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日本父権自我を解明する:傲慢と隷従の日和見的賤民的自我:二重悪魔連続的同一性自我
JUGEMテーマ:学問・学校

 

日本父権自我を解明する:傲慢と隷従の日和見的賤民的自我:二重悪魔連続的同一性自我

 
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

今は一言。
 典型的な日本父権自我は、他者への侮蔑的態度があるが、その他者とは、自分の利害に関わらない小さなサークルにおけるものであり、自分の利害が関わる社会においては、強者となる他者には隷従するのである。
 この力学については、先に説明したが、より明快に解明したい。
 とまれ、今は、予見のみ。
 尊大傲慢さがあり、他者を侮蔑、嘲り、侮るのを当然とする。この傲慢さは、陽自我凸iから主に来ているだろう。自我尊大、唯我独尊性である。
 しかしながら、先に述べたように、単に陽自我だけでなく、欲望・感情の陰自我凹iが基底にあるだろう。そう、嘲りという感情は、陰自我から来ているだろう。
 他者を無みするという悪意的感情があるのである。他者を軽蔑、侮蔑、嘲笑、軽侮する悪意的感情である。これは、当然、他者への憎しみ、嫌悪があるのである。
 これはどこから来るのか。
 他者を認めるには、陰陽調和心が必要である。陰陽の一の氣の心・精神が必要である。
 しかし、父権自我とは、もともと、それを否定するものである。
 そして、日本父権自我の場合、父権自我の元の陽自我傾斜から、陰自我への傾斜が生起し、両者が連続的同一性を形成すると考えられる。
 この日本父権自我はそして利己的に自分の損にならない限り、他者を否定するが、自分の強者に対すると、利己的に隷従するのである。この強弱の唾棄すべき二面性が日本父権自我にはあるのである。(これを明治「近代」以降の日本の権力層の心的構成と見られよう。)
 西洋近代文化は父権的であるが、他方、他者の肯定の文化(新母権的文化)を形成してきたのである。例えば、民主主義は本来、そういう意味をもつ。
 しかし、明治「近代」以降の日本は、伝統本来の母権主父権従の母権文化を明治維新で否定し、父権主義的変革によって、他者を否定する心的構成を形成してきたと言えよう。
 これは、アーリマン/ルシファーの合体した極めて凶悪な悪魔的心性である。
 日本父権自我とは二重悪魔の連続的同一性自我である。

追記:補足しないといけないことは、以上の説明からわかるように、日本父権自我は、主体性がないことである。他者、相手に応じて、態度をカメレオンのように、変えるのである。
 だから、没創造的であり、且つ、権威主義的である。
 強者に対しては隷従するので、当然、利用されるのである。つまり、騙されるのである。日本の政治が專葬邪に利用されるのは、この日本父権主義の受動性に存していると言えよう。
 普通に考えれば、父権主義は、主体性があるのであるが、どうして、日本父権主義には、それがないのか。
 一見、日本父権主義とは、母権主義と呼びたくなるだろう。しかし、やはり、父権主義と考える。
 即ち、日本父権主義とは、父権主義のきわめて、デカダンス(堕落腐敗)した様態だと思われる。
 西洋の場合、一神教によって、父権主義が規定されると見ていいだろう。勿論、物質的な権力も要因である。
 唯一神が、父権的能動性・主体性の基盤であろう。
 しかし、日本父権主義の場合、そのような一神教的基盤を喪失していると思われる。
 一神教に近いのは、当然、天皇制である。
 しかしながら、神道は八百万の神々の精神世界であり、且つ、天照大神、大女神が主宰神である。
 よって、最初は、一神教的だったかもしれない日本父権主義は、多神教や女神宗教(母権宗教)によって、中心性が阻害されていると思われるのである。逆に言えば、それほど、母権主義が強かったと言えよう。
 故に、日本父権主義は父権主義本来の主体性、能動性、中心性をもっていないと考えられるのである。
 そして、このいわば脱中心化された日本父権主義であるが、それは、陽自我の脆弱さを意味するのであり、おそらく、そのコンプレックスが、陰自我の暗い感情・欲望となったと思われる。
 そう、脱中心化された日本父権主義と言ったが、では、中心は何であったのか。
 宗教的中心は多神教や女神宗教(母権宗教)であるが、権力的中心は、中国と思われる。中国の父権主義に対して、日本父権主義は脱中心化されたと考えられるのである。

 だから、古代において、中国には隷従し、国内においては、尊大に振る舞ったと考えられるのである。
 このいわば劣等的父権主義が日本文化社会に流れとしてあったと思う。しかしながら、日本においては、母権主義が主体である。
 そして、江戸時代において、この劣等的父権主義が、増長して、国学を生んだと思う。それが尊王攘夷となり、また、脱亜入欧になったと思う。
 つまり、本来、劣等的父権主義であるが、それが、日和見的に、他者が弱いと見ると、傲岸不遜に振る舞うのであり、これは、陰自我の感情・欲望がベースにあるので、陽自我の知性の劣化した二元論となるのである。つまり、反知性的な短絡的二元論となり、盲目になるのである。
 この劣等的父権主義=日本父権主義が、明治「近代」以降、支配したのであり、その帰結が、AB凄犬なのである。
 脱中心化された劣等的父権主義、これが、日本父権主義の正体と思える。
 後で、さらに検討したい。

追記2:脱中心化された劣等的父権主義とは、言い換えると、属国的父権主義ということである。
 私が唱える新母権主義とは、陰陽調和心を基軸として、そこから、陽自我と陰自我との新たな調和を調音することである。

追記3:日本父権主義の中心の問題については、さらに検討が必要である。後で検討したい。

追記4:日本父権主義の脱中心化の問題であるが、整理すると、原理的には、父権的宗教をもっていたと思われる日本父権主義であるが、それが、母権主義の 「日本」(倭国)の文化社会環境において、父権自我が脱中心化されて、いわば、陰化されるのである。つまり、脱中心化され、陰自我的になるのである。
 しかしながら、父権自我の基本的である陽自我が脱中心化されたとは言え、陽自我自体は残っているのであり、それと陰自我が結合しているのが、日本父権自我である。
 この脱中心化された、陰自我と結合した陽自我が日本父権主義の特徴であり、これが、強者に媚び、弱者に傲慢となる様態をもつと考えられる。
 そして、古代においては、権力的な強者はおそらく、中国であったということができよう。
 とまれ、この父権主義の堕落様態である日本父権主義が、日本社会文化の一つの基調であり、それが、とりわけ、明治「近代」以降を支配してきたことを確認する必要がある。
 そして、それが、今日、亡国状態をもたらしていると言えるのである。
 そう、簡単に言えば、父権主義のデカダンスが、日本父権主義であり、それは、唯物論・機械論には適合したが、今日、創造性を必要とされる時代にとってはまったく反動で、大阻害要因、破壊的要因なのである。
 

参照:
2014/03/08(土)2  ロシアは世界一の情報発信国
ロシア:新たな巨大通信社創設
巨大通信社創設
ロシアに新しい通信社が誕生 した。海外向けにロシアについての情報を発信することが第一の目的。
新たな通信社は、既存の新聞社「ロシア通信」とラジオ局「ロシアの声」の合併によって創設された。
国際社会でロシアに関する情報を毎日伝える必要性を政府(とくにプーチン)が感じていることから、このような決定がなされたのではないかと、専門家は推測している。

プーチンのロシアが、世界に向けて情報を発信するパワーを強力に加速している。

グローバル化した世界では、政治的にも、経済的にも、軍事的にも、文化的にも、国のイメージをアップさせない国家は(日本のように)信用を失い、衰退してゆく。

いま、ロシアからの情報を視聴し読む読者は日本でも激増している。

ロシアの声 』のほうが、日本のマスコミよりもはるかに「客観的」で、「公正」で、「真実を伝えている!」と思う日本人が日毎に増えている。

これは、ロシアの影響力(や洗脳力)が加速していることだ。

たとえば、先日…、
日本人専門家(大崎巌氏)による『北方領土問題は政治的神話 』という論説が『ロシアの声』に載った。
ばっさりと要約すると…、日本政府と日本人が、北方領土についての今の考え方(歴史認識)を反省し、変えないかぎり北方領土は絶対に戻ってこない!という論調である。

読んでみると…、まことにもって正論なのである。大崎巌氏の主張を論破できる識者は、はたして日本にいるだろうか? (日本政府には、いないだろう!)

さらに!である。
大崎巌氏の論考は、ロシア政府の本音・本心でもあるのだ。
ロシアは、北方領土に関するロシアの本心を見事に本気で提示してくれた。しかも、その「本音の提示」は、日本人学者を使って、日本語で行ったのである。これが外交であり、知略であり、謀略でもある。

こういう外交・知略・謀略は、悲しいが、日本には出来ない。

日本は、あいかわらず「北方領土を返せ!」と…、外交や知略とは程遠い、議論にもならないスローガンをヒステリックに叫びながら、隣国憎悪を深めていくだけなのだろう。
飯山一郎のHP
| sophiology | 14:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
藤井厳喜『落合莞爾・秘史シリーズを語る 戞日本民族三大源流
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YouTube映像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11770430149.html


藤井厳喜『落合莞爾・秘史シリーズを語る 戞日本民族三大源流


テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史
 
藤井厳喜『落合莞爾・秘史シリーズを語る AJER2014.1.30
http://www.youtube.com/watch?v=oeNofxXPqXg


海人がユダヤ系と述べられているが、私はユダヤ系は、天武天皇系ではないかと推察している。

奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新 (落合秘史)/成甲書房

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『南北朝こそ日本の機密 戞敍0羝郡遏AJER


次のように、述べられていて、私の日本民族仮説との共通点と相似点が実に興味深い。

日本民族の三大源流:
1:縄文時代から土着してきた海人(かいじん)族とアイヌ

2:縄文末期に古イスラエル移民の海部、秦氏に連れられて、大陸、支那大陸から渡来し、弥生時代を開いた人たち。雲南由来で、浙江経由で渡来した倭族

3:弥生時代以降渡来したトルコ系の騎馬族

管理人(resurrection)のコメント:
3 つの源流は私の二つに民族説に通じる。私は縄文・弥生民族は母権民族であり、ツングース系百済民族は母権包摂した父権民族であると今作業仮説している。そ して、ユダヤ民族が天皇制に入っていると仮説して、それは、ツングース・百済民族に入っていたのではないかと考えている。
 しかし、落合説では、ユダヤ系は、弥生民族を指導して入ったことになる。これは、鋭いと思う。
 私は以前、父権民族は、中国から来たように感じていたのである。落合説をとると、父権民族は、弥生民族に混じっていたことになる。母権包摂的父権とはツングース・百済民族ではなく、ユダヤ系的弥生民族になる。
 そう、日本独特の母権包摂父権主義は、落合説のユダヤ系指導の弥生民族の社会文化から来ている可能性が出てきた。
 思うに、縄文からアニミズム、騎馬民族からシャーマニズムが来ているのかもしれない。もっとも、縄文にもシャーマニズムがあるだろうが。
 少し私なりにまとめると、海人民族を含めた縄文母権文化(1)が基底にある。そして、母権包摂父権主義=ユダヤ/弥生文化(2)があり、さらに、ツングース・百済的天皇制・王制文化(3)がある。
 そして、2が3を利用して、父権的天皇制を形成したと思われる。しかし、ながら、1と3が結びついた母権的天皇制も同時に存在していたと思われる。
 私は二つの天皇制説、正確に言えば、二重天皇制説を作業仮説している。即ち、母権天皇制がベースにあり、それに父権天皇制がいわば、上部構造のように重なっているというものである。
 そして、父権的天皇制が明治維新に再現したのであり、母権的天皇制は抑圧されているのである。母権的天皇制とは、母権的太陽神崇拝である。
 現代の天皇家はこれを引き継いでいると思われる。
 後で、もう少し整理したい。


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| sophiology | 11:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
二つの天皇制:母体の母権天皇制と父権天皇制:藤原氏と日本書紀
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二つの天皇制:母体の母権天皇制と父権天皇制:藤原氏と日本書紀


テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史
 
以下の説は、興味深いが、天皇制に関しては、一面的であると思う。
 私の仮説は、天皇制は二つあるというものである。母権的天皇制と父権的天皇制であり、両者が重なっているのである。
 思うに、藤原氏は父権的天皇制を作ったのであり、基盤の母権的天皇制を利用しているのである。
 日本書紀は、父権的天皇制イデオロギーの面が強いのではないだろうか。
 思うに、飯山一郎氏の唱える百済国亡命をベースにする日本国建設論であるが、宗像大社とその神話の壮麗さを見るとそれは、母権文化である。
 しかし、百済出身とされる藤原氏は、どう見ても父権主義である。
 この齟齬をどう見るのかである。
 私は先に、父権民族は、中国経由のアーリア系民族ではないかと示唆した。
 しかし、藤原氏が百済出身であるなら、日本父権民族の源流は考え直さなくてはならない。
 これは作業仮説であるが、百済国が実は、母権民族であったが、父権民族によって征服されたのではなかったのか。つまり、父権支配の母権民族としての百済国である。
 それが、原日本に亡命してきたという作業仮説である。
 つまり、元々、百済国は二重天皇制の国であったという作業仮説である。
 そして、その二重天皇制が原日本に来て、日本国を創建するということになるのである。
 そして、元来、母権民族である原日本において、二重天皇制は独自の発展したのではないだろうか。
 つまり、百済の母権天皇制は原日本の母権民族と結びついたのではないだろうか。
 そして、百済の父権天皇制は、それらを支配する方策をとったのではないだろか。それが、例えば、日本書紀の創作ではないだろうか。
 キリスト教をなぞらえて言えば、ヤハウェ的天皇制とキリスト的天皇制が生じたのではないだろうか。
 そして、土着的原日本人は後者に惹かれたのであり、今のもそうである。
 そして、自民党のような明治維新的タカ派路線は当然、ヤハウェ的天皇制である。
 もう少し言うべきであるが、時間がないので、今はここで留める。
 

藤原氏の正体編: 心の尊さ(真実)と血筋の尊さ(虚飾)

長年に亘って藤原氏と関わって藤原氏を見てきた先祖を持つ清和源氏の一族の私には、藤原氏の顔がそのままハイド氏の顔に見える。安倍晋三は藤原系の政治家だ。同じく天皇制の 母体となっている神道の靖国神社では、お国のために死ねる若者育成セミナーをしているそうだ。戦前・戦中は「お国のために死ね、死ね」と叫ばれ、国民の命 が粗末にされた。今は天皇制の支持率は低いようだが、彼らはその事実を言論弾圧によって隠蔽している。彼らは天皇制を強化して、戦前・戦中の大日本帝国に 戻そうとしている。彼らは日本を再び戦争に引きずり込もうとしている。竹島問題、尖閣諸島問題も、彼ら右翼系政治家が日本側から火をつけて、わざと煽っ た。日本を戦争に引きずり込むための自作自演ではないか、と思われる。日中戦争は日本側からの自作自演で勃発したことを忘れてはいけない。安倍晋三らの藤 原系政治家が、「この1300年以上の間、しばしば日本を中国や朝鮮との戦争に引きずり込んできた、ルーツ不明の一族である藤原氏」の中心なのである。
藤原氏の祖・鎌足は日本の豪族である中臣氏出身であるということになっているが、有名な一族であるにもかかわらず、本当のルーツは不明だ。しかし、藤原鎌足の正体は、日本を白村江の戦い(663年) に引きずり込んだ、百済王子豊璋であると思われる。彼は白村江の戦いの決戦の直前に、負けそうだと思って、家臣を騙して手勢を少しだけ引き連れて逃げ出し (軍の将・王子豊璋が行方不明になったため、余計に大敗した)、高句麗に逃げたことにして、日本にこっそり逃げ帰って、天智天皇から中臣鎌足(後に藤原鎌 足)の名をもらって帰化した。人間として卑怯極まりない。藤原鎌足の直系子孫は「百済系朝鮮民族の王族である自分達は血筋が尊い」と考え、大和民族を侮蔑 している。祖国・百済を滅ぼした、唐(中国)、新羅(朝鮮)への恨みの気持ちをずっと持っており、「お国のために死ね、死ね」と大和民族を騙して、中国や 朝鮮との仇討ち戦争をもくろんでいる。それが、竹島問題、尖閣諸島問題をわざと煽っている、右翼系政治家の真の目的だ。唐(中国)、新羅(朝鮮)を仇討ち できるし、日本列島の上に「日本」という名の百済国を再建するにあたって、邪魔な日本土着民(大和民族、沖縄人、アイヌ人ら)も、戦争を通じて大量にわざ と殺害できて減らせる、と考えておるようだ。


http://seiwagenjisinjitury3.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-ded1.html

 
| sophiology | 22:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
ユダヤ教VSプロテスタンティズム:二重道徳のユダヤ教と二重道徳の日本父権は酷似する
 

ユダヤ教VSプロテスタンティズム:二重道徳のユダヤ教と二重道徳の日本父権は酷似する

テーマ:宗教・神話・社会・歴史

『古代ユダヤ教』M.ウェーバー(2) - きおくのきろく - Yahoo!ブログ  

(以下、強調は本ブログの管理者に拠る。)

対内・対外道徳の二元主義

 

 隣人愛は古代ユダヤ教でもあったが、それはどうもすべての隣人ではなく、同じ宗派仲間を意味していたらしい。

隣人とは常に民族共同体員であるか、宗派的仲間なのである。このことは、「(隣人を)自分のように愛すべきだ」という心情倫理的説教においてもあてはまる。説教の道徳的内容は「兄弟」のみにかぎられていた。 

では、宗派仲間以外の他者についてはどうなるのか。そこに、共同体の境における対内・対外道徳の二重化が発生する。たとえば、「兄弟」からは利子をむさ ぼってはならないが、それ以外の他者からの利子は許容されるとか。ここが、いわゆる「ブロテスタンティズム」の経済倫理と決定的に相違したことをウェー バーは強調する。

 

プロテスタントのピューリタニズムにとっても、同じ宗派仲間ではない者はやはり「神なき者」であることにかわりはないのだが、それに対して、どのような態度をとったかというと、

彼 らはまさに「神なき者」との経済交渉において、ごまかしたり、だましたりするかわりに、合法的で正直で公明であった。彼らは固定価格の制度を遂行し、たと え子供が買い物に来てもやはり公正価格で公正な商品を常に手渡した。預金もクレジットも彼らにおいてはまさに一般的な「信用」が出来たこと、だからこそ 「神なき者たち」の多数が彼らの商業金庫や実業家の顧客となった。要するに、宗教的に制約された、優越せる経済的エートスをもっていたおかげで、「正直は 最上の政略」という原則に従って、神なき者たちとの競争に勝った、ということである。 こうしたことはアメリカ合衆国においては、つい2、30年前までは中産階級の現実のエートスとしてそのまま体験することができたものなのである。 

それに対して

ユダヤ教の場合は、これと相違した。経済的対外関係の倫理的合理化へと導く救済論的な動機づけが欠如していたからである。 ユダヤ人たちが特に通暁したのは、貨幣高利貸しや商業とならんで、国家・掠奪資本主義であり、これこそピューリタニズムが徹底的に嫌悪したものである。 

ウェーバーはユダヤ民族が「客人民族」であったことを強調する。「客人民族」とは現地における部外者民族という意味で、ディアスポラ以降、国を失った彼らの置かれた必然的な状況なのである。

 

 
http://blogs.yahoo.co.jp/leic523/35325084.html


古代ユダヤ教M.ウェーバー(1) - きおくのきろく - Yahoo!ブログ  


マックスウェーバー古代ユダヤ教」(岩波文庫・上)1/3 - 週に一冊

d.hatena.ne.jp/oshimayukinori/20130306/1362528942 - キャッシュ
2013年3月6日 ... マックスウェーバー古代ユダヤ教」(岩波文庫・上)1/3. 訳者(内田芳明)まえがき.
賤民宗教のユダヤ教が世界宗教に発展したのはなぜか. 近代西洋の文化形成の根底
にはウェーバーの言う「合理的(禁欲的)実践的生活態度」があるが、 ...

バアルとヤハウェ ウエーバー古代ユダヤ教』ノート(1) | 聖書における愛 ...

8661.teacup.com/agapekainomos/bbs/32 - キャッシュ
2011年6月19日 ... その後、バアル神信仰の詳細がひどく気になってきて、読みかけになっていたマックス
ウエーバー古代ユダヤ教』(岩波文庫)を、第1章第13節「バアルとヤハウェ、偶像と神
の箱」を中心にいくらか読み直しました。関連して、山我哲雄氏の『 ...

 古代日本とユダヤ・キリスト教

http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/yomu.htm#kodainihon

古代日本とイスラエル10部族の謎  

もしイスラエル人が古代の日本に渡来し、日本民族の形成に大きな役割を果たしたという考えが事実だとすれば、私たちは少なくとも次の事柄を、心にとめることができるでしょう。
 一つは、私たち日本人にはイスラエル人の血が一部流れているかもしれない、ということです。アブラハム、イサク、ヤコブの血が、私たちの体にも一部流れているかもしれないのです。
 二つ目は、聖書の神ヤハウェは決して、日本人に遠いかたではないということです。
 古代の日本人は、聖書の神ヤハウェを知っていたのです。それが時代とともに「八百万の神」の多神教に堕落したとはいえ、私たちには古来からヤハウェの神への信仰の伝統があるのです。
 ある意味で、日本建国の神は聖書の神ヤハウェである、と言っても過言ではありません。今日の日本は、その堕落変形してしまった姿なのです。
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/032kodai.htm

参照:
母権的日本人(共自然的日本人)と父権的日本人(反自然的日本人):対立する異民族の混淆の日本人?

飯山一郎氏のように故郷喪失を慨嘆する人は前者である。しかし、私見では、今日の大半の日本人は後者である。
 やはり、まったく異質な民族の混淆としての日本民族を思う。
 敗戦後、アメリカ的都市化を受け入れたのは後者である。
 やはり、「大東亜戦争」で、前者の多くが戦死して、後者の人間が牛耳るようになってしまったように思えるのである。
 国学イデオロギーが、明治近代化のベースにある新父権主義だと思うのであり、それが、敗戦後もしぶとく支配しているのである。
 日本新父権主義の反自然主義は、結局、旧約聖書的なのではないだろうか。日ユ同祖論は、先にも述べたが、この点で考えられるのである。
 積極的な意味もあるが、もはや、否定的な意味が強過ぎよう。
| sophiology | 14:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
西日本が日本を変える?:西日本は母権的で、東日本は父権的?:西日本の母権的地霊とスピリット
西日本が日本を変える?:西日本は母権的で、東日本は父権的?:西日本の母権的地霊とスピリット

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私はちょうど20年前頃に、奈良への旅行や九州旅行をした。
 奈良は日本でいちばん好きな場所である。また、九州も好きである。宮崎と鹿児島が好きである。特に、霧島高原は好きである。
 私はそれまで、信州が好きで、あちこち行ったし、また、東北や北海道にも行った。
 しかし、私が魅かれるのは、西日本である。これは感性、感受性の問題である。西日本の人間は、柔らかな感性があると思う。どうも母権的と呼びたいのである。それに対して、関東の人間は父権的と感じられる。
 そして、今、ポスト311の時代である。放射能が東日本を汚染しているのである。
 それと精神風景を考えると、どうやら新しい日本は西日本が創るようである。
 そう、奈良に魅かれることについて述べよう。大阪のベッドタウンとして、痛ましく開発されている奈良盆地であるが、やはり、古代の雰囲気が未だに残っているのがいい。奈良盆地の気が円かでいいのである。しなやかである。気持ちが安らかになるのである。
 それはいいだろう。それより、私にとって再生の地となったことを述べておこう。
 私の精神史の問題であるが、いわば複雑怪奇で説明するのが難しいので、ポイントだけ述べる。
 私は関東の精神的空気、というか、東京の精神的空気をひどく息苦しく感じていたのである。そう、今でも、東京、関東の精神的空気を抑圧的であると感じるが、20年前はそれをとても苦痛に感じたのである。
 有り体に言えば、周囲の人間と私の精神のあり方の違いを痛感していたのであり、そのため、孤立していたのであり、どうにも息苦しく、奈良へ、関西圏へと逃げ出したという感じである。
 そう、新幹線で名古屋まで行き、そして、近鉄に乗り換えて、奈良へ向ったときの車内の柔らかな精神的空気に自由に息ができ、ほっと安堵し、救われたものである。それほど、当時は、感受性が敏感になっていたのである。そう、病的と言えるほど、敏感になっていたのである。(その原因は身体的なものであるのが、後で分かったのであるが。)
 当時は、新宗教ブームであり、奈良の某神社のある地へと数回足を運んだものである。そのとき、確かに不思議な体験をしたことはしたのであるが。(それはあまりに主観的なので、述べても通じないだろうから、言わない。)
 とまれ、その奥吉野のさらに南の奈良の地で、私は喫茶店に居て、当地の人のあたたかな、やわらかな声を聞き、ほっと深く安堵したのである。私の心、魂に安らかに響く声を聞いたのである。あるいは、宿泊した民宿の女主人の真摯な態度にやすらぎを感じたのである。(そう、奈良盆地の旅館の女主人の態度にも安堵した。)
 そう、私は私の心、魂と通じる人たちをその奈良の地に見つけたのである。私の心は癒されたのである。東京の違和感のある精神的空気に苦痛を感じていた私の心は癒されたのである。
 私は心の支えを見出して、私の精神的態度が間違っていないことを確認したのである。
 とまれ、その後、いろいろなことが起きたが、奈良の地での、心の確認は残っていると言えよう。
 結局、今、哲学的に言えることは、西日本には、母権的精神が残っていることである。魂、心が残っていることである。関東、東京の父権的な利己主義とは異なる、日本本来の母権的精神が残っていると思われるのである。
 今年6月に小倉に出張したが、精神的空気に感動したのである。九州の地霊とでも言うのか、それは、母権的と思われるのである。
 今日の狂った日本を蘇らせるのは、西日本の母権的地霊、精神であると思われるのである。 



太陰から陽へ、陽から物質への生成力学

テーマ:不連続太陰イデア論:無双太陰原理

最近は余裕がないし、当分余裕がないので、哲学的科学的考察ができない。
 一言本件について述べよう。
 太陰を中心点とし、陽を円(円周)ないし球(球面)とするのが、今の仮説である。
 そして、陽から物質が生まれるのである。
 これまでは陰陽共振から螺旋生命物質体が生じると考えたが、今はどう考えるのか。
 直観では、陽は物質性を帯びるのである。陽を光(太陽光)とすると、それは、物質的外面を帯びるのである。
 この陽と物質との連関がまだあいまいそのものである。
 作業仮説であるが、円周において、内側と外側を分けてみる。
 内側が陽であり、外側が物質である。
 そう、円を気円とする。これが、原子モデルである。
 とまれ、陽が同一性化し、物質になるとそれは、プラスである。そして、同時に、マイナスが極性として生起する。
 ここでは、電子を考えている。
 プラスは陽子で、マイナスが電子ということかもしれない。
 ならば、原子モデルは円周で形成されるということになる。正確に言えば、円周の外側に原子があり、内側は陽である。そして、中心点は太陰である。
 言い換えると、気円(中心点が太陰で、円周内側が陽)の外側に原子が考えられるということである。つまり、気円の外側が物質であり、内側は気であるということである。そして、気に霊を含めていいのではないだろうか。
 今は問題提起に留める。

追記:円周の外側、内側という言い方はわかりにくい。
 仮に3本、線を書く。

外側________
境界________
内側________

以上、3本は実際は一本の円周であるが、便宜的に、3本に分けてある。
 外側に原子が存し、境界を隔てて、内側に陽、そして、中心点に太陰が存するという概念である。
 境界はいわば、スピリットと物質の境界である。これをどう捉えるのか。以前、MP(メディア・ポイント)という考え方をしたが、これは、ポイントではない。ラインである。
 後で検討したい。

追記2:追記で、ラインの境界を提起したが、果たして、それが必要なのか。一元論なので、不要なようなに思えるのである。
| sophiology | 03:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
ポスト父権的日本へ向けて:新母権的日本の誕生へ:日本人と個:集団的父権主義と個的母権主義
 テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私が見るところ、現代日本人は、個を排除している。そして、集団原理における自我原理で生きているように見える。
 とまれ、個について、もう一度考えてみたい。
直観で言うと、やはり、個は、個の原理は、肚、陰、陰イデアに存するのである。
 「わたし」の基盤、基底、ベースは肚、陰、陰イデアにあると直感するのである。
 そして、「わたし」が感じる苦しみもそこに存するように思うのである。(喜び、嬉しさもそこだろうか。それは、胸のような気がするが。)
 そう、私は今日も森を散策したが(まるで、低山の尾根道を歩いているみたいだ。ただし、眺望のない。)、森と私は共振している。森は陰である。陰で森と共振するのである。
 もっとも、視覚(陽)は森の姿を捉えているのであり、陰と陽の共振があるのである。森の陰陽共振と私の陰が共振している(私の主体における森の陰陽共振と私の陰陽共振の共振である。共振の共振である。)ということだと思う。
 とまれ、私にとり、森は陰である。それは、イデア的生命である。
 そして、この陰に私の個もあるのである。私と森は陰=個的に連結していると言えよう。
 しかしながら、現代日本人を見ると、陰が欠如しているように見えるのである。
 「わたし」という自我=陽(正しくは、超陽)は、ベースに肚=陰をもっているのである。ここに、「わたし」の個の原点がある。それは、陰陽共振である。 ここで、植物的生命(グリーン・イデア・エロース)と調鳴するのである。つまり、陰は、陰陽共振、陰陽イデア、気イデアを指しているのである。言い換える と、気イデア界を指している。というか、気イデア界の分有がそこにあるのである。つまり、気イデア界に陰において、「わたし」は個として、帰属しているの である。
 気イデア界とは、「わたし」の個の本体・本質である。つまり、「わたし」の根源である。
 だから、私が現代日本人に陰が欠落していると見るとき、それは、現代日本人が本体・本質を喪失しているということと同じことになる。
 これは、どういうことなのか。明らかに、個の本体・本質・原基を排除して生きているのである。つまり、本当には生きていないのである。皮相に、物質的に生きているに過ぎないのである。魂が抜けているのである。
 これは、不連続的差異陰陽論から見ると、同一性主義=自我(超陽)によって、陰=他者を排除・隠蔽していることを意味するのである。
 有り体に言えば、他者自体を知りたくないのである。自我、それも集団社会的自我でありたいからである。
 実に軽薄な、皮相な、また、後退した生き方である。サブ・ヒューマンである。
 この同一性主義を肯定するためのなんらかの基準があると考えられる。
 当然、集団的鏡像である。それが、価値判断の基準となっているのである。
 そう、その集団的鏡像の基準であるが、それは、近代的科学・技術と資本主義の物質主義をベースにもっていると考えられる。そう、唯物論である。正しくは、唯物教、唯物崇拝であるが。
 つまり、唯物的集団的自我が現代日本人の主体の基調である。
 問題は集団主義である。この根源は何か。
 集団主義とは自他未分化様態を意味するだろう。
 では、自他未分化とはどういう力学をもつのだろうか。
 ここでこれまでの考えを言うと、集団主義は弥生農耕文化社会の産物であったので、一種の母権主義であると考えていたのである。
 しかし、今、ふと、自他未分化とは、父権主義に拠るのではないのかと思えたのである。
 母権主義は、陰をベースにするので、陰陽共振があるので、自他は未分化ではない。
 ならば、弥生農耕文化の母権的集団主義は、自他未分化ではないということになる。
 だから、私の視点を訂正する必要がある。集団主義は必ずしも自他未分化ではない。自他未分化の集団主義と自他分化の集団主義があるということになる。
 ということで、問題は、唯物的自他未分化的集団的自我の問題となる。そして、自他未分化的集団主義は父権主義と考えられるのである。
 故に、唯物的父権的集団的自我が現代日本人の主体ということになる。
 だから、父権的集団的鏡像が価値判断基準ということになる。
 端的に言えば、父権主義的鏡像である。つまり、父権的価値ということである。父権的イデオロギーである。
 強固な父権主義があるということになる。
 結局、現代日本人に陰が欠落しているということは、とりもなおさず、父権中心主義が支配しているということになるのである。そう、今日、若者を見ると一 見、女性がイニシアティブ、主導力をもっているように見えるが、実は、女性が父権主義を模倣しているということだろう。倒錯なのである。決して、母権主義 ではないのである。
 結局、現代日本人が個を排除しているということは、父権主義が支配していることが原因ということになったのである。
 自我(超陽)は、陰、陰陽共振、気的イデア界、根源界、母権原理を恐れるということなのである。
 結局、私の持論をまた証明することになった。つまり、近代日本は、父権的民族の日本人が作ったのであり、母権的民族の日本人は抑圧・排除されていることになるのである。
 日本人は本来は後者である。父権的民族の日本人は、本来的ではないのである。それは、外来種である。しかしながら、それは、一つの要素である。
 現代日本の超危機は日本民族本来の母権的民族が排除、隠蔽されているということである。
 そう、この父権的民族支配は、実は、某国による日本の植民地支配によって強化されていると言えよう。
 日本内部の父権主義と外部の父権主義が結合して、日本本来の母権民族性を抑圧・排除・隠蔽しているのである。
 ここに亡国の超危機があるということになるのである。
 後で整理したい。
| sophiology | 03:39 | comments(0) | trackbacks(0) |

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