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父権自我精神力学の解明:父権-陽自我は反動反射的暴力衝動をもち狂気化する
JUGEMテーマ:学問・学校

父権自我精神力学の解明:父権-陽自我は反動反射的暴力衝動をもち狂気化する

テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合 先に以下を書いたが、まだ、直観的に不分明であるので、さらに検討したい。
 陰陽図を用いて考察していく。


        
         http://gaiax3.ti-da.net/e4240444.html

問題は先に述べた父権自我の否定衝動化、否定自動化(オートマティズム化)の力学である。
 父権自我又は陽自我の同一性力学はどのようなメカニズムなのだろうか。私は「陽の中の陰」に抑圧力学を見た、陰と陽との境界にココロがあると考えたのであり、そうすると、境界面に対して抑圧が作用しているということは可能性がある。
 どちらが正しいのだろうか。それとも、両方が正しいのだろうか。
 どうも、両方が作用していると観るのが正しいように思えてきた。
 つまり、陽の中の陰は当然、本体の陰と結びついている。
そして、陽の同一性力学を受けて、陰を抑圧するのである。
 この陰に対する抑圧であるが、それは、陽の中の陰を介するにせよ、結局は、陰本体にはたらくのである。
 それは、当然、ココロの境界面に対して、抑圧するということになるだろう。
 ということで、父権自我、陽自我の、陰に対する同一性的否定・抑圧は、陽の中の陰とココロの境界面の両方に作用するということになった。これを、現時点での、仮説とする。
 さて、父権自我、陽自我の否定衝動、否定自動化についてであるが、先に心理学者ユングの中年の危機の説を借りて、精神の成長の二段階を考えた。つまり、 成人に成長する過程は陽主導であり、その後、中年へと推移するにかけて、精神の力学のいわばベクトルが逆転して、陰主導になると考えるのである。
 つまり、若いときは、陽自我、父権自我が主導するのであり、これは、能動性の形成という点では、重要な意義があるだろう。
 そう、動物性の形成とも言えよう。攻撃性とも言えよう。
 しかし、その後、精神力学のベクトルが交替して、いわば、陰ベクトルが主導化すると考えられるのである。
 陽から陰への転換である。陽エネルギー(陽の氣)から、陰エネルギー(陰の氣)への転換である。 
 陽主導のときは、陽の中の陰の要素が比較的少ないと考えられる。つまり、陰は強い抑圧の対象にはならないと考えられる。
 敵が弱小ならば、攻撃するに及ばないというような感じである。
 しかし、陽主導でありながら、次第に陰陽生成は、陰の力を強化すると考えられる。そして、ついには、陰主導へと転換するということになる。
 とまれ、陰の力の強化に対して、陽自我、父権自我は、否定、抑圧の力動を行使し出すと考えられるのである。
 そして、この抑圧力学において、反動として、精神暴力性が生まれると考えられる。抑圧以前においても、精神暴力はあるが、それは、反動ではない。能動で ある。あるいは、ストレートな能動性である。もちろん、攻撃性もあるが、反動のような反射性はないのである。つまり、反動は、主体的ではなく、他者反応 で、受動である。
 さて、この反動反射性をもつに至った陽自我・父権自我であるが、この反動反射性こそが、暴力・攻撃的衝動性、発作性、自動性(オートマティズム)をもつと考えられる。
 このオートマティズムを父権自我・陽自我はコントロールできないだろう。
 何故なら、無意識の内に、反動反射的暴力衝動性が発現するからである。自然の一つの理なのである。
 しかし、これを剥き出しにすれば、ホッブズの万人に対する万人の戦争状態になるのである。
 ここで、仁倫、叡知、文化の問題が出てくるのである。
 人類は、父権化する以前の母権制において、陰陽調和の文化をもっていたと思われる。それは、男性がもつ攻撃性を鎮める叡知的システムであったと考えられる。
 しかし、父権制が形成されると、攻撃・暴力性が剥き出しになってくる。しかし、そのとき、社会統制のための何らかのルールが形成されたと言えよう。法律であり、共同体の掟、宗教等である。
 しかしながら、近代になると物質主義が中心化して、父権制を統御する文化システムが崩壊する。
 この精神統御システムの崩壊において、上記の父権自我・陽自我の攻撃・暴力的衝動・発作が生まれるのである。
 闇であり、魔であり、狂であり、である。闇・魔・狂である。
 近代は陽文化であり、陰文化を喪失している。(本当は、陰文化があるのであるが、陽文化に圧倒されている。陽文化主流であり、陰文化は傍流であるが、しかしながら、後者に未来があるのである。)
 陰文化が陽文化、つまり、父権自我、陽自我をコントロールする叡知をもつのであるが、それが、マイナーであるために、父権自我、陽自我はいわば、野放し、野性、放縦状態なのである。
 言い換えると、父権自我・陽自我は、自分の反動反射的攻撃・暴力性に無意識なのである。
 さて、ここで知性ないし理性の問題に触れると、父権自我・陽自我は言語能動性をもっているが、言語能動性自体は知性ではない。
 知性は他者、陰他者との相互関係から生まれると考えられる。他者、陰を肯定しないと知性ないし理性は形成されないと考えられる。
 しかし、父権自我・陽自我は、他者を否定・抑圧・排除・隠蔽するのであるから、知性は形成されないということになる。
 そう、言語能動性をもつので、知識はあるだろうが、知性は欠落すると考えられるのである。
 例えば、ある事態・事象に対して、父権自我・陽自我は、自我観念をある事態・事象に対して、抑圧的に提起するのである。
 その事態・事象自体を見るのでなく、自我観念を適用するのである。この自我観念が一見知性のように観えるが、実は、知識に過ぎないのである。
 これは、一種の妄想である。妄念である。そして、この父権自我・陽自我が強化されると完全に妄想・妄念の世界、つまり、狂気の世界に入って行くと言えよう。
 知性ないし理性から逸脱した妄狂魔の世界に入るのである。
そして、これが、今日の某国の支配・権力層の精神世界なのである。(参考:安倍ポツダム宣言否定、国民生活に死活的な影響が生じる!歴史的国際秩序への挑戦!山崎 雅弘氏 (05/24)  今日の物語F )また、比較的若い日本の女性(一部)の精神世界なのである。
某国の科学者が出鱈目なのも、この父権自我精神力学にあると言えよう。父権自我知識表象はあるが、他者的知性・理性が欠落しているのであり、暴妄狂魔化するのである。
 

父権自我の二項対立形式のオートマティズム力学:陽から陰への転移力学:陰衝動に対する衝動的二項対立

テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合
先に以下を書いたが、今一つ、直截性に欠ける。
 結局、二項対立の自動性の力学の明確化である。
 心理学者のユングは中年の危機を指摘していた。
 その考えを敷延するなら、精神プロセスにおいて、初めは、陽主導であるが、ある時点から陰主導に転換すると思えるのである。
 陰主導へと転換したとき、それまでの精神力学では対応できないと考えられる。何故なら、それまでは、陽のエネルギーが主導的であったが、そのとき、陰のエネルギーが主導的になるからだえる。
 つまり、陰が賦活されるのであり、そのため二項対立力学は、いわば、新たな挑戦を受けるのであり、抑圧していた陰が活性化するので、それに対抗して、陽の抑圧が強化されると考えられる。
 つまり、陰の賦活とは、陰エネルギーの力動化であり、そのため、陽は不自然な抑圧体制を構えると思えるのである。
 つまり、陰陽図で言えば、陽の中の陰が賦活され、情動化するが、それに対して、陽自我が情動的に抑圧、制圧を行なうと考えられる。
 陽の中の陰の衝動に突き動かされて、陽自我は、抑圧を衝動的に行なうと考えられる。この抑圧衝動こそが、二項対立のオートマティズム化・自動化の原因と考えられるのである。
 そう、知的コントロールではなく、衝動的抑圧なのであり、そこには、不合理性が主導的なのである。いわば、狂気である。
 これで、本件の解明は深まったと考えられ、ここで留める。
 

比較的若い日本女性の父権自我化の力学について

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史
日本の女性の高慢さの力学の分析は必要である。
 端的に病的である。病的な高慢さ、慢心さである。「うつ病」予備軍である。
 とまれ、分析を試みたい。
 他者性、陰他者性、差異がない。また、当然、ココロを抑圧するのである。
 明らかに、陽自我中心主義である。
 先に以下の画像を活用して説明した。
 

父権自我(二項対立主義)の精神暴力力学について:陽自我は陰他者を憎悪し殲滅を目指す


http://gaiax3.ti-da.net/e4240444.html

陽の中の陰が陽自我の情動性であると見たのである。
 そして、陰(陰他者)の領域は抑圧されるのである。
 そう、問題にしたいのは、父権自我の自動性、機械的反射性、オートマティックな反射性である。
 二項対立性が自動化、反射化しているのである。
 他者に対して、二項対立的反応が反射的に発せられるのである。
 そこでは、他者の言への吟味はなく、ただ、否定、排除、威圧という反応があるだけである。
つまり、知性を欠いた二項対立の枠組みの反応なのである。二項対立形式の自動的反応なのである。
 このオートマティズムの力学を解明したいのである。
 とまれ、父権自我は二項対立の型があり、自我は他者に対して、優位であると独断形式(カント的に言えば、超越論的形式)があるのである。そう、一種の先験形式である。
 ここには、他者、差異がまったくないのである。
 さて、上の陰陽図であるが、ココロというものは、陽と陰との境界に存していると思われるのである。
 そして、父権自我にはこの境界が欠落していると思われる。
 正確に言うと、陽自我の同一性によって、この境界が排除されていると思われるのである。
 簡単に図示すると、

      陽自我
____↓↓↓____
 
     境界(ココロ)
___________

     陰他者領域

このような力学である。
 ↓は否定、抑圧、排除、隠蔽の力学である。
 そして、オートマティズムであるが、それは、上の陰陽図の陽の中の陰から発しているのではないだろうか。
 ここが自我情動-力動の発動源のように思えるのである。
 今は思考実験的に言うが、陰他者を抑圧しているので、その反動として、陽の中の陰が情動化、力動化するように思えるのである。そして、それが、オートマティズム化していると思えるのである。
 つまり、これは、端的に、自我の闇-魔-狂である。
 他者に対して、いわば、反射的に、この陽の中の陰が二項対立形式の暴力力学を発動させるように思えるのである。
 後でさらに検討したい。
| sophiology | 14:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
凹i陰*凸i陽⇒±1の±1について再考:±1ないし実軸は量子ではないか
久しぶりの投稿です。

JUGEMテーマ:学問・学校
 

凹i陰*凸i陽⇒±1の±1について再考:±1ないし実軸は量子ではないか


テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合
 
先に(参照記事)、−1=重力、+1=光子に関して、それらは、純粋物質ではなく、高次元と物質との境界存在ではないかと述べた。
 しかし、実軸については、それを原子の領域ともとっているのである。つまり、−1=原子核、+1=電子である。
 だから、やはり、±1は物質、純粋物質、あるいは、量子ととるのが的確なように考えられるのである。
 また、これまで考察してきたように、実軸、重力、光子、原子、量子には、高次元の氣が浸透しているということになる。
 つまり、純粋物質と言っても、なんらかの氣が浸透しているということになる。ただし、生命体、自然現象になるには、氣における有機体的情報が必要である。単なる物質の場合は、そのような有機体的情報が欠けていると考えられる。
 とまれ、現時点で見ると、量子論というのは、陰陽ガウス平面における実軸の領域だけを扱っているのであり、虚軸の本来の氣の領域を対象にしていないということになる。
 しかし、量子の領域である実軸には、氣が作用するので、量子の「不思議な」現象が観測されるのである。
 例えば、先に検証された、光子の非局所的相関のような現象である。根本的には、量子の粒子と波動の二重性という現象である。(電磁波は、氣の物質的映像であると考えている。)
 とまれ、以下の実軸とは高次元と現象界の境界という視点は、それ自体は間違っていないと言えよう。
 そう、純粋物質について言えば、やはり、実軸の領域は純粋物質というよりは、量子的物質と見るべきだろう。あえて言えば、氣的物質である。あるいは、メディア的物質である。
 純粋物質はやはり、直近において見たように、±jklを純粋物質と見るべきであろう。
 以下、陰陽GPQ(ガウス平面ー四元数)図を上記の視点で書き換えてみる。


     虚軸(凸i*凹i):氣の領域
            ↓
            ↓
            時
            間
            ↓
            ↓
−1(重力)・・・・・・MP(霊)・・・・・・+1(光子) 量子領域
           ↙↓↘
         ↙  ↓  ↘
       ↙    ↓    ↘
     ↙      ↓      ↘
   j軸       k軸       l軸
 
       三次元現象空間領域


 陰陽ガウス平面/四元数世界図
 

思考実験:自然現象発生メカニズム:(凹i陰*凸i陽⇒)±1=⇒が原生命で、±jklが純粋物質

「図示すれば、=⇒±jklが宇宙や生命体である。ここに、太陽系や蔓植物が生成しているということになる。
 もう少し考えると、原生命である±1=⇒が±jklを帯びたときが、物質現象化するということではないだろうか。
 すると、物質、純粋物質とは、±jklということではないだろうか。
 これは、原生命の±1=⇒とはまったく別の存在である。
 氣ないしエーテル体とは、±1=⇒であるが、±jklは純粋物質ということになる。 」

***************************

参照:

陰陽ガウス平面の実軸とは高次元と現象界との境界ではないだろうか

テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合

先に以下にあるように、「・・・理論的には、±1が純粋物質である。そうすると、+1の純粋物質と−1の純粋物質があることになる。それらは何か。これまでの仮説からは、+1が光であり、−1が重力である。」と書いた。
 しかし、重力は物質なのだろうか。また、光も物質なのだろうか。物理学では、光子には、質量がないのである。
 物質ならば、質量はあるはずである。
 ということから、推測するに、重力や光は物質というよりは、高次元の氣と物質との境界存在ではないだろうかということが考えられるのである。
 そうならば、陰陽ガウス平面の実軸とは現象界、物質界というよりは、高次元の氣界と現象物質界の境界を意味するのではないだろうか。
 分かりやすく言えば、重力と光には氣が浸透しているのではないだろうか。
 今はここで留める。
| sophiology | 10:48 | comments(0) | trackbacks(0) |

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