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理論名称:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論よりも明快である
 

理論名称:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論よりも明快である

テーマ:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論

理論名をプラトニック不連続的差異共振理論と長い名称にしたが、これは端的に長過ぎるし、ピンと来ない。理論名称を不連続的陰陽論にした方が、すっきりとするだろう。
 ここで、物質原理を言えば、それは、連続的同一性原理である。陰陽共振の外側に連続的同一性原理による物質が形成されるのである。
 内部には、陰陽共振(気)があり、外部には物質があるのである。これは、生命物質体である。
 人間の場合、連続的同一性原理が一般生物よりも強化されているのであり、連続的同一性中心主義になっていると考えられる。
 この縛りを、不連続化が解除するのである。そして、脱連続化によって、主観は、いわば、カオスの他者に遭遇するのである。
 しかし、それは、コスモス的カオスである。つまり、陽が陰に出会っているのであり、陰陽共振が生起しているのである。
 これは、太一への志向性である。カオスモスという言い方は適切かもしれない。
 問題は、陰は動物的陰と植物的陰があると思われる。これは、欲望でもある。動物的欲望と植物的「欲望」が生起すると思われる。
 そう、動物的欲望がプラトンの説く万民向けのエロースで、植物的「欲望」が天上的エロースに当たるように思える。
 思うに、前者は陰陽共振をもたらさない。陰陽破壊である。それに対して、後者は陰陽共振をもたらすと思う。太一への方向である。
 このカオスモスであるが、動物的欲望を昇華する方法があるのだろうか。
 今の考えでは、それは、健康的視点である。何故なら、動物的欲望は健康を破壊するものだからである。それは、陰でありながら、陰自体を破壊するのである。
 だから、動物的欲望を避けて、植物的「欲望」の肯定によって、陰の肯定がもたらされ、陰陽共振が成就すると考えられる。
 思うに、動物的欲望は男性に傾斜していて、植物的「欲望」は女性に傾斜しているように思われるのである。
 とまれ、植物的「欲望」の肯定によって、陰陽共振(気)がもたらされ、それは、また、美・愛(エロース)である。
 そう、太一(太極)とは、生命イデアである。それも植物的生命イデアである。動物的生命ではないだろう。
 初めに、植物的生命イデアありき、となる。
 ここで、キリストの愛を考えると、それは、植物的「欲望」、エロースと同じなのだろうか。
 確かに、キリスト愛も植物的「欲望」に通ずるだろう。しかし、何か、エロースと呼べないものがあるようだ。これは措いておこう。
 とまれ、植物的「欲望」の観点(感点)から、太一=植物的生命イデアへの志向が生まれるように思われる。
 それは、美的であり、また、性的である。しかし、美的性愛的である。
 そう、美と愛と性が融合したものである。
 問題は異性愛である。やはり、植物的異性愛と動物的異性愛があるのではないだろうか。
 私が唱えるセクシー・スピリチュアリズムとは、前者と考えられる。イデア的なエロースである。
 
追記:キリスト愛であるが、やはり、それは、精神主義的愛であり、エロース的ではないと思う。いわば、カント的な格率、当為になっていると思われるのである。汝為すべしである。
 しかしである。その精神主義的愛の源泉は、精神的エロースではないのか。つまり、初めに、イデア的エロースありきではないだろうか。女性的植物的エロースである。
 ならば、植物的エロースが精神主義的愛になったのがキリスト愛と言えよう。
 そうすると、キリスト愛とは、精神主義的愛と植物的エロースの中間に位置するように思える。
 しかし、前者が優位である。
 だから、聖霊の時代とは、精神とエロースとの均衡の時代、精神とエロースの真のバランスの時代ではないだろうか。
 私がいう気的身体理性の時代ではないだろうか。
 精神とエロースの両極をもつ植物的エロース精神である。
 
Sat, April 13, 2013

生命原理とは何か:動的平衡論と不連続的陰陽論

テーマ:不連続的陰陽論:不連続的差異共振理論
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)/講談社
¥777
Amazon.co.jp
177ページまで来た。
 とても知的興味の起る名著である。
DNAの二重らせん構造発見の生臭い裏話と知的ミステリーが一体となり、実に「面白い」評論である。確かに、著者は文学的素養・才能がある。文理融合型知性である。
 とまれ、先に触れたが、著者の唱える生命における動的平衡という概念は、不連続的差異共振理論(不連続的陰陽論)で説明がつくと思われるのである。
 多忙なので、読書時間が短い。
| sophiology | 02:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
スピノザの心身平行論と三重の「自我」・知性覚:単独・特異性の前自我の力の意志
不連続的差異論では、メディア界は、心身一体の領域となるが、不可視の領域である。これは、スピノザの神即自然の領域であろう。しかし、スピノザは、心身論を説かなかった。心と身体の二元論をあくまで保ったのである。スピノザは、思惟と延長を属性とした。これをどう捉えるべきか。即ち、実体(神即自然)の属性とすることで、デカルト哲学から、離れたと言えるだろう。思うに、思惟と延長、ないし、心と身体は、不連続的差異論的には、どこに位置するのだろうか。
 思惟・知性・心はどこに位置させるべきか。確かに、メディア界に置くというのは考えやすい。しかし、問題は、メディア/現象境界である。ここでは、差異と同一性の弁証法が生起しているのである。即ち、思惟と言った場合、差異の思惟と同一性の思惟があるのである。近代自我は、同一性の思惟をもつし、また、同一性の身体をもつだろう。しかし、差異の思惟と差異の身体があるだろう。ここには、二重の思惟と身体があることになる。スピノザの思惟と延長、心と身体とは、メディア/現象境界における差異と同一性の弁証法を、差異を肯定することで、解消し、メディア界の対極性の回路を開く契機となっていると言えよう。だから、スピノザの思惟と延長、心と身体は、メディア/現象境界にあり、それが、差異の能動観念的肯定からメディア界へと浸透していくと言えるだろう。
 ということで、スピノザの心身平行論における思惟と延長、心と身体の属性を不連続的差異論的に位置且つ意味づけることができた。

 以上のようにスピノザの心身平行論を不連続的差異論的に布置できたが、では、スピノザ哲学の自我は、どういう意味をもつのだろうか。私は、これまで、デカルト哲学からの進展としてのスピノザ哲学を説いてきたが、デカルトのコギトをスピノザは、継承しているのだろうか。私はこれまで、そう考えてきたのであるが、以上のような布置からすると、再検討が必要である。
 スピノザ哲学の実体に相当するメディア界的思惟・身体(心身)は、単独的自我と同一性自我との中間であろう。おそらく、少なくとも、三つの自我がある。即ち、

1)単独自我
2)心身自我
3)同一性自我

である。そして、自我をフッサール哲学からノエシス/ノエマとしよう(簡単に、ノエシスマないしノエシマとしよう)。ノエシマとは、知と感覚との統一体であろう、本当は。というか。知覚そのものと言うべきかもしれない。ヌース理論で言えば、NOOS即NOSである。志向性は、感覚知覚、知覚、知性感覚である。物質的に言えば、神経である。神経の正体は、ノエシマである。ヌース理論的に言えば、造語して、 NOOSAであろう。不連続的差異論的には、差異のベクトル(方向性)である。また、造語して、知性覚としよう。知性覚が、神経の正体である。そして、これは、不連続的差異であり、また、共振差異である。そして、同一性において、身体と知性に分離する。
 とまれ、上図式は、

1)単独知性覚
2)心身知性覚
3)同一性知性覚

となるだろう。少なくとも、この三重の知性覚が存していることを確認しよう。これは、当然、イデア界知性覚、メディア界知性覚、現象界知性覚である。
 ここで、デカルト哲学に何度も言及することになるが、コギトは、1と3とが重なり合っているものであり、単純に近代自我と見ることはできない。しかし、考えると、もともと、根源には、単独知性覚があり、その展開としての同一性知性覚が生じるのである。図式化すると、

3)表層:同一性知性覚
____________

2)中間層:心身知性覚
____________

1)基層:単独知性覚


となり、基層の展開としての中間層、表層であると言えよう。とまれ、近代自我の潜在意識として、基層があることは確かである。これを、ニーチェやフッサールは明確に、探求し突き止めたと考えられるのである。スピノザはそこまで達していないと思う。ドゥルーズは、中間層と基層を混同していたと考えられる。(キルケゴールは、先駆的に達していたと考えられる。シュティルナーの唯一者は、デカルトのコギトの展開のように思える。)
 近代自我とは、中間層を排除し、かつ、また、基層も隠蔽している。つまり、近代自我/近代合理主義は、中間層と基層を排除し隠蔽しているのである。近代自我の暴力性は、この排除・隠蔽という反動性にあるだろう。思うに、近代自我暴力は、基層の単独性・特異性の力に対応しているものだろう。つまり、ニーチェ的に言えば、力の意志に対応して、近代自我暴力が反動として発生していると言えるだろう。
 問題は、単独性・特異性の力は、自我においてどういう意味をもつのかである。これは、自我の根源である。原自我である。前自我である。これは、不連続であるから、メディア界的共振的連結性を断ち切る、切断、断裁すると言えよう。つまり、破壊/創造の力と言えるだろう。あるいは、独創の力、天才の力である。これは、メディア界→現象界的連続・同一性の現象を断ち切り、新しい《メディア》を創造するのではないだろうか。古い《メディア》を破壊して、新たな独創的《メディア》を新構築すると考えられるのである。その基盤は、単独・特異性の力、力の意志(イデア界の力・虚力)である。
 結局、不連続的差異論によって、この《潜在イデア》の力が明確化して、連続性を断ち切り、メディア界を純粋化したと言えるのである。それまで、メディア界は現象界と連続していたのである。つまり、両者未分化状態にあったのである。これが、明晰に分化したのである。だから、現象界からメディア界への進展がここで、明確になったと言えよう。近代の崩壊・解体・瓦解である。即ち、西洋文明の終焉である。新たな東洋文明(ユーラシア文明)の起動である。
| sophiology | 12:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
同一性、ルサンチマン、近代的自我:同一性構造と差異的他者:特異性・不連続的差異進化へ向けて
メディア界からの1/4回転で、現象界が生じる。このとき、メディア界のもっていた相補性☯が隠蔽されて、同一性が生じるのである。それが、現象界の意味であり、近代的自我とはその究極的な形式だと考えられるのである。
 意識の問題をここでは考えないといけないが、メディア界において、差異1☯差異2ないし差異1⇔差異2というように双方向性がある。ヌース理論では、双対性と呼ばれるものである。この☯、⇔、双対性が排斥されて、現象界自我が生起するのである。図式化すれば、差異1=差異2である。この変換構造をどう形式化できるだろうか。これは、メディア/現象境界の構造の問題である。この境界、MP境界は、簡単に記号化すれば、☯/=である。メディア界の相補性の極性が、現象化する際、消失無化されるのである。換言すると、ゼロ化から無化である。メディア界においては、自己である差異1にとって、他者である差異2は、無くてはならないものであった。つまり、対極性・極性における他者・他極としての差異2であったから、その差異性が絶対に必須であったのである。しかし、さらに1/4回転したとき、無化が生じる。そのとき、極性が消失して、志向性は差異性ではなくて、同一性となると考えられよう。ゼロ化の志向性は極性ないし極性的差異性、相補性的差異性である。それが、無化の志向性となるのが、現象化である。極性がなくなり、差異性がなくなり、真の他者がなくなる。その替わりに、同一性化した他者が存するのである。あるいは、当為としての同一性の他者と言ってもいいだろう。これが、ドゥルーズが述べた構造としての他者であると考えられる。ここでは、ゆらぎが排除されている。完全なる二項対立、二元論の世界である。差異1=差異2である。半田氏が、ラカンの鏡像段階に言及して述べていた同一性がここで発生しているのであるが、私としては、鏡像段階という概念を使用せずに説明したいのである。自己である差異1が他者である差異2と等価になる。これまで、志向性は、差異的であったが、現象化においては、志向性は同一性的、同一化的である(id化である)。ここでは、イデア界にあった境界が完全に消失・無化されているのである。不連続的差異の完全な転倒である。ここでは、無という同一性が支配的である。そう、これは、本来、非存在なものであり、いわば、幽霊なのであるが、現存在していると見えるのである。(ここで、ウィリアム・ブレイクが、悟性機能を幽霊 spectreと呼んでいたのを想起する。)
 とまれ、この無=同一性の発生によって、差異1は差異2となり、差異2も差異2となるように強いられるのである。ここには、同一性の暴力があるのである。そして、意識が志向性であるならば、ここでは、志向性は無=同一性になっているのであるから、同一性の意識がここにある。これが、自我、とりわけ、近代的自我である。
 では、どうして、これが、二項対立、二元論となるのだろうか。ここは、旧約聖書のヤハウェを想起するといいだろう。ヤハウェは、イスラエルの民が、自分の命ずるところを聞かず、偶像崇拝を続けるので、復讐心に燃えて、異教を暴力的に排除しようとするのである。この異教排除が、二項対立、二元論と同型であると言えよう。超越一神であるヤハウェは、多神教を排除するのである。【ここで、興味深いのは、神はエローヒーム(複数)という名をもっていたことである。これは、思うに、ヤハウェの影である。つまり、メディア界における自分がそれであり、それを、いわば、異教へと投影して、攻撃していると考えられよう。】このヤハウェが同一性の起源であると言えるだろう。これは、異教=差異を排除しないではいないのである。ここで、実に興味深い、意義深いことは、同一性の力学・暴力は、当為でしかないことである。つまり、差異は、差異として、現象界に存在していることである。これは、最高度に喜ばしいことである。救い、「福音」である。
 ここで、もう一度、現象化の図式を考えよう。メディア/現象境界は、差異1☯差異2/差異1=差異2であり、現象化とは、差異1=差異2である。つまり、差異1・同一性・差異2である(・を無点としよう。)。即ち、見ての通り、差異が存在しているのであり、ただ、同一性が差異を同一性へと還元しようとする力学・暴力・当為をここに見なくてはならないということである。これが、二項対立、二元論なのである。そして、西洋近代において、これが、徹底したと言えるのである。いわゆる、近代的自我、近代的合理主義である。西洋の資本主義、植民地主義、帝国主義、オリエンタリズム、等々の権力・暴力・戦争主義の起源はここにあると言えるだろう。そう、ユダヤ・キリスト教的超越的同一性の帰結である。
 差異抑圧・排斥・排除・差別・隠蔽の力学は、西洋文明に内在しているのである。というか、ユダヤ・キリスト教的西洋文明に内在しているのである。アメリカ政府が世界に、身勝手に、おせっかいに、内政干渉的に、似非民主主義を押しつけるのも、この同一性暴力力学構造のためと言えよう。
 さて、結局、現象界、現象化においても、差異が存在していることがわかったのである。これはどういうことであろうか。それを検討する前に、本テーマのルサンチマンとの関係に触れよう。私はこれまで、ルサンチマンを、イデア界の共立共感性が否定された場合に発生すると考えたのである。しかし、以上の考察から、そうではなく、同一性構造からルサンチマンが発生すると考えた方が、合理論的である。同一性の意識が、差異である他者を意識したときに、生起するのが、ルサンチマン(嫉み、憾み、怨恨等)である。差異である他者が優れていればいるほど、同一性の自我はルサンチマンを感ずるのであり、その優れた差異である他者を排除しようと暴力を振るうのである。(だから、西洋のオリエンタリズムも、優れた他者である日本文明やイスラム文明等を排除しようとするのだろう。日本人よ、心して読め。)ここで、文化人類学者ルネ・ジラールの模倣欲望を想起するが、それは、正しい学説である。他者を模倣し横取りするというのは、正に、同一性の自我意識の態度であるからである。また、ラカンの鏡像段階の説であるが、これも同一性の構造の視点から説明できるだろう。
 さて、現象界においても差異が存在することの意味を考察しよう。この差異とは何であろうか。差異1・同一性・差異2の差異1と差異2である。これは、単純に見て、現象界において、差異と同一性とが並存しているということである。つまり、差異と同一性との分裂状態にあるのが、自我であると言えるだろう。これは、基本的には、誰もが感じるものである。他の誰でも無い「わたし」(差異)が存在し、また、同時に、他の人と同様に、働いて金を稼がなくてはならない「わたし」(同一性)が存在する。極く当たり前のことであるが、これが基本である。結局、資本主義においては、後者が主体になってしまう傾向があり、前者を抑圧し、忘失してしまうのである。それが、衆愚・愚民を産み出すのであるが。しかしながら、それは、近代的資本主義においてであった。今日、ポストモダン・エイジにあっては、前者の差異としての「わたし」の創造的発展が、資本主義に合致するようになっているのである。つまり、資本主義のポストモダン的転換があると見るべきである。(これは、私見では、ポスト資本主義である。差異共立共創資本経済である。)
 では、この差異は何であろうか。端的に言えば、私がこれまで述べてきた特異性であろう。私は、特異性が現象界においても存在していると、不連続的差異論の最初の時点から述べてきたのである。つまり、イデア界の不連続的差異=特異性が、現象界の差異として内在し、なんらか意識されているのである。換言すれば、現象界の差異とは特異性であり、特異性と同一性が現象界に存在しているということである。これが、現象界における差異の存在の意味である。結局、特異性(単独性)と同一性との闘いが現象界において発生するのである。これが、権力との闘いである。権力とは、同一性の原理にほかならない。
 ということで、解明されたとしよう。結局、ポストモダンとは、結局、特異性(単独性)を支点にした思想であることがわかるのである。いわゆる、相対主義は、付属する事柄に過ぎない。あるいは、イデア界的である特異性を志向する過程において生起する対極性・相補性であると言えよう。デリダの脱構築主義は、とりわけ、この相対主義、相補性に存すると言えるだろう。また、ドゥルーズ哲学の場合は、特異性をはっきり意識していたが、特異性(不連続的差異)と連続的差異との区別が為されず、混同していた面が強いと考えられるのである。この混同・混淆の原因は、メディア界自体ないしイデア/メディア境界にあると考えられる。つまり、ドゥルーズ自身、その領域で考えていたために、未分化となったと思われるのである。もっとも、ドゥルーズ自身、本来、三層性をもっていたのであるが、それが、充分に展開されなかった点もあるのである。やはり、ドゥルーズ自身、十分に、特異性の不連続性を理解していなかったのではないだろうか。自我において、個において、特異性とは、直接的には、直截には、心身領域、メディア界に存するのである。そこは、不連続性と連続性とが混淆・「習合」しているのである。だから、一般に特異性は、純粋に不連続化されずに、連続化作用を被ってしまうと考えられるのである。これが、ドゥルーズ&ガタリの説く再領土化に相応するだろう。つまり、斬新で、創造的であったもの、脱領土化したものが、いわば、必然的に反動化するのである。それは、メディア/現象境界の同一性の構造に支配されるからだと考えられるのである。連続性を否定しない限り、差異は、メディア界から現象界へと変換して、同一性の構造に陥るのである。そう、思うに、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」、あるいは、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論(プレモダン/モダン/ポストモダン、共同体/近代/ポストモダン、原理主義/近代/リバタリアニズム)であるが、その理由として、今あげたことが考えられるだろう。つまり、この三幅対論は、差異連続主義のものであり、この連続性がある限り、両端は一致してしまうと言えるのである。この袋小路、アポリアから脱出するには、連続性の絶対的切断、絶対的不連続化が必要なのである、その理論を不連続的差異論は提起しているのである。そして、それの意味することは、イデア界の肯定である。つまり、プラトン・ルネサンスである。プラトン主義、プラトニズムの勝利である。近代は、ユダヤ・キリスト教的西洋文明は終焉したのである。ここで、新しいミクロコスモスの世界文明の時代が開けたと言えよう。
| sophiology | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
ジル・ドゥルーズ著「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」:ポストモダン・ポスト資本主義へ向けて
これは、ミシェル・トゥルニエ著『フライデー、あるいは太平洋の冥界』に対するドゥルーズによる書評であるが、哲学的分析であり、ドゥルーズ哲学のエッセンスがあると言えるだろう。主著『差異と反復』の大部の書を読むのは大変であるが、エッセンスを知りたいという人は、60ページに満たないこの小著を読むことを奨めたい。
 さて、ここで問題になっている世界観を簡単に記すのに留めたい。

1)他者の構造の世界(可能性の世界):同一性の世界である。構造主義の世界である。日常の世界と言っていいだろう。
2)分身・天空的イマージュ群の世界
3)解放された純粋な《諸元素》の世界:あらゆるものの直立、表面の直立:他者の消滅

この三つの世界があるが、2と3とは、他者なき世界、別の他者の世界、あるいは、《倒錯者的構造》の世界である。不連続的差異論の視点から見ると、

1)現象界とメディア/現象境界(構造):同一性
2)メディア界:相補性
3)イデア界;共立性:共直立性

となるだろう。この図式は、ドゥルーズの差異哲学が、本来何を志向していたのか明確になる。私が以前述べたが、ドゥルーズの差異哲学の主旨は、3にあったのである。ただし、ここでのような2と3の領域の区別が、他では、あいまいになるように思えるのである。この書評は、1967年の出されたものであり、ガタリとのコラボレーションが為される以前の著作である。そして、ここでは、多元論が明快に現れている。ガタリとの共作によって、明確な多元論が現れたと思ったが、それ以前にドゥルーズは自身で、多元論を構築していたのである。
 さて、このドゥルーズの脱構造論を、経済論に適用できるだろう。資本主義は、一般に、経済を1の世界に閉じ込めてしまうものである。たとえば、ポストモダンが、2の解放(脱領土化)であっても、それが、いわば、反動化して、1への閉ざされるのである(再領土化:これは、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」を説明するだろう)。ドゥルーズは、3への変換・究極的脱構造化を述べているのだから、経済も3の世界へと変換されるべきであるということになるだろう。これは、私が、提唱するポストモダンの《イデア》化の必要ということと一致する。どうも、ドゥルーズは、自分の開拓した前線を、後に閉ざしてしまった観がある。この小著でははっきりと、3の根源的世界を述べているのに、その後の大著では、この点があいまいになった嫌いがあると思う。思うに、ドゥルーズ自身が混乱したのではないだろうか。
 とまれ、これで、ポストモダン資本主義の方向が明確になったと言えよう。ホリエモンや短絡的な新自由主義のようにしてはいけないのである。時価総額は、1の世界である。また、市場原理は、2から1への再領土化の方向に転化するだろう。ポストモダン革命とは、2の世界が発動したことである。しかし、知覚の形態が、明晰になっていないから、1の形式にもどってしまうのでる。つまり、相補性が同一性にもどってしまうのである。ポストモダン資本主義ないしポストモダン経済とは、1の世界の構築へと向かうことが必然であると考えられるのである。そのことが、ドゥルーズの論理で裏付けられるのである。解放された《諸元素》の世界へとポストモダン経済へ進展すべきなのである。それは、イデア界としてのポストモダン経済である。これは、確かに、ポスト資本主義になるだろうし、また、私が、何度も述べているルネサンス的資本主義の進展であると言えよう。
 後で、ポストモダン・ポスト資本主義について検討したい。

参考1:
ミシェル・トゥルニエの『フライデー、あるいは太平洋の冥界』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000028642/qid=1141458380/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/249-3508088-664352
「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」『原子と分身』所収
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4886790070/qid%3D1141457934/249-3508088-664352

参考2:不連続的差異論(はてなダイアリー)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c9%d4%cf%a2%c2%b3%c5%aa%ba%b9%b0%db%cf%c0?kid=98880
| sophiology | 17:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
イデア界と現象界の関係:不連続的差異と特異性
ヌース理論を提唱されている半田氏からのコメントがヒントとなって、不連続的差異論におけるイデア界と現象界との関係を明確・明瞭化する必要があると感じた。  不連続的差異論は、ドゥルーズの差異理論におけるニーチェ(とキルケゴール)の特異性・単独性singularityの差異概念をベースにしているイデア論である。そして、私の直観では、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界に存するのである。これをどのように説明できるのだろうか。これは、デカルト哲学によって説明できるのではないだろうか。周知のコギト・エルゴ・スムであるが、これは、ドゥルーズが説くようにコギトとスムの間に亀裂・分裂、即ち差異を見るべきだろう。そして、この差異ないし矛盾・分裂におけるスム(存在)が個の特異性・単独性の基盤であると思われるのである。(ところで、近代主義の「狂気」とは、現象界の自我、即ち近代的自我におけるスム=特異性・単独性が捩れにあるのではないだろうか。)つまり、デカルト哲学のコギト/スムの差異が、現象界の個ないし自我において、特異性・単独性を内在させていると考えることができるのである。だから、イデア界に特異性・単独性が存するだけでなく、現象界にも存するという命題が証明されるのである。(デカルト哲学の問題は先にも触れたが、メディア界が排斥されたことである。このために、デカルトは、近代的合理主義の始祖ともなったのである。そして、排斥されたメディア界は、スピノザが掬い上げて、いわゆる心身並行論を打ち立てて、ポストモダンやポスト構造主義の先駆となったと考えられるのである。)  さらに、この特異性(・単独性)=スムの問題について検討したい。先に私は、特異性は、不連続的差異そのものというよりは、不連続的差異の共立態総体ではないかと述べた。図式記号で言えば、dd1、dd2、dd3、・・・ddn(ddとはdiscrete or discontinuous differenceの略で、不連続的差異を意味する)というような個々の不連続的差異ではなくて、dd1/dd2/dd3/・・・/ddnではないかということである。つまり、イデア界総体である。なぜ、個々の不連続的差異ではなくて、イデア界総体が特異性となるのかと言うと、イデア/メディア境界(メディア界のイデア面ないしイデア界のメディア面)においては、不連続的差異は、個々としてというよりは、総体として存していると考えられるからである。  ということで、特異性とはイデア界のことであるということとなった。だから、イデア界が現象界の個・自我において、内在し、いわば、半田氏が指摘するように顕在化しているのである。問題は、この内在しているイデア界が、個・自我において、どのように把握されるのかということである。イデア界は換言すれば、コスモスである。そして、特異性とはミクロコスモスである。だから、特異性・存在(スム)において、ミクロコスモスとマクロコスモスとの連結が生じているのである。この点では、神秘家は正しい。宮沢賢治は正しい。そして、D.H.ロレンスのコスモス論も正しい(キリスト教の崩壊である)。しかしながら、イデア界はデュナミス、「バッテリー」であるから、当然、エネルゲイア・メディア・エネルギー化するのである。イデア・メディア的エネルギー(簡単に、イデア・エネルギーと呼ぼう)となるのである(思うに、東方キリスト教で、神のエネルゲイアと呼ぶものがこれに当たるのではないだろうか)。このイデア・エネルギーが問題なのである。イデア界がデュナミス・特異性として存するときは、現象界の自我・個は、差異共立主義である。即ち、他者を特異性として見て、差異共立志向をもつのである。つまり、他者をも自己と同等のイデア界的存在として見るのである。(問題は、それは、理念・理論的態度であるが、実際は、他者は、多種多様であり、愚人、悪人、狂人でいっぱいである。だから、それに対しては、戦闘的ないし矯正的になるのが正しいのである。差異共立性とは、イデア界的特異性的差異共立性と見るのが正しいだろう。)  しかし、イデア界がデュナミスではなくて、エネルゲイア・エネルギーとなったときは、そのようにはならないのである。つまり、差異共立主義から、自己絶対主義、自己尊大・傲慢化、権力・暴力化になるのである。思うに、アナキストのシュティルナーの唯一者は、そのようなもののように思える。そう、政治的にはファシズム化であろう。(D.H.ロレンスも、一時、そのように傾いた時期があったし、ニーチェも晩年において、「力への意志」でそのようになったと思うのである。)つまり、《力》の問題がここにはあるのである。  では、何故、イデア界=特異性は、メディア・エネルギー化すると、権力化するのか。それは、必然なのか。つまり、本来、差異共立性であるイデア界はメディア界化すると、反動化して、自己権力化するという事態は、必然なのかという問題である。思うに、実際、メディア界においては、イデア界=特異性とメディア・エネルギーの反動性との両義性が生起していると思われるのである。つまり、両者のゆらぎが、メディア界に発生していると思うのである。即ち、dd1/dd2/・・・/dd3とdd1〜dd2〜・・・〜ddとの揺らぎである。そして、後者は、現象界のdd1−dd2−・・・ddnの同一性と連続するのである。  ここで、2回の1/4回転の捩れを考慮すべきである。イデア界において、1/4回転から、メディア界が発生するが、それは、境界においては、イデア界とメディア界が併存している。しかし、2回目の1/4回転において、メディア界から現象界が発生するとき、その捩れにおいて、イデア界=特異性がまったく暗在・潜在・排斥・隠蔽化されると言えるだろう。つまり、現象界化において、イデア界は完全に隠蔽されるのである。現象界化において、直前のメディア界が隠蔽化されるだけでなくて、本源のイデア界が完全に隠蔽される(忘却される)事態が生起するのである。二重の隠蔽構造があるのである。しかし、1/4回転は、固定したものではなくて、さらなる回転、回転の持続が考えられるから、隠蔽は絶対的なものではありえないのである。つまり、現象界においても、なんらかの揺らぎが発生するのである。それは、メディア界と現象界との境界の揺らぎであろうし、さらには、イデア界とメディア界との境界の揺らぎであろう。二重の揺らぎの発生が考えられるのである。(芸術家や宗教家、哲学者や数学者は、この揺らぎが出発点であろうし、庶民の習俗・祭礼もここを無意識の基盤としているだろう。これは、コスモスの分節と関係しているのだろう。参考:二十四節気)  以上の考察から、本論に戻ると、メディア・エネルギー化とは、必然的に反動化するのかという問いであるが、それへの答えは、否である。メディア界において、イデア界=特異性とメディア界=エネルギーとの極性が発生しているからである。そして、イデア界=特異性が正当に作動するならば、エネルギーは、反動化せずに、積極・能動的なものとなる。スピノザが述べた能動的観念による身体の活動的エネルギーとは、この積極・能動的エネルギーと関係しよう。ここで、図式的に整理しよう。 1.イデア界=特異性⇔2.メディア界=エネルギー⇔3.現象界=自我同一性(利己主義) メディア界という中間態において、イデア界への志向と現象界への志向の極性・両義性があり、後者が主導的になると、メディア・エネルギーが反動化するのであり、前者が主導的になると、積極・能動化すると考えられるのである。ここで、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論と「アイロニカルな没入」論を想起するのは、適切であろう。つまり、ポストモダンがプレモダンに、リバタリアニズムが原理主義にアイロニカルに転化する事態のことであるが、それは、このメディア・エネルギーの反動化として理解することができるだろう。即ち、ポストモダンは、メディア界、《メディア》のエネルギーの発動・開放であるが、それが、現象界的志向が主導的だと反動化するということである。つまり、日本の場合は、戦後の似非アメリカ的近代主義によって、唯物主義/拝金主義という現象界的志向が主導的であるから、《メディア》の開放であるポストモダンは反動化するのである。小泉「改革」がそうである。そして、ライブドアもそうである。(ホリエモンの場合は、事情が少し複雑である。私見では、彼は、特異性をもっていたのである。しかし、それが、やはり、現象界的主導性のために、大反動化したのである。特異性があるゆえに、彼の反動は、超反動性と言えるように思うのである。一種精神分裂病的状態に彼は陥ったと思うのである。彼の言動から判断するとそのように思えるのである。つまり、特異性は、イデア界であるから、理想性をもつ。それが、ホリエモンの反逆的理想主義となったといえよう。即ち、老害の日本社会主義への反逆として、みんなが情報を共有してつながる社会への理想主義をもった。しかし、彼は、バブル以降の現象界的志向・拝金主義に染まっていたのである。だから、《メディア》の開放、メディア・エネルギーが大反動化・超反動化して、利己主義的に底無しに暗黒化したのだと思うのである。)  以上の考察から、《力》の問題が明晰になったであろう。簡単・簡潔に言えば、《メディア》がイデア的志向性をもつのか、現象的志向性をもつのかが、《力》の様相を決定するということである。 前者ならば差異共立的志向性をもち、後者ならば反動・権力的利己主義的志向性をもつということである。これまで、何度も述べてきたように、現代資本主義、ポストモダン資本主義、差異資本主義は、イデア界的志向性をもつべきなのである。つまり、差異共立共創主義化すべきなのである。これで、ポスト資本主義となるのではないだろうか。(この点について、別に論考したい。)この点で一言付加すれば、資本主義は、利益追求を一つの本質意義であるから、現象界性を否定することは当然できない。問題は、ポストモダン資本主義は、イデア界的志向性を明確化しつつ、現象界的志向性を保持しなくてはならないということである。  さて、最後に、不連続的差異と特異性の問題を考察したい。結局、両者はつながりがあるものの別の概念であるということになったであろう。多数・無数の不連続的差異の共立態としてのイデア界が特異性となるのである。もっとも、イデア界即特異性ではなく、イデア/メディア境界におけるイデア界が特異性であるということである。そして、この反動化は、きわめて危険であり、いわば、「超越神」化、即ち、専制・独裁化するだろう。全体主義やファシズムの危険があるのである。  さて、これまで、不連続的差異としての《個》ということを言ってきたが、それは、ここでの検討から、不正確であったと言えるのではないだろうか。この問題は以前に解決したつもりではあったので、もう一度考察しよう。特異性とは、不連続的差異の共立態であるイデア界であることとなった。では、不連続的差異の共立態と不連続的差異とはどう関係しているのかということが問題となる。《個》において、イデア/メディア境界において、特異性が生起している。それは、積極・能動的な様相において、多数・無数の不連続的差異の共立態の発出である。すると、《個》において、その共立態の志向性ないしデュナミス・可能態が発出していると言えるだろう。つまり、共立態のイデア・エネルギーがそこに発出・発動していると見ることができる。このイデア・エネルギーは、不連続的差異の共立態をヴィジョンとしてもつ静かな精緻微細な知的志向性をもつイデア・エネルギーである。正に、イデア界のエネルギーである。だから、ここには、不連続的差異性の直観があると言っていいだろう。この直観が、現象界において、他者に適用されると言えるだろう。つまり、イデア界を現象界に重ねるのである。イデア界の不連続的差異という理念点を、現象界へ重ねるということである。これで、イデア界と現象界が一つの平面となるのである。しかし、この適用は合理論的なのだろうか。つまり、イデア界の不連続的差異を現象界の個に適用する根拠は何かということである。視点を換えて、個とは何かと問おう。個体とは何か。根本から考えると、イデア界において、1/4回転で、ゼロ化が発生する。このとき発生するメディア界は、ゼロ化の連結を帯び、不連続的差異が共鳴して連結するのである。つまり、不連続的差異は連続的差異へと変換・変形するのである。このとき、入れ子的な構造が生起すると考えられるのである。この入れ子構造は、フラクタル構造で呼べるだろう。つまり、メディア界において、不連続的差異がゼロ化して、入れ子・フラクタル構造を形成すると考えられるのである。この構造が、いわば、メディア構造が個体の原型であろう。そして、これが、さらに1/4回転して、現象的個体として発現・現出すると言えよう。だから、《個》とは、個体とは、本来、イデア界を内在しているのである。イデア界のゼロ化的変形としての《個》であると言えるのである。そう考えると、ここで提起した問題、即ち、不連続的差異を現象界の個体に適用する合理論的根拠は何であるのかという問題は、悪い問いではないかと思われてくるのである。そうではなくて、不連続的差異の共立態としてのイデア・エネルギーが特異性としてあり、それは、他者をも基本的に特異性として見るということではないか。つまり、特異性として、《個》が存するのであるから、当然、他者をも特異性の《個》として見るということではないか。すると、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界にも存するという私の直観は、不連続的差異の現象界への適用に拠るのではなくて、内在する特異性自体による特異性の共立性への志向性に拠ると言わなくてはならないだろう。特異性の民主主義的志向なのである。特異性の共民志向である。結局、不連続的差異の共立態であるイデア界のイデア・エネルギーである特異性が、他者を特異性として志向するという出来事が現象界に発生するということである。簡単に言えば、イデア界の可能態として、個体・他者を見るという志向性が根源的合理論的志向があるということである。つまり、他者とは、潜在したイデア界なのである。  長くなったが、もう一点、不連続的差異と特異性について述べると、個々の不連続的差異というイデアは、それ自体で、特異性と言えるだろう。だから、不連続的差異の共立態としての特異性とは区別されなくてはならない。不連続的差異としての特異性を、とりあえず、ミクロ特異性と呼び、不連続的差異の共立態としての特異性を、マクロ特異性と呼んでおこう。即ち、ミクロ特異性の共立態としてマクロ特異性があり、これが、《個》となるのである。そして、伝統的には、《個》とは、ミクロコスモスである。ならば、《個》=ミクロコスモスとは、ミクロ特異性の共立態であるマクロ特異性を超越論的に内在していることになる。そして、イデア界の発現である、地球を含めた現象界である大宇宙マクロコスモスとは、《個》=ミクロコスモスに内在するマクロ特異性であるイデア界において、《個》=ミクロコスモスと一致すると言えるだろう。即ち、《個》=ミクロコスモスと大宇宙マクロコスモスとは、イデア界という共通の根源的基盤において、一致するということである。即ち、イデア界という根源界において、神秘学のミクロコスモス=マクロコスモスという概念は、正しいと言えるのである。  そこからの問題は、マクロコスモスとしての現象界を、イデア界の倒錯した現象界である人間界に、イデア界的共立性をもたらすこと、現象・人間界をイデア界的に変容することではないだろうか。  思うに、何故、イデア界が初めからイデア界的な現象界を創造しなかったかと言えば、それは、イデア界のもつ「歴史」性によるのだろう。それを進化と呼んでいいのだろうか。進展ないし高転ではないだろうか。イデア界の回転が螺旋的回帰・永遠回帰運動を生むのだろう。螺旋的進展化が、螺旋的イデア界史が、あるのではないだろうか。そう、《個》ミクロコスモスの、イデア的マクロコスモス化が、人間現象の目的なのだろう。《個》ミクロコスモスとして、共立して、マクロコスモスをイデア界的な共立態へと変容させることが、人間・人類のエンテレイケイア(終局態)なのだろう。
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イデア界と現象界の関係:不連続的差異と特異性
ヌース理論を提唱されている半田氏からのコメントがヒントとなって、不連続的差異論におけるイデア界と現象界との関係を明確・明瞭化する必要があると感じた。
 不連続的差異論は、ドゥルーズの差異理論におけるニーチェ(とキルケゴール)の特異性・単独性singularityの差異概念をベースにしているイデア論である。そして、私の直観では、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界に存するのである。これをどのように説明できるのだろうか。これは、デカルト哲学によって説明できるのではないだろうか。周知のコギト・エルゴ・スムであるが、これは、ドゥルーズが説くようにコギトとスムの間に亀裂・分裂、即ち差異を見るべきだろう。そして、この差異ないし矛盾・分裂におけるスム(存在)が個の特異性・単独性の基盤であると思われるのである。(ところで、近代主義の「狂気」とは、現象界の自我、即ち近代的自我におけるスム=特異性・単独性が捩れにあるのではないだろうか。)つまり、デカルト哲学のコギト/スムの差異が、現象界の個ないし自我において、特異性・単独性を内在させていると考えることができるのである。だから、イデア界に特異性・単独性が存するだけでなく、現象界にも存するという命題が証明されるのである。(デカルト哲学の問題は先にも触れたが、メディア界が排斥されたことである。このために、デカルトは、近代的合理主義の始祖ともなったのである。そして、排斥されたメディア界は、スピノザが掬い上げて、いわゆる心身並行論を打ち立てて、ポストモダンやポスト構造主義の先駆となったと考えられるのである。)
 さらに、この特異性(・単独性)=スムの問題について検討したい。先に私は、特異性は、不連続的差異そのものというよりは、不連続的差異の共立態総体ではないかと述べた。図式記号で言えば、dd1、dd2、dd3、・・・ddn(ddとはdiscrete or discontinuous differenceの略で、不連続的差異を意味する)というような個々の不連続的差異ではなくて、dd1/dd2/dd3/・・・/ddnではないかということである。つまり、イデア界総体である。なぜ、個々の不連続的差異ではなくて、イデア界総体が特異性となるのかと言うと、イデア/メディア境界(メディア界のイデア面ないしイデア界のメディア面)においては、不連続的差異は、個々としてというよりは、総体として存していると考えられるからである。
 ということで、特異性とはイデア界のことであるということとなった。だから、イデア界が現象界の個・自我において、内在し、いわば、半田氏が指摘するように顕在化しているのである。問題は、この内在しているイデア界が、個・自我において、どのように把握されるのかということである。イデア界は換言すれば、コスモスである。そして、特異性とはミクロコスモスである。だから、特異性・存在(スム)において、ミクロコスモスとマクロコスモスとの連結が生じているのである。この点では、神秘家は正しい。宮沢賢治は正しい。そして、D.H.ロレンスのコスモス論も正しい(キリスト教の崩壊である)。しかしながら、イデア界はデュナミス、「バッテリー」であるから、当然、エネルゲイア・メディア・エネルギー化するのである。イデア・メディア的エネルギー(簡単に、イデア・エネルギーと呼ぼう)となるのである(思うに、東方キリスト教で、神のエネルゲイアと呼ぶものがこれに当たるのではないだろうか)。このイデア・エネルギーが問題なのである。イデア界がデュナミス・特異性として存するときは、現象界の自我・個は、差異共立主義である。即ち、他者を特異性として見て、差異共立志向をもつのである。つまり、他者をも自己と同等のイデア界的存在として見るのである。(問題は、それは、理念・理論的態度であるが、実際は、他者は、多種多様であり、愚人、悪人、狂人でいっぱいである。だから、それに対しては、戦闘的ないし矯正的になるのが正しいのである。差異共立性とは、イデア界的特異性的差異共立性と見るのが正しいだろう。)
 しかし、イデア界がデュナミスではなくて、エネルゲイア・エネルギーとなったときは、そのようにはならないのである。つまり、差異共立主義から、自己絶対主義、自己尊大・傲慢化、権力・暴力化になるのである。思うに、アナキストのシュティルナーの唯一者は、そのようなもののように思える。そう、政治的にはファシズム化であろう。(D.H.ロレンスも、一時、そのように傾いた時期があったし、ニーチェも晩年において、「力への意志」でそのようになったと思うのである。)つまり、《力》の問題がここにはあるのである。
 では、何故、イデア界=特異性は、メディア・エネルギー化すると、権力化するのか。それは、必然なのか。つまり、本来、差異共立性であるイデア界はメディア界化すると、反動化して、自己権力化するという事態は、必然なのかという問題である。思うに、実際、メディア界においては、イデア界=特異性とメディア・エネルギーの反動性との両義性が生起していると思われるのである。つまり、両者のゆらぎが、メディア界に発生していると思うのである。即ち、dd1/dd2/・・・/dd3とdd1〜dd2〜・・・〜ddとの揺らぎである。そして、後者は、現象界のdd1−dd2−・・・ddnの同一性と連続するのである。
 ここで、2回の1/4回転の捩れを考慮すべきである。イデア界において、1/4回転から、メディア界が発生するが、それは、境界においては、イデア界とメディア界が併存している。しかし、2回目の1/4回転において、メディア界から現象界が発生するとき、その捩れにおいて、イデア界=特異性がまったく暗在・潜在・排斥・隠蔽化されると言えるだろう。つまり、現象界化において、イデア界は完全に隠蔽されるのである。現象界化において、直前のメディア界が隠蔽化されるだけでなくて、本源のイデア界が完全に隠蔽される(忘却される)事態が生起するのである。二重の隠蔽構造があるのである。しかし、1/4回転は、固定したものではなくて、さらなる回転、回転の持続が考えられるから、隠蔽は絶対的なものではありえないのである。つまり、現象界においても、なんらかの揺らぎが発生するのである。それは、メディア界と現象界との境界の揺らぎであろうし、さらには、イデア界とメディア界との境界の揺らぎであろう。二重の揺らぎの発生が考えられるのである。(芸術家や宗教家、哲学者や数学者は、この揺らぎが出発点であろうし、庶民の習俗・祭礼もここを無意識の基盤としているだろう。これは、コスモスの分節と関係しているのだろう。参考:二十四節気)
 以上の考察から、本論に戻ると、メディア・エネルギー化とは、必然的に反動化するのかという問いであるが、それへの答えは、否である。メディア界において、イデア界=特異性とメディア界=エネルギーとの極性が発生しているからである。そして、イデア界=特異性が正当に作動するならば、エネルギーは、反動化せずに、積極・能動的なものとなる。スピノザが述べた能動的観念による身体の活動的エネルギーとは、この積極・能動的エネルギーと関係しよう。ここで、図式的に整理しよう。

1.イデア界=特異性⇔2.メディア界=エネルギー⇔3.現象界=自我同一性(利己主義)

メディア界という中間態において、イデア界への志向と現象界への志向の極性・両義性があり、後者が主導的になると、メディア・エネルギーが反動化するのであり、前者が主導的になると、積極・能動化すると考えられるのである。ここで、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論と「アイロニカルな没入」論を想起するのは、適切であろう。つまり、ポストモダンがプレモダンに、リバタリアニズムが原理主義にアイロニカルに転化する事態のことであるが、それは、このメディア・エネルギーの反動化として理解することができるだろう。即ち、ポストモダンは、メディア界、《メディア》のエネルギーの発動・開放であるが、それが、現象界的志向が主導的だと反動化するということである。つまり、日本の場合は、戦後の似非アメリカ的近代主義によって、唯物主義/拝金主義という現象界的志向が主導的であるから、《メディア》の開放であるポストモダンは反動化するのである。小泉「改革」がそうである。そして、ライブドアもそうである。(ホリエモンの場合は、事情が少し複雑である。私見では、彼は、特異性をもっていたのである。しかし、それが、やはり、現象界的主導性のために、大反動化したのである。特異性があるゆえに、彼の反動は、超反動性と言えるように思うのである。一種精神分裂病的状態に彼は陥ったと思うのである。彼の言動から判断するとそのように思えるのである。つまり、特異性は、イデア界であるから、理想性をもつ。それが、ホリエモンの反逆的理想主義となったといえよう。即ち、老害の日本社会主義への反逆として、みんなが情報を共有してつながる社会への理想主義をもった。しかし、彼は、バブル以降の現象界的志向・拝金主義に染まっていたのである。だから、《メディア》の開放、メディア・エネルギーが大反動化・超反動化して、利己主義的に底無しに暗黒化したのだと思うのである。)
 以上の考察から、《力》の問題が明晰になったであろう。簡単・簡潔に言えば、《メディア》がイデア的志向性をもつのか、現象的志向性をもつのかが、《力》の様相を決定するということである。 前者ならば差異共立的志向性をもち、後者ならば反動・権力的利己主義的志向性をもつということである。これまで、何度も述べてきたように、現代資本主義、ポストモダン資本主義、差異資本主義は、イデア界的志向性をもつべきなのである。つまり、差異共立共創主義化すべきなのである。これで、ポスト資本主義となるのではないだろうか。(この点について、別に論考したい。)この点で一言付加すれば、資本主義は、利益追求を一つの本質意義であるから、現象界性を否定することは当然できない。問題は、ポストモダン資本主義は、イデア界的志向性を明確化しつつ、現象界的志向性を保持しなくてはならないということである。
 さて、最後に、不連続的差異と特異性の問題を考察したい。結局、両者はつながりがあるものの別の概念であるということになったであろう。多数・無数の不連続的差異の共立態としてのイデア界が特異性となるのである。もっとも、イデア界即特異性ではなく、イデア/メディア境界におけるイデア界が特異性であるということである。そして、この反動化は、きわめて危険であり、いわば、「超越神」化、即ち、専制・独裁化するだろう。全体主義やファシズムの危険があるのである。
 さて、これまで、不連続的差異としての《個》ということを言ってきたが、それは、ここでの検討から、不正確であったと言えるのではないだろうか。この問題は以前に解決したつもりではあったので、もう一度考察しよう。特異性とは、不連続的差異の共立態であるイデア界であることとなった。では、不連続的差異の共立態と不連続的差異とはどう関係しているのかということが問題となる。《個》において、イデア/メディア境界において、特異性が生起している。それは、積極・能動的な様相において、多数・無数の不連続的差異の共立態の発出である。すると、《個》において、その共立態の志向性ないしデュナミス・可能態が発出していると言えるだろう。つまり、共立態のイデア・エネルギーがそこに発出・発動していると見ることができる。このイデア・エネルギーは、不連続的差異の共立態をヴィジョンとしてもつ静かな精緻微細な知的志向性をもつイデア・エネルギーである。正に、イデア界のエネルギーである。だから、ここには、不連続的差異性の直観があると言っていいだろう。この直観が、現象界において、他者に適用されると言えるだろう。つまり、イデア界を現象界に重ねるのである。イデア界の不連続的差異という理念点を、現象界へ重ねるということである。これで、イデア界と現象界が一つの平面となるのである。しかし、この適用は合理論的なのだろうか。つまり、イデア界の不連続的差異を現象界の個に適用する根拠は何かということである。視点を換えて、個とは何かと問おう。個体とは何か。根本から考えると、イデア界において、1/4回転で、ゼロ化が発生する。このとき発生するメディア界は、ゼロ化の連結を帯び、不連続的差異が共鳴して連結するのである。つまり、不連続的差異は連続的差異へと変換・変形するのである。このとき、入れ子的な構造が生起すると考えられるのである。この入れ子構造は、フラクタル構造で呼べるだろう。つまり、メディア界において、不連続的差異がゼロ化して、入れ子・フラクタル構造を形成すると考えられるのである。この構造が、いわば、メディア構造が個体の原型であろう。そして、これが、さらに1/4回転して、現象的個体として発現・現出すると言えよう。だから、《個》とは、個体とは、本来、イデア界を内在しているのである。イデア界のゼロ化的変形としての《個》であると言えるのである。そう考えると、ここで提起した問題、即ち、不連続的差異を現象界の個体に適用する合理論的根拠は何であるのかという問題は、悪い問いではないかと思われてくるのである。そうではなくて、不連続的差異の共立態としてのイデア・エネルギーが特異性としてあり、それは、他者をも基本的に特異性として見るということではないか。つまり、特異性として、《個》が存するのであるから、当然、他者をも特異性の《個》として見るということではないか。すると、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界にも存するという私の直観は、不連続的差異の現象界への適用に拠るのではなくて、内在する特異性自体による特異性の共立性への志向性に拠ると言わなくてはならないだろう。特異性の民主主義的志向なのである。特異性の共民志向である。結局、不連続的差異の共立態であるイデア界のイデア・エネルギーである特異性が、他者を特異性として志向するという出来事が現象界に発生するということである。簡単に言えば、イデア界の可能態として、個体・他者を見るという志向性が根源的合理論的志向があるということである。つまり、他者とは、潜在したイデア界なのである。
 長くなったが、もう一点、不連続的差異と特異性について述べると、個々の不連続的差異というイデアは、それ自体で、特異性と言えるだろう。だから、不連続的差異の共立態としての特異性とは区別されなくてはならない。不連続的差異としての特異性を、とりあえず、ミクロ特異性と呼び、不連続的差異の共立態としての特異性を、マクロ特異性と呼んでおこう。即ち、ミクロ特異性の共立態としてマクロ特異性があり、これが、《個》となるのである。そして、伝統的には、《個》とは、ミクロコスモスである。ならば、《個》=ミクロコスモスとは、ミクロ特異性の共立態であるマクロ特異性を超越論的に内在していることになる。そして、イデア界の発現である、地球を含めた現象界である大宇宙マクロコスモスとは、《個》=ミクロコスモスに内在するマクロ特異性であるイデア界において、《個》=ミクロコスモスと一致すると言えるだろう。即ち、《個》=ミクロコスモスと大宇宙マクロコスモスとは、イデア界という共通の根源的基盤において、一致するということである。即ち、イデア界という根源界において、神秘学のミクロコスモス=マクロコスモスという概念は、正しいと言えるのである。
 そこからの問題は、マクロコスモスとしての現象界を、イデア界の倒錯した現象界である人間界に、イデア界的共立性をもたらすこと、現象・人間界をイデア界的に変容することではないだろうか。
 思うに、何故、イデア界が初めからイデア界的な現象界を創造しなかったかと言えば、それは、イデア界のもつ「歴史」性によるのだろう。それを進化と呼んでいいのだろうか。進展ないし高転ではないだろうか。イデア界の回転が螺旋的回帰・永遠回帰運動を生むのだろう。螺旋的進展化が、螺旋的イデア界史が、あるのではないだろうか。そう、《個》ミクロコスモスの、イデア的マクロコスモス化が、人間現象の目的なのだろう。《個》ミクロコスモスとして、共立して、マクロコスモスをイデア界的な共立態へと変容させることが、人間・人類のエンテレイケイア(終局態)なのだろう。
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イデア界と現象界の関係:不連続的差異と特異性
ヌース理論を提唱されている半田氏からのコメントがヒントとなって、不連続的差異論におけるイデア界と現象界との関係を明確・明瞭化する必要があると感じた。
 不連続的差異論は、ドゥルーズの差異理論におけるニーチェ(とキルケゴール)の特異性・単独性singularityの差異概念をベースにしているイデア論である。そして、私の直観では、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界に存するのである。これをどのように説明できるのだろうか。これは、デカルト哲学によって説明できるのではないだろうか。周知のコギト・エルゴ・スムであるが、これは、ドゥルーズが説くようにコギトとスムの間に亀裂・分裂、即ち差異を見るべきだろう。そして、この差異ないし矛盾・分裂におけるスム(存在)が個の特異性・単独性の基盤であると思われるのである。(ところで、近代主義の「狂気」とは、現象界の自我、即ち近代的自我におけるスム=特異性・単独性が捩れにあるのではないだろうか。)つまり、デカルト哲学のコギト/スムの差異が、現象界の個ないし自我において、特異性・単独性を内在させていると考えることができるのである。だから、イデア界に特異性・単独性が存するだけでなく、現象界にも存するという命題が証明されるのである。(デカルト哲学の問題は先にも触れたが、メディア界が排斥されたことである。このために、デカルトは、近代的合理主義の始祖ともなったのである。そして、排斥されたメディア界は、スピノザが掬い上げて、いわゆる心身並行論を打ち立てて、ポストモダンやポスト構造主義の先駆となったと考えられるのである。)
 さらに、この特異性(・単独性)=スムの問題について検討したい。先に私は、特異性は、不連続的差異そのものというよりは、不連続的差異の共立態総体ではないかと述べた。図式記号で言えば、dd1、dd2、dd3、・・・ddn(ddとはdiscrete or discontinuous differenceの略で、不連続的差異を意味する)というような個々の不連続的差異ではなくて、dd1/dd2/dd3/・・・/ddnではないかということである。つまり、イデア界総体である。なぜ、個々の不連続的差異ではなくて、イデア界総体が特異性となるのかと言うと、イデア/メディア境界(メディア界のイデア面ないしイデア界のメディア面)においては、不連続的差異は、個々としてというよりは、総体として存していると考えられるからである。
 ということで、特異性とはイデア界のことであるということとなった。だから、イデア界が現象界の個・自我において、内在し、いわば、半田氏が指摘するように顕在化しているのである。問題は、この内在しているイデア界が、個・自我において、どのように把握されるのかということである。イデア界は換言すれば、コスモスである。そして、特異性とはミクロコスモスである。だから、特異性・存在(スム)において、ミクロコスモスとマクロコスモスとの連結が生じているのである。この点では、神秘家は正しい。宮沢賢治は正しい。そして、D.H.ロレンスのコスモス論も正しい(キリスト教の崩壊である)。しかしながら、イデア界はデュナミス、「バッテリー」であるから、当然、エネルゲイア・メディア・エネルギー化するのである。イデア・メディア的エネルギー(簡単に、イデア・エネルギーと呼ぼう)となるのである(思うに、東方キリスト教で、神のエネルゲイアと呼ぶものがこれに当たるのではないだろうか)。このイデア・エネルギーが問題なのである。イデア界がデュナミス・特異性として存するときは、現象界の自我・個は、差異共立主義である。即ち、他者を特異性として見て、差異共立志向をもつのである。つまり、他者をも自己と同等のイデア界的存在として見るのである。(問題は、それは、理念・理論的態度であるが、実際は、他者は、多種多様であり、愚人、悪人、狂人でいっぱいである。だから、それに対しては、戦闘的ないし矯正的になるのが正しいのである。差異共立性とは、イデア界的特異性的差異共立性と見るのが正しいだろう。)
 しかし、イデア界がデュナミスではなくて、エネルゲイア・エネルギーとなったときは、そのようにはならないのである。つまり、差異共立主義から、自己絶対主義、自己尊大・傲慢化、権力・暴力化になるのである。思うに、アナキストのシュティルナーの唯一者は、そのようなもののように思える。そう、政治的にはファシズム化であろう。(D.H.ロレンスも、一時、そのように傾いた時期があったし、ニーチェも晩年において、「力への意志」でそのようになったと思うのである。)つまり、《力》の問題がここにはあるのである。
 では、何故、イデア界=特異性は、メディア・エネルギー化すると、権力化するのか。それは、必然なのか。つまり、本来、差異共立性であるイデア界はメディア界化すると、反動化して、自己権力化するという事態は、必然なのかという問題である。思うに、実際、メディア界においては、イデア界=特異性とメディア・エネルギーの反動性との両義性が生起していると思われるのである。つまり、両者のゆらぎが、メディア界に発生していると思うのである。即ち、dd1/dd2/・・・/dd3とdd1〜dd2〜・・・〜ddとの揺らぎである。そして、後者は、現象界のdd1−dd2−・・・ddnの同一性と連続するのである。
 ここで、2回の1/4回転の捩れを考慮すべきである。イデア界において、1/4回転から、メディア界が発生するが、それは、境界においては、イデア界とメディア界が併存している。しかし、2回目の1/4回転において、メディア界から現象界が発生するとき、その捩れにおいて、イデア界=特異性がまったく暗在・潜在・排斥・隠蔽化されると言えるだろう。つまり、現象界化において、イデア界は完全に隠蔽されるのである。現象界化において、直前のメディア界が隠蔽化されるだけでなくて、本源のイデア界が完全に隠蔽される(忘却される)事態が生起するのである。二重の隠蔽構造があるのである。しかし、1/4回転は、固定したものではなくて、さらなる回転、回転の持続が考えられるから、隠蔽は絶対的なものではありえないのである。つまり、現象界においても、なんらかの揺らぎが発生するのである。それは、メディア界と現象界との境界の揺らぎであろうし、さらには、イデア界とメディア界との境界の揺らぎであろう。二重の揺らぎの発生が考えられるのである。(芸術家や宗教家、哲学者や数学者は、この揺らぎが出発点であろうし、庶民の習俗・祭礼もここを無意識の基盤としているだろう。これは、コスモスの分節と関係しているのだろう。参考:二十四節気)
 以上の考察から、本論に戻ると、メディア・エネルギー化とは、必然的に反動化するのかという問いであるが、それへの答えは、否である。メディア界において、イデア界=特異性とメディア界=エネルギーとの極性が発生しているからである。そして、イデア界=特異性が正当に作動するならば、エネルギーは、反動化せずに、積極・能動的なものとなる。スピノザが述べた能動的観念による身体の活動的エネルギーとは、この積極・能動的エネルギーと関係しよう。ここで、図式的に整理しよう。

1.イデア界=特異性⇔2.メディア界=エネルギー⇔3.現象界=自我同一性(利己主義)

メディア界という中間態において、イデア界への志向と現象界への志向の極性・両義性があり、後者が主導的になると、メディア・エネルギーが反動化するのであり、前者が主導的になると、積極・能動化すると考えられるのである。ここで、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論と「アイロニカルな没入」論を想起するのは、適切であろう。つまり、ポストモダンがプレモダンに、リバタリアニズムが原理主義にアイロニカルに転化する事態のことであるが、それは、このメディア・エネルギーの反動化として理解することができるだろう。即ち、ポストモダンは、メディア界、《メディア》のエネルギーの発動・開放であるが、それが、現象界的志向が主導的だと反動化するということである。つまり、日本の場合は、戦後の似非アメリカ的近代主義によって、唯物主義/拝金主義という現象界的志向が主導的であるから、《メディア》の開放であるポストモダンは反動化するのである。小泉「改革」がそうである。そして、ライブドアもそうである。(ホリエモンの場合は、事情が少し複雑である。私見では、彼は、特異性をもっていたのである。しかし、それが、やはり、現象界的主導性のために、大反動化したのである。特異性があるゆえに、彼の反動は、超反動性と言えるように思うのである。一種精神分裂病的状態に彼は陥ったと思うのである。彼の言動から判断するとそのように思えるのである。つまり、特異性は、イデア界であるから、理想性をもつ。それが、ホリエモンの反逆的理想主義となったといえよう。即ち、老害の日本社会主義への反逆として、みんなが情報を共有してつながる社会への理想主義をもった。しかし、彼は、バブル以降の現象界的志向・拝金主義に染まっていたのである。だから、《メディア》の開放、メディア・エネルギーが大反動化・超反動化して、利己主義的に底無しに暗黒化したのだと思うのである。)
 以上の考察から、《力》の問題が明晰になったであろう。簡単・簡潔に言えば、《メディア》がイデア的志向性をもつのか、現象的志向性をもつのかが、《力》の様相を決定するということである。 前者ならば差異共立的志向性をもち、後者ならば反動・権力的利己主義的志向性をもつということである。これまで、何度も述べてきたように、現代資本主義、ポストモダン資本主義、差異資本主義は、イデア界的志向性をもつべきなのである。つまり、差異共立共創主義化すべきなのである。これで、ポスト資本主義となるのではないだろうか。(この点について、別に論考したい。)この点で一言付加すれば、資本主義は、利益追求を一つの本質意義であるから、現象界性を否定することは当然できない。問題は、ポストモダン資本主義は、イデア界的志向性を明確化しつつ、現象界的志向性を保持しなくてはならないということである。
 さて、最後に、不連続的差異と特異性の問題を考察したい。結局、両者はつながりがあるものの別の概念であるということになったであろう。多数・無数の不連続的差異の共立態としてのイデア界が特異性となるのである。もっとも、イデア界即特異性ではなく、イデア/メディア境界におけるイデア界が特異性であるということである。そして、この反動化は、きわめて危険であり、いわば、「超越神」化、即ち、専制・独裁化するだろう。全体主義やファシズムの危険があるのである。
 さて、これまで、不連続的差異としての《個》ということを言ってきたが、それは、ここでの検討から、不正確であったと言えるのではないだろうか。この問題は以前に解決したつもりではあったので、もう一度考察しよう。特異性とは、不連続的差異の共立態であるイデア界であることとなった。では、不連続的差異の共立態と不連続的差異とはどう関係しているのかということが問題となる。《個》において、イデア/メディア境界において、特異性が生起している。それは、積極・能動的な様相において、多数・無数の不連続的差異の共立態の発出である。すると、《個》において、その共立態の志向性ないしデュナミス・可能態が発出していると言えるだろう。つまり、共立態のイデア・エネルギーがそこに発出・発動していると見ることができる。このイデア・エネルギーは、不連続的差異の共立態をヴィジョンとしてもつ静かな精緻微細な知的志向性をもつイデア・エネルギーである。正に、イデア界のエネルギーである。だから、ここには、不連続的差異性の直観があると言っていいだろう。この直観が、現象界において、他者に適用されると言えるだろう。つまり、イデア界を現象界に重ねるのである。イデア界の不連続的差異という理念点を、現象界へ重ねるということである。これで、イデア界と現象界が一つの平面となるのである。しかし、この適用は合理論的なのだろうか。つまり、イデア界の不連続的差異を現象界の個に適用する根拠は何かということである。視点を換えて、個とは何かと問おう。個体とは何か。根本から考えると、イデア界において、1/4回転で、ゼロ化が発生する。このとき発生するメディア界は、ゼロ化の連結を帯び、不連続的差異が共鳴して連結するのである。つまり、不連続的差異は連続的差異へと変換・変形するのである。このとき、入れ子的な構造が生起すると考えられるのである。この入れ子構造は、フラクタル構造で呼べるだろう。つまり、メディア界において、不連続的差異がゼロ化して、入れ子・フラクタル構造を形成すると考えられるのである。この構造が、いわば、メディア構造が個体の原型であろう。そして、これが、さらに1/4回転して、現象的個体として発現・現出すると言えよう。だから、《個》とは、個体とは、本来、イデア界を内在しているのである。イデア界のゼロ化的変形としての《個》であると言えるのである。そう考えると、ここで提起した問題、即ち、不連続的差異を現象界の個体に適用する合理論的根拠は何であるのかという問題は、悪い問いではないかと思われてくるのである。そうではなくて、不連続的差異の共立態としてのイデア・エネルギーが特異性としてあり、それは、他者をも基本的に特異性として見るということではないか。つまり、特異性として、《個》が存するのであるから、当然、他者をも特異性の《個》として見るということではないか。すると、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界にも存するという私の直観は、不連続的差異の現象界への適用に拠るのではなくて、内在する特異性自体による特異性の共立性への志向性に拠ると言わなくてはならないだろう。特異性の民主主義的志向なのである。特異性の共民志向である。結局、不連続的差異の共立態であるイデア界のイデア・エネルギーである特異性が、他者を特異性として志向するという出来事が現象界に発生するということである。簡単に言えば、イデア界の可能態として、個体・他者を見るという志向性が根源的合理論的志向があるということである。つまり、他者とは、潜在したイデア界なのである。
 長くなったが、もう一点、不連続的差異と特異性について述べると、個々の不連続的差異というイデアは、それ自体で、特異性と言えるだろう。だから、不連続的差異の共立態としての特異性とは区別されなくてはならない。不連続的差異としての特異性を、とりあえず、ミクロ特異性と呼び、不連続的差異の共立態としての特異性を、マクロ特異性と呼んでおこう。即ち、ミクロ特異性の共立態としてマクロ特異性があり、これが、《個》となるのである。そして、伝統的には、《個》とは、ミクロコスモスである。ならば、《個》=ミクロコスモスとは、ミクロ特異性の共立態であるマクロ特異性を超越論的に内在していることになる。そして、イデア界の発現である、地球を含めた現象界である大宇宙マクロコスモスとは、《個》=ミクロコスモスに内在するマクロ特異性であるイデア界において、《個》=ミクロコスモスと一致すると言えるだろう。即ち、《個》=ミクロコスモスと大宇宙マクロコスモスとは、イデア界という共通の根源的基盤において、一致するということである。即ち、イデア界という根源界において、神秘学のミクロコスモス=マクロコスモスという概念は、正しいと言えるのである。
 そこからの問題は、マクロコスモスとしての現象界を、イデア界の倒錯した現象界である人間界に、イデア界的共立性をもたらすこと、現象・人間界をイデア界的に変容することではないだろうか。
 思うに、何故、イデア界が初めからイデア界的な現象界を創造しなかったかと言えば、それは、イデア界のもつ「歴史」性によるのだろう。それを進化と呼んでいいのだろうか。進展ないし高転ではないだろうか。イデア界の回転が螺旋的回帰・永遠回帰運動を生むのだろう。螺旋的進展化が、螺旋的イデア界史が、あるのではないだろうか。そう、《個》ミクロコスモスの、イデア的マクロコスモス化が、人間現象の目的なのだろう。《個》ミクロコスモスとして、共立して、マクロコスモスをイデア界的な共立態へと変容させることが、人間・人類のエンテレイケイア(終局態)なのだろう。
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イデア界と現象界の関係:不連続的差異と特異性
ヌース理論を提唱されている半田氏からのコメントがヒントとなって、不連続的差異論におけるイデア界と現象界との関係を明確・明瞭化する必要があると感じた。
 不連続的差異論は、ドゥルーズの差異理論におけるニーチェ(とキルケゴール)の特異性・単独性singularityの差異概念をベースにしているイデア論である。そして、私の直観では、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界に存するのである。これをどのように説明できるのだろうか。これは、デカルト哲学によって説明できるのではないだろうか。周知のコギト・エルゴ・スムであるが、これは、ドゥルーズが説くようにコギトとスムの間に亀裂・分裂、即ち差異を見るべきだろう。そして、この差異ないし矛盾・分裂におけるスム(存在)が個の特異性・単独性の基盤であると思われるのである。(ところで、近代主義の「狂気」とは、現象界の自我、即ち近代的自我におけるスム=特異性・単独性が捩れにあるのではないだろうか。)つまり、デカルト哲学のコギト/スムの差異が、現象界の個ないし自我において、特異性・単独性を内在させていると考えることができるのである。だから、イデア界に特異性・単独性が存するだけでなく、現象界にも存するという命題が証明されるのである。(デカルト哲学の問題は先にも触れたが、メディア界が排斥されたことである。このために、デカルトは、近代的合理主義の始祖ともなったのである。そして、排斥されたメディア界は、スピノザが掬い上げて、いわゆる心身並行論を打ち立てて、ポストモダンやポスト構造主義の先駆となったと考えられるのである。)
 さらに、この特異性(・単独性)=スムの問題について検討したい。先に私は、特異性は、不連続的差異そのものというよりは、不連続的差異の共立態総体ではないかと述べた。図式記号で言えば、dd1、dd2、dd3、・・・ddn(ddとはdiscrete or discontinuous differenceの略で、不連続的差異を意味する)というような個々の不連続的差異ではなくて、dd1/dd2/dd3/・・・/ddnではないかということである。つまり、イデア界総体である。なぜ、個々の不連続的差異ではなくて、イデア界総体が特異性となるのかと言うと、イデア/メディア境界(メディア界のイデア面ないしイデア界のメディア面)においては、不連続的差異は、個々としてというよりは、総体として存していると考えられるからである。
 ということで、特異性とはイデア界のことであるということとなった。だから、イデア界が現象界の個・自我において、内在し、いわば、半田氏が指摘するように顕在化しているのである。問題は、この内在しているイデア界が、個・自我において、どのように把握されるのかということである。イデア界は換言すれば、コスモスである。そして、特異性とはミクロコスモスである。だから、特異性・存在(スム)において、ミクロコスモスとマクロコスモスとの連結が生じているのである。この点では、神秘家は正しい。宮沢賢治は正しい。そして、D.H.ロレンスのコスモス論も正しい(キリスト教の崩壊である)。しかしながら、イデア界はデュナミス、「バッテリー」であるから、当然、エネルゲイア・メディア・エネルギー化するのである。イデア・メディア的エネルギー(簡単に、イデア・エネルギーと呼ぼう)となるのである(思うに、東方キリスト教で、神のエネルゲイアと呼ぶものがこれに当たるのではないだろうか)。このイデア・エネルギーが問題なのである。イデア界がデュナミス・特異性として存するときは、現象界の自我・個は、差異共立主義である。即ち、他者を特異性として見て、差異共立志向をもつのである。つまり、他者をも自己と同等のイデア界的存在として見るのである。(問題は、それは、理念・理論的態度であるが、実際は、他者は、多種多様であり、愚人、悪人、狂人でいっぱいである。だから、それに対しては、戦闘的ないし矯正的になるのが正しいのである。差異共立性とは、イデア界的特異性的差異共立性と見るのが正しいだろう。)
 しかし、イデア界がデュナミスではなくて、エネルゲイア・エネルギーとなったときは、そのようにはならないのである。つまり、差異共立主義から、自己絶対主義、自己尊大・傲慢化、権力・暴力化になるのである。思うに、アナキストのシュティルナーの唯一者は、そのようなもののように思える。そう、政治的にはファシズム化であろう。(D.H.ロレンスも、一時、そのように傾いた時期があったし、ニーチェも晩年において、「力への意志」でそのようになったと思うのである。)つまり、《力》の問題がここにはあるのである。
 では、何故、イデア界=特異性は、メディア・エネルギー化すると、権力化するのか。それは、必然なのか。つまり、本来、差異共立性であるイデア界はメディア界化すると、反動化して、自己権力化するという事態は、必然なのかという問題である。思うに、実際、メディア界においては、イデア界=特異性とメディア・エネルギーの反動性との両義性が生起していると思われるのである。つまり、両者のゆらぎが、メディア界に発生していると思うのである。即ち、dd1/dd2/・・・/dd3とdd1〜dd2〜・・・〜ddとの揺らぎである。そして、後者は、現象界のdd1−dd2−・・・ddnの同一性と連続するのである。
 ここで、2回の1/4回転の捩れを考慮すべきである。イデア界において、1/4回転から、メディア界が発生するが、それは、境界においては、イデア界とメディア界が併存している。しかし、2回目の1/4回転において、メディア界から現象界が発生するとき、その捩れにおいて、イデア界=特異性がまったく暗在・潜在・排斥・隠蔽化されると言えるだろう。つまり、現象界化において、イデア界は完全に隠蔽されるのである。現象界化において、直前のメディア界が隠蔽化されるだけでなくて、本源のイデア界が完全に隠蔽される(忘却される)事態が生起するのである。二重の隠蔽構造があるのである。しかし、1/4回転は、固定したものではなくて、さらなる回転、回転の持続が考えられるから、隠蔽は絶対的なものではありえないのである。つまり、現象界においても、なんらかの揺らぎが発生するのである。それは、メディア界と現象界との境界の揺らぎであろうし、さらには、イデア界とメディア界との境界の揺らぎであろう。二重の揺らぎの発生が考えられるのである。(芸術家や宗教家、哲学者や数学者は、この揺らぎが出発点であろうし、庶民の習俗・祭礼もここを無意識の基盤としているだろう。これは、コスモスの分節と関係しているのだろう。参考:二十四節気)
 以上の考察から、本論に戻ると、メディア・エネルギー化とは、必然的に反動化するのかという問いであるが、それへの答えは、否である。メディア界において、イデア界=特異性とメディア界=エネルギーとの極性が発生しているからである。そして、イデア界=特異性が正当に作動するならば、エネルギーは、反動化せずに、積極・能動的なものとなる。スピノザが述べた能動的観念による身体の活動的エネルギーとは、この積極・能動的エネルギーと関係しよう。ここで、図式的に整理しよう。

1.イデア界=特異性⇔2.メディア界=エネルギー⇔3.現象界=自我同一性(利己主義)

メディア界という中間態において、イデア界への志向と現象界への志向の極性・両義性があり、後者が主導的になると、メディア・エネルギーが反動化するのであり、前者が主導的になると、積極・能動化すると考えられるのである。ここで、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論と「アイロニカルな没入」論を想起するのは、適切であろう。つまり、ポストモダンがプレモダンに、リバタリアニズムが原理主義にアイロニカルに転化する事態のことであるが、それは、このメディア・エネルギーの反動化として理解することができるだろう。即ち、ポストモダンは、メディア界、《メディア》のエネルギーの発動・開放であるが、それが、現象界的志向が主導的だと反動化するということである。つまり、日本の場合は、戦後の似非アメリカ的近代主義によって、唯物主義/拝金主義という現象界的志向が主導的であるから、《メディア》の開放であるポストモダンは反動化するのである。小泉「改革」がそうである。そして、ライブドアもそうである。(ホリエモンの場合は、事情が少し複雑である。私見では、彼は、特異性をもっていたのである。しかし、それが、やはり、現象界的主導性のために、大反動化したのである。特異性があるゆえに、彼の反動は、超反動性と言えるように思うのである。一種精神分裂病的状態に彼は陥ったと思うのである。彼の言動から判断するとそのように思えるのである。つまり、特異性は、イデア界であるから、理想性をもつ。それが、ホリエモンの反逆的理想主義となったといえよう。即ち、老害の日本社会主義への反逆として、みんなが情報を共有してつながる社会への理想主義をもった。しかし、彼は、バブル以降の現象界的志向・拝金主義に染まっていたのである。だから、《メディア》の開放、メディア・エネルギーが大反動化・超反動化して、利己主義的に底無しに暗黒化したのだと思うのである。)
 以上の考察から、《力》の問題が明晰になったであろう。簡単・簡潔に言えば、《メディア》がイデア的志向性をもつのか、現象的志向性をもつのかが、《力》の様相を決定するということである。 前者ならば差異共立的志向性をもち、後者ならば反動・権力的利己主義的志向性をもつということである。これまで、何度も述べてきたように、現代資本主義、ポストモダン資本主義、差異資本主義は、イデア界的志向性をもつべきなのである。つまり、差異共立共創主義化すべきなのである。これで、ポスト資本主義となるのではないだろうか。(この点について、別に論考したい。)この点で一言付加すれば、資本主義は、利益追求を一つの本質意義であるから、現象界性を否定することは当然できない。問題は、ポストモダン資本主義は、イデア界的志向性を明確化しつつ、現象界的志向性を保持しなくてはならないということである。
 さて、最後に、不連続的差異と特異性の問題を考察したい。結局、両者はつながりがあるものの別の概念であるということになったであろう。多数・無数の不連続的差異の共立態としてのイデア界が特異性となるのである。もっとも、イデア界即特異性ではなく、イデア/メディア境界におけるイデア界が特異性であるということである。そして、この反動化は、きわめて危険であり、いわば、「超越神」化、即ち、専制・独裁化するだろう。全体主義やファシズムの危険があるのである。
 さて、これまで、不連続的差異としての《個》ということを言ってきたが、それは、ここでの検討から、不正確であったと言えるのではないだろうか。この問題は以前に解決したつもりではあったので、もう一度考察しよう。特異性とは、不連続的差異の共立態であるイデア界であることとなった。では、不連続的差異の共立態と不連続的差異とはどう関係しているのかということが問題となる。《個》において、イデア/メディア境界において、特異性が生起している。それは、積極・能動的な様相において、多数・無数の不連続的差異の共立態の発出である。すると、《個》において、その共立態の志向性ないしデュナミス・可能態が発出していると言えるだろう。つまり、共立態のイデア・エネルギーがそこに発出・発動していると見ることができる。このイデア・エネルギーは、不連続的差異の共立態をヴィジョンとしてもつ静かな精緻微細な知的志向性をもつイデア・エネルギーである。正に、イデア界のエネルギーである。だから、ここには、不連続的差異性の直観があると言っていいだろう。この直観が、現象界において、他者に適用されると言えるだろう。つまり、イデア界を現象界に重ねるのである。イデア界の不連続的差異という理念点を、現象界へ重ねるということである。これで、イデア界と現象界が一つの平面となるのである。しかし、この適用は合理論的なのだろうか。つまり、イデア界の不連続的差異を現象界の個に適用する根拠は何かということである。視点を換えて、個とは何かと問おう。個体とは何か。根本から考えると、イデア界において、1/4回転で、ゼロ化が発生する。このとき発生するメディア界は、ゼロ化の連結を帯び、不連続的差異が共鳴して連結するのである。つまり、不連続的差異は連続的差異へと変換・変形するのである。このとき、入れ子的な構造が生起すると考えられるのである。この入れ子構造は、フラクタル構造で呼べるだろう。つまり、メディア界において、不連続的差異がゼロ化して、入れ子・フラクタル構造を形成すると考えられるのである。この構造が、いわば、メディア構造が個体の原型であろう。そして、これが、さらに1/4回転して、現象的個体として発現・現出すると言えよう。だから、《個》とは、個体とは、本来、イデア界を内在しているのである。イデア界のゼロ化的変形としての《個》であると言えるのである。そう考えると、ここで提起した問題、即ち、不連続的差異を現象界の個体に適用する合理論的根拠は何であるのかという問題は、悪い問いではないかと思われてくるのである。そうではなくて、不連続的差異の共立態としてのイデア・エネルギーが特異性としてあり、それは、他者をも基本的に特異性として見るということではないか。つまり、特異性として、《個》が存するのであるから、当然、他者をも特異性の《個》として見るということではないか。すると、特異性とは、イデア界に存するだけでなく、現象界にも存するという私の直観は、不連続的差異の現象界への適用に拠るのではなくて、内在する特異性自体による特異性の共立性への志向性に拠ると言わなくてはならないだろう。特異性の民主主義的志向なのである。特異性の共民志向である。結局、不連続的差異の共立態であるイデア界のイデア・エネルギーである特異性が、他者を特異性として志向するという出来事が現象界に発生するということである。簡単に言えば、イデア界の可能態として、個体・他者を見るという志向性が根源的合理論的志向があるということである。つまり、他者とは、潜在したイデア界なのである。
 長くなったが、もう一点、不連続的差異と特異性について述べると、個々の不連続的差異というイデアは、それ自体で、特異性と言えるだろう。だから、不連続的差異の共立態としての特異性とは区別されなくてはならない。不連続的差異としての特異性を、とりあえず、ミクロ特異性と呼び、不連続的差異の共立態としての特異性を、マクロ特異性と呼んでおこう。即ち、ミクロ特異性の共立態としてマクロ特異性があり、これが、《個》となるのである。そして、伝統的には、《個》とは、ミクロコスモスである。ならば、《個》=ミクロコスモスとは、ミクロ特異性の共立態であるマクロ特異性を超越論的に内在していることになる。そして、イデア界の発現である、地球を含めた現象界である大宇宙マクロコスモスとは、《個》=ミクロコスモスに内在するマクロ特異性であるイデア界において、《個》=ミクロコスモスと一致すると言えるだろう。即ち、《個》=ミクロコスモスと大宇宙マクロコスモスとは、イデア界という共通の根源的基盤において、一致するということである。即ち、イデア界という根源界において、神秘学のミクロコスモス=マクロコスモスという概念は、正しいと言えるのである。
 そこからの問題は、マクロコスモスとしての現象界を、イデア界の倒錯した現象界である人間界に、イデア界的共立性をもたらすこと、現象・人間界をイデア界的に変容することではないだろうか。
 思うに、何故、イデア界が初めからイデア界的な現象界を創造しなかったかと言えば、それは、イデア界のもつ「歴史」性によるのだろう。それを進化と呼んでいいのだろうか。進展ないし高転ではないだろうか。イデア界の回転が螺旋的回帰・永遠回帰運動を生むのだろう。螺旋的進展化が、螺旋的イデア界史が、あるのではないだろうか。そう、《個》ミクロコスモスの、イデア的マクロコスモス化が、人間現象の目的なのだろう。《個》ミクロコスモスとして、共立して、マクロコスモスをイデア界的な共立態へと変容させることが、人間・人類のエンテレイケイア(終局態)なのだろう。
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西洋文明の終焉と新地球・ガイア文明の創造へ向けて:不連続的差異論という文理統一理論の創造
藤原正彦氏は、『国家の品格』(新潮選書)で、論理と情緒を対立させているが、私見では、知魂ないし知心魂ないし知心魂身体があり、心を中心に、知性の極と魂性の極がある。日常生活的には、知性ないし知心性を基軸にしている。つまり、知的合理性である。しかしながら、人間存在の基層・基盤・根源としては、魂性ないし心魂性があるのである。ビジネスは、知性ないし知心性をベースにするだろう。しかし、個としては、魂性ないし心魂性をベースにしないといけない。さらに、社会即ち、民主主義や「自由主義」(私としては、両者は、差異主義で括れる)の基盤は、心魂性の理念(イデア)化にあると思う。つまり、《メディア》の《イデア》化である。 
 とまれ、最初の問題に戻ると、藤原氏の言う「論理」とは、知性・知心性であり、「情緒」とは、魂性・心魂性、さらには、それの理念化・イデア化である。そして、「心」の両極的相補性として、それらを捉えることができるだろう。つまり、《メディア》としての「心」の両極相補性として包摂できるだろう。
 ところで、より根本的に考えてみると、「ダークエネルギー」である《メディア》が「心」の根源である。ここにおいては、《光》と《闇》が相補している。知性と魂性の相補性とは、本来、ここから発現しているだろう。しかし、知魂性と身体との関係はどうなるのだろうか。この問題は複雑である。基本から考えよう。E=mc^2(Eはエネルギー、mは質量、cは光速である)。《光》は、+と−の解をもつ。いわば、《メディア》解をもつ。しかし、現象化とは、+の発現である。+の《光》の発現としての現象界である。そして、+である現象界は、+−の《メディア》を1/4回転した領域である超越論界としてのメディア界に排斥・隠蔽しているのである。だから、知性は、+《光》であり、魂性は−《光》と言えるだろう。では、《質量》である身体はどうなのだろうか。これは+の解しかない。これをどう考えるべきか。作業仮説として、《質量》とは、ゼロ度連結・連続化における不連続的差異のいわば《濃度》ないし《密度》ではないか。ならば、エネルギーとは、差異の《濃度》(《密度》)とゼロ度化した《境界》の《力》(デュナミス)の二乗の積である。即ち、

エネルギー=差異濃度(密度)・ゼロ度境界力^2

である。
 ここで、先の心身の問題に返ると、《心》においては、相補性があるが、《身体》においては、それはないことになる。しかしながら、心身の相補性があると当然考えられるから、問題は単純ではない。簡単に言うと、波動と粒子の相補性とは、心と身体の相補性と換言できるのである。問題は、知性と魂性との相補性の意味である。ここでも直観で言おう。魂性とは実は、心身性である。心性と身体性との結節領域である。ヨガのチャクラに当たる領域である。だから、知性と魂性の相補性という考えは、不正確である。知性と身体との相補性があると言うべきである。そして、魂性は相補性の領域であるということである。また、《心》であるが、それは、魂性と知性との中間領域であるということになるだろう。

《身体》/《魂性》/【⇔《心》⇔/】《知性》

となろう。ここで、スピノザの心身平行論を考えると、その「心」は単に《知性》だけではなくて、《魂性》と《知性》との中間態である《心》であると考えられよう。
 では、+−の《光》とは何か。また、《光》とは何かである。単純に考えると、+《光》は知性である。では、−《光》とは何か。もはや、《魂》ではない。当然、《身体》でもない。それは、反世界の知性ではないか。そう、思うに、ダークマターの世界を形成しているのはないか。反現象界の知性である。ダークマター現象界の知性である。D.H.ロレンスが言った「暗い神」dark Godとは、この−《光》に相当するように思う。あるいは、《メディア》であるダークエネルギーであろう。
 ところで、そう考えると、心身相補性は2つの意味をもつのではないだろうか。+《光》の知性だけではなく、−《光》の知性があるから、二重構成となるだろう。つまり、2つの《魂》が存在するということだろう。つまり、2つの《知性》があり、2つの《魂》があるということだろう。この二重構成の知性・魂性をもつ《メディア》があると言えよう。ここで、私は《夢》の世界を想起するのである。あるいは、ファンタジーや想像力である。あるいは、ニーチェのディオニュソスのことである。そう、ルイス・キャロルの世界を想起するのがいいだろう。『鏡の国』の世界と反世界の二重構造を考えてみるといいだろう。あるいは、《ナンセンス》である。裏返しの世界、正反対・逆の世界がある。反転の世界がある。これと−《光》の世界が関係すると直感されるのである。−《光》とは、x軸で言えば、原点より左側の領域であるから、ルイス・キャロルの反世界は正に、それに相当すると考えていいだろう。メディア界であるy軸を鏡とすれば、y軸=鏡を通過して、−《光》・反世界に達することとなる。だから、−《光》は超越論的次元の彼岸にあり、+《光》の現象界からは完全に不可視、無、非存在である。おそらく、これがダークマターと関係するだろう。つまり、−《光》の反現象界がダークマターの世界であると考えられよう。
 ならば、問題は、+《光》・現象界と−《光》・反現象界は、対称的であるのに、どうして、現代宇宙論の分析にあるように、圧倒的にダークマターの方が通常の物質よりも多量なのかという問題がある。直感では、それは、《メディア》を介しているからだと思う。つまり、ダークエネルギーと考えられる《メディア》を介して、ダークマターを計算しているからではないだろうか。+《光》・現象界は、《メディア》界からの1/4回転で発生するのである。しかしながら、《メディア》界全体が、現象界として顕現・発現・顕在・明在化しているのではない。未だ、未発の《メディア》が存しているのである。ここから見ると、現象界に対して、《メディア》界は、エネルギーとしては、一種デュナミス(「バッテリー」)のようなものを内蔵・内包しているのである。現象界を創造する以上のエネルギーが蓄えられているのである。だから、当然、−《光》も現象界の+《光》よりも多大・過大に存するのであり、−《光》・反現象界であるダークマターは、現象界の《物質》よりもはるかに多量に存すると考えられるのである。しかしながら、ダークマターの考えは、仮定に過ぎないだろう。虚像である。ダークエネルギーである《メディア》の《レンズ》を介して、ダークマターという虚像を作っているに過ぎないだろう。ダークマターはシミュラクルである。それは、幻像である。ただ、ダークエネルギーである《メディア》が超越論的に存在していると考えなくてはならないだろう。
 さて、更に考えると、現象界を顕現させるよりはるかに過剰なエネルギー(=ダークエネルギー:作業仮説)をもつ《メディア》界とは何だろうか。私は、そこに、デュナミスという言葉を使用した。そう、これは、《イデア》界である。つまり、《メディア》界にある《イデア》界とは、《イデア》/《メディア》境界を意味すると考えられよう。未発のエネルギーとは、この境界エネルギーと見ていいだろう。思うに、結局、まだ、創造は終了していないのである。創造過程にあるのである。というか、永遠にイデア界の回転があると考えられるから、創造の永劫回帰があるということだろう。未発のエネルギーが永劫に発生するのである。そう、螺旋的に回帰する宇宙創造があるのだろう。ならば、ビッグバンとは一回ではないだろう。複数回あるはずである。ここで、マヤやアステカの神話やインドの神話が意味をもつのである。複数の世界・宇宙創造神話である。
 とまれ、より根本的に言うならば、どうして、イデア界が存在するのかということになるだろう。数学的構造をもつ理念界であるイデア界がどうして存在するのかである。なぜ、完全無ではなくて、差異が存するのか。「初めにロゴスありき、ロゴスは神とともにありき。そして、ロゴスは神であった。」プラトンは、善のイデアと言った。《イデア》界は善のイデアである。そう、思うに、《イデア》界は超光の《超電導》の元界である。《志向性》、《間主観性》の元界である。不連続的差異が無限速度の《志向性》=《間主観性》をもって共立・調和する大元界・大根源界と考えられる。《超光》の世界、《阿弥陀如来》=無量光の世界である。超叡智の世界である。ここでは、知即存在である。知即存在の《理念》の世界である。そう、初めに、叡智ありき、ソフィアありき。それは、数学的叡智である。数智である。マテーシス・ソフィアである。華厳宇宙に近い。そう、円周率・πの世界だろう。πソフィア、π叡智である。原時空間の数学的叡智が、初めにありきである。思惟/延長、時間/空間を包摂した数学的理念叡智であるイデア・ソフィアが初めにあるのだろう。この元叡智が、本来の《神》である。グノーシス主義で説く至高神である。そして、この至高神を、ユダヤ/キリスト教の『神』は、乗っ取ったのである。ユダヤ/キリスト教の超越神とは、本当は邪神・魔神である。それが、本当の《神》・至高神の王座・王位を簒奪したのである。グノーシス神話はその点では正確であると言えよう。創造神・デミウルゴス=ヤハウェとは、邪悪な神、悪魔なのである。ゾロアスター教で言えば、悪魔のアフリマンがユダヤ/キリスト教の『神』である。ユダヤ/キリスト教こそ、悪魔崇拝である。邪教である。【ここで、イスラム教について簡単に言及すると、それは、基本的には、イデア界の《神》を把握しているのである。ユダヤ/キリスト教とは、異質である。ヤハウェ崇拝ではない。ヤハウェとアッラーは別の神である。ヤハウェは悪魔である。アッラーは、本来、叡智神である。強く言えば、不連続的差異論の《神》である。ただ、人格神化しているだけである。】
 最後に、何故、数学的叡智が根源にあるのかという問に答えるならば、存在とは智であるからである。無知は存在しないのである。無知は無力、無能、無である。つまり、叡知即存在なのである。無知即不存在である。だから、何故、数学的叡知が根源にあるのかという問は悪い問なのである。初めに知即存在である数学的叡智があるということである。これが、思惟・知性を生み、また延長・存在を生むのである。存在より、数学的叡智の方が先んじているのである。叡智の後に、存在や知が発生するのである。「初めにロゴスありき、ロゴスは神とともにありき。そしてロゴスは神であった。」ロゴスは数学的叡智ということである。あるいは、数学・理念的叡智ということである。ピュタゴラス/プラトンは正鵠を射ていたのである。ユダヤ/キリスト教によって、世界は、退化したのである。
 一つ付け加えると、数学的イデア論(ピュタゴラス/プラトン哲学)の問題点は、《イデア》界と《メディア》界の分離が不明確であったことである。これによって、イデア論の皮相な理解が生まれたのである。不連続的差異論が、両者を明確に分化したのであり、これによってピュタゴラス/プラトン哲学は、完成したのである。これは、ポスト西洋文明、新ガイア文明の誕生を意味するだろう。ユダヤ/キリスト教は乗り越えられたのである。

参照: 2006年2月11日発行
『from 911/USAレポート』第237回
    「風刺画事件と静かなアメリカ」

http://ryumurakami.jmm.co.jp/recent.html
| sophiology | 20:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
不連続的差異論の《メディア》について
ODA ウォッチャーズ氏の《メディア》に関する理論化によって、不連続的差異論の新たな地平が開けたと考えられる。即ち、《メディア》が、文理統一の領域となったのである。例えば、文科系の「心」を、《メディア》と考えればいいし、同時に、理科系の量子も《メディア》と考えればいいのである。つまり、《メディア》が一方では、「心」になり、他方、量子となるのである。「物質」とは《メディア》の現象なのである。また、ここで、スピノザの心身平行論が、《メディア》論であることが判明するのである。思惟・「心」も《メディア》であり、延長・「身体」も《メディア》であり、両者、《メディア》を介して、平行していると言える。
 ここで、《メディア》の語源を見るのも意義深いだろう。mediumとは、霊媒、即ち、「霊」を媒介する存在である。結局、「霊」も《メディア》であると言えるだろう。なんらかの《メディア》が、霊媒に、伝導していると考えればいいのだろう。そう、連続的差異である多種多様な《メディア》が、シャーマニズムの正体ではないだろうか。アニミズムもこれで説明がつくだろう。多神教もこれで説明がつくだろう。
 因みに、一神教は、《メディア》が、同一性化するときに発生するものだろう。思うに、《メディア》の極性において、+極が強化された時が、一神教ではないだろうか。つまり、一神教とは、現象界の形成と関係しているのである。メディア界が1/4回転で捩れて、現象化するのである。この現象化において、メディア界が超越神となるのではないだろうか。旧約聖書において、ヤハウェが、偶像崇拝や自然宗教を禁ずるのは、この1/4回転による捩れを考えれば、当然ではないだろうか。何故ならば、それらは、《メディア》であるからである。現象化が《メディア》ないしメディア界を排斥・隠蔽するのであることと、超越神が、偶像崇拝や自然崇拝を排斥・隠蔽するのは同じことであると考えられる。そして、有名な「光あれ」は、正に、メディア界の1/4回転による《メディア》である「光」の+化であろう。このプラスの「光」・+「光」は、「背後」にマイナスの「光」・−「光」を排斥・隠蔽しているのである。「背後」とは、内在的超越性・超越論性の領域であるメディア界である。ならば、超越神とは、暗い神ではないだろうか。否、違うだろう。それは、「光あれ」と言語行為・発話した超越神は、やはり、「光」の神である。《メディア》の+の極性の「神」である。そして、その神は背後にいわば暗い神を排斥・隠蔽しているのである。D.H.ロレンスが説いた暗い神dark Godが、これであろう。つまり、−《メディア》、−「光」の「神」である。メディア界において、光の神と闇の神が相補性を成しているのであるが、前者が後者を排斥・隠蔽という二項対立の二元論が、一神教に生じているのである。これは、正に、揺らぎのない神である。超越的善悪二元論である。これは、きわめて危険な神である。殺戮的神である。暴力・戦争・権力の神である。父権制の神である。結局、現象化・一神教が、近代主義へと展開したのである。主客分離二元論とは、現象化・一神教化の帰結である。だから、ポスト近代主義とは、ポスト一神教、ポスト西洋文明となるのである。
 ポスト近代主義とは、《メディア》を解放したのである。当然、「神」・超越神の死である。問題は、《メディア》の解放の意味である。+と−、存在と非存在の両極的「存在」としての《メディア》があばかれたのである。いわゆる、ポスト構造主義、即ち、デリダの脱構築主義やドゥルーズ&ガタリのリゾーム論は、《メディア》論なのである。これらは何を意味するのか。これは、物理学者ボームの述べた暗在系や内蔵秩序論や、マイケル・ポランニーの暗黙知の次元に関係すると考えられる。ODA ウォッチャーズ氏が明らかにしたように、現象界のx軸と直交するy軸としてのメディア界の「存在」の発見である。そして、これは、現代宇宙論のダークエネルギーの領域と考えられるのである。また、ダークマターとは、マイナスの《メディア》、負の《メディア》として、捉えられるのかもしれないが、しかしながら、量の過大さから見ると、ダークエネルギー総体においてダークマターを見た方がいいのかもしれない。
 まとめると、《メディア》の発見とは、文理統一論的な内在的超越性、超越論性の暗在領域の発見であるということである。そして、ポスト一神教であり、新多神教を意味するだろう。新母権制・新ガイア・コスモスの時代を意味するだろう。
 とまれ、ここで、《イデア》のことを考えなくては、不十分である。《メディア》の発見とは、逆に、《メディア》による権力が発生したということである。《メディア》は《力》である。《エネルギー》である。《メディア》は、「心」である。人の心を乗っ取るのである。あるいは、《メディア》は反動化すると言ってもいい。《メディア》は危険である。極めて危険である。思うに、指輪物語の「指輪」は、《メディア》を指しているのではないだろうか。あるいは、聖杯伝説の「聖杯」も《メディア》を指しているのではないだろうか。あるいは、秘教・神秘学における「知識・グノーシス」も《メディア》であろう。あるいは、オカルト主義も《メディア》であろう(占いや西洋占星術は、《メディア》によって説明できるだろう。つまり、連続的差異の等分割法則が、それらになったと考えられるのである。《メディア》的合理性があると考えられるのである)。これらは、悪用されると大変ことになるので、本来、秘密にされてきたのである。「黒魔術」である。《メディア》の解放であるポスト近代主義・ポストモダンには、恐ろしい危険性があると言えよう。いわば、悪魔化するのである。近代主義も悪魔化であったが、ポストモダンの悪魔化は、人心の支配という点にある。洗脳・マインドコントロールである。ここで、オウム真理教、創価学会、パフォーマンス屋の小泉首相、ITメディアのホリエモン、等を想起していいだろう。これらは、ポストモダン現象なのである。ポストモダンの反動化現象なのである。ここにあるのは、《メディア》の現象化・反動化である(参照:大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論)。《メディア》が現象化するときに、捩れて、自我同一化するのである。つまり、個人は超越神になってしまうのである。麻原彰晃、池田大作、小泉首相、ホリエモン、他は超越神化したのである。いわば、現人神になったのである。救世主、イエス・キリストになったのである。あるいは、《メディア》が憑依したとも言えるのではないだろうか。(思うに、暴力団とは、やはり、《メディア》の現象化・反動化によるのではないだろうか。その暴力団のヒエラルキーを見ても、それが、宗教集団と似ていることがわかるだろう。一神教化があるのである。)
 ということで、《メディア》に対する《イデア》化が必要なのである。それは、不連続化である。《メディア》が現象化するときに発する一神教化・反動化をそれを回避することができるのである。つまり、《イデア》化とは、反現象化であり、理念化である。これによって、《メディア》は、不連続的差異的多元化されるのである。つまり、「多神教」化されるのである。新多神教化である。現象化という超越神・一神教化を「免疫」して、《イデア》化という不連続的差異的多元化・「多神教」化をするのである。個人は不連続的差異的個・特異性の個となり、新しい民主主義の地平が開けているのである。
 日本・ヤポネシア民族・文化・社会であるが、それは、衰退、衰弱したとは言え、多神教の心性を残存させている。そう、多神教的心性とは何か。それは、《メディア》を現象化させない心性である。日本人の場合、《メディア》が「心」となっているだろう。これはいわば、正に伝統的な、無意識的な心性であろう。この「心」の日本・ヤポネシア文化は、それを、理論・言語化していないのである。意識・認識・知性化していないのである。推測するに、古代日本、あるいは、前古代日本には、なんらかの《イデア》の文化があったのである。それが、時代とともに忘失されていったのである。しかし、いったん存在した《イデア》の文化は、日本人のいわば血や生活世界となったのだろう。そして、それの象徴が「心」であろう。これは、知的に科学的合理性にも向うし、魂的に宗教性にも向うのである。《イデア》的《メディア》である「心」は、知魂性をもっているのである。
 しかし、この伝統文化が、脱亜入欧、戦後アメリカ文化化で、ほとんど喪失されるに至ったのが現代・現在である。ポストモダン革命によって、いわば、《メディア》の禁制が解かれたのである。《メディア》の現象化・反動化ではなく、《イデア》化として、日本・ヤポネシア多神教の復活が意味をもってくるのである。思えば、不連続的差異論が日本で誕生したのは、このようなことと関係するだろう。即ち、日本・ヤポネシア的多神教=《イデア》的《メディア》文化・社会が、無意識のうちに、日本人の心性に存在しているのであり、それが、ポストモダン革命によって、開花したのである。

参照1:ODA ウォッチャーズ氏による《メディア》の哲学・数式化:

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=117221

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=117790

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=118255

http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=119655

http://blog.kaisetsu.org/?eid=314624


参照2:大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論

http://blog.kaisetsu.org/?eid=291995

http://d.hatena.ne.jp/kaisetsu/20060113
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