力学について明確化する必要がある。何故なら、近代自我識はその延長にあると考えられるからである。
 問題は、超越性と父権自我識との関係なのである。
 極大陽が形成されるとき、太陰がまったく消失して、まったく陽事象となる。それは、陽が全体であるということでもあるだろう。言い換えると、父権自我識 が全体であるということになろう。つまり、父権自我中心主義が誕生するのである。これは、当然、自己中心主義的であり、いわば、パラノイア的である。(今 日、現代の日本人はこのような意識に染まっていると思える。)
 では、超越性(超越神、ヤハウェ)とこの全体的父権自我識との関係はどうなるのか。
 もう一度、陽の極大化について考えると、それ以前は、太陰と陽自我との母権様態があり、太陰は陽自我にとっては内在超越的存在であり、それは、感知できるものであった。あるいは、繋がりのあるものであった。
 しかるに、陽が極大化すると、その内在超越的繋がりは消失して、太陰が失われる。
 では、消失した太陰の換わりに何が生じるのか。
 思うに、消失した太陰の換わりに、超越神、超越性が発生するのではないだろうか。思うに、内在超越性から、外在超越性へと転換するように思われるのであ る。かつては、神聖は内在超越t的であったが、今や、外在超越的になったのである。この外在超越性がいわゆる超越性である。超越神がそのようなものであ る。
 ということで、全体的父権自我と外在超越性とのセットができあがることになると考えられるのである。
 思うに、資本主義の原動力はこの外在超越性ー全体父権自我識のセットにあるとある思われるのである。これは、いわば、宗教的、且つ、自己中心的であるから、悪魔的に強力であると言えよう。
 とまれ、以上で、本件の問題を解明したと考えられる。つまり、太陰と陽と自我との関係力学を明晰にしたと考えられるので、ここで了える。
| sophiology | 10:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
太陰の二面性:全体の相と一の相:多神教と一神教:初めに、太個ありき
 

太陰の二面性:全体の相と一の相:多神教と一神教:初めに、太個ありき


テーマ:不連続的無双太陰ヴィデア論:新陰陽論

これも検討問題である。
 太一・太陰が自我・超陽と結びついているのではないだろうか。というか、太陰・太一と陽が結びついたのが、自我・超陽ではないのか。
 ここにおいて、共感性が喪失されるのである。
 否、太一・太陰と自我・超陽との結びつきがあるのではないのか。
 太陰と陽は陰陽共振で、生命を生むのである。
 私が言いたいのは、太陰の太一部分が陽と結合して自我・超陽になるのではないかということである。
 つまり、太陰は二つの側面があるのではないかということである。つまり、太陰と太陽ではないだろうか。しかし、太陽とすると用語で混乱する。
 太陰は全体の面と一の面があり、一の面が陽と結んで、自我・超陽となるのではないのか。
 とにかく、自我・超陽が連続的同一性主義であり、太陰の全体を否定するのである。
 その結果、太陰と陽との共振による共感性(これはコスモスとの共振という意味もある)が形成されないと思われるのである。(私は愛とかやさしさという言葉は人間臭くて、あいまいで、理論的考察には向かないと思うので、共感性という用語を使用する。)
 思うに、太陰の一の面はヤハウェ、超越神的であり、それは陽・光と結びついて、自我・超陽を生み出すのではないか。
 つまり、一神教とは、太陰の半面で生まれた宗教ではないだろうか。そう、多神教は逆に太陰の全体の半面で生まれたものではないだろうか。
 整理すると、多神教は太陰の全体の面と光の結合したものであり、一神教は太陰の一の面と光の結合したものではないだろうか。
 思うに、全体でも一でもある太陰とは、個、太個、原個ではないのか。先に個己という言葉を造語したが、太個がいいのかもしれない。

初めに、太個ありき


である。
 今は問題提起である。後で、吟味しないといけない。
| sophiology | 05:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
自我と個:二つの個:全体的個と個体的個:自我と個体的個(物質的個)

テーマ:不連続的無双太陰ヴィデア論:新陰陽論

それなりに多忙で、考察の余裕がない。
 とは言え、自我と個について簡単に予見を述べたい。
 おそらく、自我がなければ、個は生じないのではないだろうか。
 陽だけでは、自我にはならない。何故なら、陽は陰と均衡するのであり、根源の太陰といわば未分化であると考えられる。言うならば、母子一体ではないだろうか。つまり、母権性である。
 しかし、父権化して、陽から超陽=自我が飛び出すようにして、生まれる。そのとき、超陽=自我は太陰=太母(母)から独立する。つまり、自我と陰陽の分裂がそこにあるのである。二元論である(これが、西洋文明の原点である)。
 そして、超陽=自我は太陰=陰陽を排除し、また、破壊しようとするのである。これが、植民地主義、帝国主義、金融資本主義の原点であると考えられる。
 しかしながら、超陽=自我と太陰=陰陽の二元論、二重性は、いわば、分裂症である。これを調和させる内的必要があるのである。東洋文明は、内身体文化の 発達によって、バランスをとってきたのである。端的に、瞑想文化、肚の文化、気の文化等である。これは、太陰=陰陽をベースとする文化であり、超陽=自我 の暴走を抑える真の理性文化(身体理性文化)と考えられる。
 つまり、東洋文明は太陰=陰陽性が支配的であり、そのため、超陽=自我の暴走を許さないセーフティーネットをもっていたと考えられる。
 逆に言うと、そのため、超陽=自我の文明が西洋文明のようには発達しなかったのである。自然科学、物質文明は西洋文明が発達させたものである。
 さて、ここで、個の問題になるが、個とは、これまでの私の見解では、肚=太陰が他者であり、個となるものである。
 そうならば、太陰において、個があるということになるのではないのかという疑問が生じよう。
 しかし、私が肚=太陰において、他者=個が存するというとき、それは、自我=超陽を前提にしているのである。このために、単に、肚=太陰において、個が存するとは言えないと考えられるのである。
 もっとも、問題は微妙である。以前、私は母権的個ということを言っていたのである。
 しかしながら、今考えてみると、それは、やはり、自我=超陽が前提だと思う。その前提の下に、母権的個=肚というものを考えていると思われるのである。
 果たして、そう考えていいのか、疑問である。
 丁寧に考える必要がある。
 私は近代以前の日本において、母権的個があったと考えてきたのである。しかし、日本は母権と父権の二重社会であるというのが持論である。つまり、日本文化において、母権と父権の両要素が混在していると思われる。
 故に、私が日本の伝統社会における母権的個という場合、やはり、父権的自我が前提に存するように考えられるのである。
 しかし、果たして、純粋母権文化に個はないのだろうか。
 直観では、肚即全体である。そして、肚は個である。
 つまり、肚=個=全体である。
 そう、太陰とは太一であり、一(いつ)である。この一が個を感じさせるのではないだろうか。
 ならば、自我=超陽がなくても、個はありうるのである。母権的個はありうるのである。
 つまり、太一=太陰=肚=個という図式である。
 そうならば、自我=超陽を前提にした個の成立とはどうなるのか。齟齬になるのである。
 思うに、太一=太陰=肚=個とは全体的個であり、自我=超陽を前提とした個とは、物質世界における個体的個ではないだろうか。つまり、二つの個があると 思われるのである。全体的個と個体的個である。個体的個は、純粋母権文化では不可能であろう。結局、自我=超陽の前提があって、個体的個と同時に全体的個 が成立すると考えられる。
 では、個体的個と自我とはどう関係しているのだろうか。
 自我は他者排除的であるが、個体的個は、全体的個をベースにした自我的要素のある個ということではないだろうか。
 そう、物質的個というとわかりやすいだろう。
 今はここで留める。後で更に検討したい。


| sophiology | 01:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
自我とは何か:太陰が陽を作り、陽から独立した超陽である自我(男性原理)は太陰(女性原理)を恐れる

テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

自我をどう捉えるのか、きわめて重要な問題である。
 私は自我を陽に便宜的においているが、実は純粋な陽ではなく、超陽、あるいは、陽の極大的なものとして考えているのである。
 だいぶ前に書いたように、陽は光となり、物質を形成するものであり、そこにおいて、量化が為されて、同一性、プラスとマイナス、NとS等が形成されると考えられる。可視の世界を作るのである。
 現象界の形成において、私は陰陽共振のことを言った。しかし、今の不連続的太陰ヴィデア論(簡単に、太陰ヴィデア論とする)において、陰陽共振を現象界の形成要因と見るのかどうか、まだ検討していない。
 しかし、やはり、陽が陰へと再帰することにおいて、陰陽共振が発生し、そして、螺旋生命物質体が形成されると考えることができる。
 思うに、陰陽共振から連続的同一性が形成され、物質力学、物質が形成されるように思われる。
 連続的同一性は、同一性力学=物質力学を形成する。それは、例えば、プラスとマイナスの対立構造(「二項対立」、構造主義)を作ると考えられる。具体的には電気を考えればいい。(ここにおいて、PS理論の公式凸i*凹i⇒+1が成立すると考えられる。)
 このとき、陽と陰は対立原理であるが、結合(シナジー化)して、物質形成するのである。
 しかし、ここには自我の原理はないのである。
 確かに、自我は同一性となる陽と結びついている。同一性となる陽と関係するのは、否定となる陰である。ここで一時ストップする。
 どうも正確に述べるには、大陰(だいいん)と大陽(だいよう)、そして、陰と陽、あるいは、陰と陽のペアと小陰と小陽のペアの二種類の陰陽に分けた方がいいようである。とりあえず、後者の用語を使用する。
 結局、陰陽共振において、次元転換によって、螺旋形成が起こり、小陰と小陽の対立原理が形成される(例えば、DNAの二重らせんの対立を考えるといいだろう。)。
 そう、小陰ー小陽対立原理(構造主義)が、物質原理であり、そこには、自我はないのである。
 自我は、物質原理以前の陽に存すると見よう。しかし、次元転換点(これをMP、メディア・ポイントと見るのか?)を介して、自我は物質界にも作用していると思われるのである。
 さて、陽=自我であるが、それは、闇=太陰=他者を恐れるのである。何故なら、陽は陰から派生したものであり、陰の言わば、一部として、陽は存するのであり、陽を超越した存在が陰であるからである。
 ここにおいて、陽は陰を否定し、且つ、排除するのである。単なる否定ではなく、排除なのである。暴力である。
 物質原理の小陰ー小陽の対立原理の否定は、排除ではない否定である。排除どころか、牽引となる否定である。プラスとマイナスは牽引するのである。
 しかるに、陽の陰に対する否定は、排除なのである。あるいは、破壊である。これは、まったく、物質の対立原理とは異なるのである。
 さて、ここで、不連続的太陰陽ヴィデア論(新たな造語)の視点に返ると、太陰が主導的であるときは、陽は太陰に属しているので、自我は独立していないので、排除・破壊的ではない。これは、母権世界である。
 しかし、父権世界になると、陽=自我が主導中心化して、太陰=母から独立し、分離する。そして、太陰=母を排除・破壊するのである。
 この主導中心化し、独立した陽=自我は、言うならば、超陽であり、悪である。悪魔的である。悪魔自体かもしれない。シュタイナー霊学では、アーリマンである。(私はヤハウェはこれではないかと思ってしまうのである。)
 陽=自我の独立化の原因については、稿を改めて論じたい。
さて、以上、自我を不連続的太陰ヴィデア論から説明を試みた。
 ここから、近代的自我はどういうものかよく理解できる。即ち、独立した陽=自我が物質原理、小陰ー小陽対立原理と結びついたのであり、主体は陽=自我で あり、様態は小陰=小陽対立原理=物質原理である。陰=他者の排除・破壊が徹底してあるのである。近代的自我あるいは、近代合理主義は悪魔主義である。
 しかしながら、太陰=陰=他者は存するのであり、それは、心的に浮上するのである。反近代主義はそのような意味合いをもつのである。わかりやすい例はロマン主義、神秘主義、オカルト主義、深層心理学である。
 この太陰の力学であるが、陰陽円を考えるといいのかもしれない。あるいは、陰と陽の振動である。
 西洋文明は陽、超陽の文明であるが、しかし、陰、太陰が出現した。つまり、陽から陰への転換点の意味合いがあると考えられる。
 超陽が排除・破壊した、太陰=他者が復活する力学をもった文明である。
 そう、端的に、新東洋文明を示唆しているのである。易で言えば、陽極まりて、陰に転ずである。
 太陰の復活の文明を示唆しているのである。
 しかし、超陽=自我の力学は強力であり、太陰の再出現を阻止するのである。
 因みに、シュタイナーは20世紀の初期から、エーテル体において、キリストが見え始めると述べたが、キリストとは太陽霊であり、それは、太陰から生まれ る純粋陽のことと思われるのである。太陰から火の鳥が復活するのである。(D.H.ロレンス哲学文学とはその象徴である。ただし、超陽=自我と太陰が未分 化的だったために、リーダーシップ小説において、反動的になってしまった。)
 最後に、心の病(心病と言おう)であるが、それは、超陽=自我が再出現する太陰=他者を排除・破壊せんとする反動力学から生じているように思えるのである。
 現代日本人の自我病はこの心病であると考えられる。

resurrectionのブログ: Japonesian Trans-Apocalypse
| sophiology | 20:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
共情、共心の問題:知情意:頭と胸と肚:3分節的身心:不連続的太陰ヴィデア論

テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

情とはいったい何だろうか。今日、日本人に一番欠落しているのは、情である。情の海、情の川、情の泉等が消失している。
 とは言え、先に触れたように、陰陽において、胸情はどう説明できるのかが問題である。
 私の経験、不連続的差異論が生まれる以前の私の心的様態について考えるのがいいだろう。
 自我の私(頭我)と心の私(肚ベースの胸)の二つに分かれて、前者の否定性を後者で抑えていた、あるいは、鎮静させていた。
 不連続的差異論はこの二つが不連続であることを確認することに存するのである。前者が陽で、後者が陰とすると、陽と陰との不連続性である。そして、陰は不連続的差異になるのである。
 肚のベースのはたらきであるが、胸の共感性(共情性とも呼びたい)の純粋性を保持する面があると思う。自我による反感が生じるが、それによる共感性の濁りを肚の基盤に返ることでなくし、純粋さを保持するである。
 そう考えると、胸は陰陽の中間領域にあると言える。
 結局、自我(陽、正しくは超陽)は、陰陽バランスを破壊するものであり、その調和を維持するために肚の役割があるように思えるのである。陰陽バランスにおいて、胸の共感性(共情)が作用するということではないだろうか。
 つまり、陰陽的身心において、胸の調和が形成されているということになるだろう。つまり、陰陽様態において、胸の純粋共感(共情)が存するのであり、それが自我によって、歪曲されるのであり、その矯正には、肚の働きが必要になるということのように思える。
 肚は太陰=闇であり、それが、陰陽調和の胸の共感・共情を保持する作用をするということになる。
 以上のように考えると、胸=共感・共情性とは、新しい陰陽論、つまり、太一=太陰=闇論から説明できることになる。
 思うに、肚=闇=母(「父」)、頭=光=子、とすると、胸=共感性=聖霊という新三位一体が成り立つように思える。
 ということで、不連続的陰陽ヴィデア論であるが、新陰陽論でであるから、不連続的太陰ヴィデア論と陽を抜いて呼ぶことができるかもしれない。あるいは、不連続的新陰陽ヴィデア論である。
| sophiology | 10:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
初めに闇ありき、そして、闇は光となった。光は不死鳥である。

テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス

注:以下の記述は次の追記の転載である。
続「光とは何か」:肚から大空への放光:個の道と自我の道:陽から陰へと陽から外光へ
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11544151281.html

追記:陰の中心から陽の円周ないし球面への方向が天の方向ではないだろうか。樹木が伸びる方向である。
 陽の天、光の天は至高の美であろう。
 思うに、陽、光とは、陰、闇の頂点である。陰、闇は陽、光を求めたのである。それが、目的である。
 そう、この点に宗教や文化の光やそのメタファーの意義が存すと考えられる。
 マニ教の光とはそのようなものである。
 闇自体が光に変身するのである。
 しかし、問題は、その後の光の運命である。
 闇から生まれた光が、いわば、独立する。闇という根を失い、光の帝国、独裁を生むのである。
 言い換えると、光の物質化、光の自我化である。
 闇の根源を喪失した光が支配するのである。
 闇の光と単なる光を区別する必要がある。
 わかりやすいところでは、陽光は本来は闇の光であろう。そして、物質的光、例えば、電灯は後者である。
 太陽は思うに、両者の中間点である。闇の光と物質光の中間点である。しかし、前者が本質と思われる。
 そう、科学、自然科学は太陽の「表面」、外面しか見ていないのである。つまり、物質面しか見ていないのである。太陽の物質面とは、本来の太陽の外装部分に過ぎないと考えられるのである。
 科学、自然科学は、太陽の内面、本体を見ていないのである。それは、宗教で言えば、「神」であろう。天照大御神である。
 そう、太陽神は闇の光、そう、闇の光鳥とでも呼びたい。不死鳥、フェニックスはこの象徴であろう。天照大御神は不死鳥であろう。
 そして、赤く染められる日本の太陽であるが、それも闇という大生命の光を意味しよう。

初めに闇ありき、そして、闇は光となった。光は不死鳥である。



resurrectionのブログ: Japonesian Trans-Apocalypse

http://moris.raindrop.jp/darkly_draws/wallpaper/2d3d_cg/8.html

 とまれ、この闇の太陽が、赤い太陽が、ドットドットドットと、ドクドクドクと鼓動を打っているのである。それは、宇宙の心臓でもある。
 血、血液であるが、それは、闇という大生命が光に化するときのエッセンスではないのか。闇の光のエッセンス。
 とまれ、物質の太陽の背後には、闇の太陽が潜んでいると考えられる。それが、太陽神として、宗教的に表象されてきたと思われる。霊学者のシュタイナーはキリストを太陽霊と考えているが、それは闇の太陽と考えられる。
 
私は復活であり、生命である。

とキリストは言ったのが、闇の太陽は不死鳥であり、正に、その通りである。
 これで、すべての宗教は一致することが理解される。
 では、気とは何か。それは、やはり、闇の太陽の光ではないだろうか。闇の光である。
 しかし、闇自体と気はどう関係するのか。闇の力が気とも言えるだろう。しかし、闇の光が真の気のように思える。これは検討課題にしよう。

追記2:闇の太陽とはD.H.ロレンスの用語dark sunダーク・サンの訳である。黒い太陽と普通訳されるが、黒いでは、語弊がある。暗い太陽も語弊がある。闇の太陽が的確と考えられる。

新追記(これは本記事への新たな追記である):東洋の鳳凰は不死鳥、フェニックスと共通すると直観される。

鳳凰 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/鳳凰 - キャッシュ - 類似ページ
平等院鳳凰堂屋上の鳳凰像。 ... 鳳凰(ほうおう、拼音: Fènghuáng )は、中国神話の
伝説の鳥、霊鳥である。 ... 鳳凰は、霊泉(醴泉〈れいせん〉、甘い泉の水)だけを飲み、
60-120年に一度だけ実を結ぶという竹の実のみを食物とし、梧桐の木にしか止まらない ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E5%87%B0

resurrectionのブログ: Japonesian Trans-Apocalypse
http://blogs.yahoo.co.jp/barth_lalala/8260416.html
| sophiology | 13:02 | comments(0) | trackbacks(0) |

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