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氣の捉え方:氣の気付き方:氣が心身の本体である:お釈迦様の掌の内にあるようなものだ

JUGEMテーマ:学問・学校
 

氣の捉え方:氣の気付き方:氣が心身の本体である:お釈迦様の掌の内にあるようなものだ


テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性
 
氣は誰でも本来備えていると思うが、氣の存在に気付かないことがほとんだと思う。
 私のことを考えると、子供の頃からずっと氣を感じてはいたが、気付かなかったのである。
 気功の真似事を、四半世紀前にやってみたが。確かに、氣らしきは感じたが、あやふやだった。
 はっきり、氣の存在に気付いたのは、東京に20年以上住んでいて、農村地帯にある実家に、介護でもどって、部屋にいたときである。部屋の空気に東京にはないものを察知したのである。
 これは何だと思った。何か部屋にあるのである。部屋の中になにか充満しているものがあるのである。
 これが氣ではないかと思ったのである。そして、その後、氣を意識するようになったのであり、経験的な確認作業をするようになったのである。
 今では、森氣浴する中で、森の氣を感じるようになったのである。
 思うに、ずっと、東京暮らしをしていたら、氣の存在に気付かなかったと思う。東京という氣のない空間と農村地帯の氣に満ちた空間のギャップによって、気付いたと思う。
 そう、逆に、農村地帯だけに住んでいたら、氣があるのが普通であるから、氣には気付かなかっただろう。
 また、日本語には、気が有り過ぎて、逆に、気に盲目なのだろう。
 しかし、一般的に、氣に気付かないのは、認識論から説明できる。自我的思考(利己主義的思考)をすると、氣を排除することになるのである。あるいは、氣を抑圧すると言ってもいいだろう。
 だから、近代的自我思考あるいは近代合理主義が支配すると、氣はあっても、排除して、無意識化してしまうのである。(肚の形成であるが、これは、氣を肚に降ろすことかもしれない。)
 話は少し飛ぶが、ハイデガーが『存在と時間』の中で、世界内存在とは、気遣いのようなことと言っていた。
 確かに、気遣いは、社会生活における氣の働きだと思う。しかし、それは、形而下的で、氣のもつ形而上性は失せている。
 朱子の理気論の氣も形而下的である。
 でも、どうして、形而上性が失せてしまうのか。
 氣が励起されたとき、明らかに、形而上性が生じるのであるが、それは、一時の非日常経験として捉えられてしまい、平静時の氣には形而上性はないと思ってしまうのではないだろうか。
 私は森氣浴経験を重ねることで、氣の形而上学性の確認をし続けている。

追記:結局、灯台下暗しである。氣が空気のように心身に大気(自然環境における)に充ち満ちているので、つまり、有り過ぎて、気付かないということのように思える。
 それに近代合理主義が加わったので、尚更になったと言えよう。 
 そう、言い換えると、いわば、お釈迦様の掌の内にいるので、お釈迦様=氣に気付かないと言えよう。

追記2:日本の支配層・権力層は、父権民族で、利己主義であるので、氣が排除されて、国民への気遣いがないのである。
 また、母権民族の国民は氣がいいので、支配層の邪氣に気付かないとも言える。
| sophiology | 13:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
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